エピソード23 居場所のない研究室
「長らくお疲れ様でした」
「本当に………君こそ影の功労者だよ。こちらこそ、この研究を完成させてくれてありがとう」
「今夜は祝杯ですか?」
「君も案外、お酒が好きだね」
「先生ほどではないですよ?」
明治時代の文学者の日記が一冊、3年前に発見された。
それにともなって、公的な研究資金とそれを運営・研究するチームが組まれ、私が助教授時代のゼミ生であり、今は地方で司書をしている
その甲斐あって、いよいよ明日、文豪としてしられる畠山秀夫のドイツ留学中での出来事とその心情などを体系的にまとめた論文を学会へ提出する。
「先生、ご感想は?」
「そうだね、まさか畠山が本当はフランスへ行きたがっていたとは、後の小説にも出ていない。しかしよくよく読み返してみると、すんなりパリの地図と当てはまる舞台であるなど、なかなか興味深かったね」
「日記が無ければ、まったく信じられない話ですよね」
「本当だよ」
私たちはまず、彼女の言った通り、この日記が正真正銘、明治の文豪のものであるかどうか、その真贋から分析する必要があった。
その点、この日記は史料としても十分すぎた。しっかりと切符まで一緒に保存されており、これほどまでに記録性の高い日記は、平安時代までくだろうとも、そうそう無いと言えるだろう。
ともかく私たちはあらゆる面で幸運であった。彼女がチームに参加してくれたその時から。
助教授から准教授になるための研究を支えてくれたのも彼女だった。もしかすると、今度の研究は、教授になることへの支えとなるかもしれないと思うと、いやはや、縁というものを考えずにはいられない。
「先生はどうして独身なんです?」
「研究道楽に奥さんを巻き込むのは気が引けるからね。きっと50代になっても、その先も、結婚はしないだろうな」
「できない、でないのを思うと、結構おモテになられるんですね」
「国文出身はこれだから困る」
すっかり大人になったはずの彼女がいたずらっ子のように微笑むのをみるのも、この職の醍醐味だろう。
この3年、思い返せば長いようで早かった。愛おしいという思いは、やはりいつまでも職業ではなく道楽的に研究を行っているからだろうな。
「きっと、子どもっぽい人じゃないと大学で研究はできないんでしょうね」
「そうかな?」
「司書をしているとよく感じます。子どもか大人の両極しか相手できないですから」
「なるほど、司書さんも大変だね」
「ええ、研究者になれば良かったかもしれないなと思うくらいには」
「今夜はゆっくり休んでくれよ。明日は教授会にも持っていく必要があるのだからね」
「はいはい、先生もね」
*****
「…………説明しろ」
翌朝、論文のデータは何者かに盗まれていた。それ自体は理系でない分、被害はマシで、今回のようなケースは、史料と揃って提出しないとその効果を示さないので、結果だけを携えた論文は無価値だ。
問題は、日記のページがいくつか散逸していることだ。
そしてその内の一枚の破片が、彼女のバッグから見つかったのだ。
状況証拠とは言え、信じがたくも尋問せずにはいられない。
だが当人は意外にもケロッとした様子で、淡々といつも通り話していた。
「きっと先生に教授になってほしくない人が仲間割れさせようとしてるんですよ」
考えられなくはない。でも誰が。
時間は刻一刻と過ぎ、出世欲の薄い私でさえ、この失態の影響に怯えざるをえなかった。
「でも、良かったです」
「何がだ!?」
「証拠となる一部が偶然、私のカバンに入れられていたなんて。これが『三月五日。大福をお隣さんに戴いた。』とかだと、それこそ捨てたくなりますしね。それに…………これで私たちの三年間は忘れられないものになりますし」
「皮肉だがね」
「皮肉なのは論文の方ですよ。私たちの日々が、たった数万文字に収まるだなんて。まるで神童と崇めるだけで、その子を産んだ両親がないがしろにされてるみたいで」
「分からなくはないが……」
いら立っているのは彼女も同じ、か。
「すまなかった、疑うようなことを聞いて」
「疑ってなかったと?」
「君という人は」
******
「今度こそ説明してもらおう」
紛失した晩、インターネットで無料公開された一つの論文。
それは紛れもなく私たちが、いや、論文に関しては私が執筆したのと同じものだった。
「私、今回の一件で、先生ともっとお近づきになりたくなったんです。でも先生は有名大学の准教授。かたや私は地方図書館の司書。まったく釣り合ってません。だから私は研究に参加するという幸運を信じて、研究者の道を考えてみました。でも………でもそれだけじゃダメだって事がこの3年で分かったんです。先生には恋人も奥さんも居ないけど、その隙間は研究に埋められてるって」
――だから私、先生の
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