四月の二日、フルーツのかほり
つるよしの
#1
4月が始まって2日目。晴れた日。
私は新宿東口駅前アルタ下で人を待っていた。ビルの上にある大きなモニターでは、どこかのチャンネルのバラエティ番組の宣伝が、大音量で繰り返し流れていて、TVが苦手な私には少々、いや、大層鬱陶しい。私はそれから気を逸らすかのように、流れる人波を見つめる。
「新宿アルタの前で待ち合わせなんて、いかにも昭和生まれの人っぽい発想だよなあ……」
私は独りごちる。新宿で会おう、といわれたとき、私は最初、待ち合わせ場所に駅近のスタバを指定したのだ。すると、こう言われた。
「そんな洒落た場所、俺にはそぐわないよ。もう少しわかりやすくて、行きやすい場所にしてくれ」
「でも……私、新宿、そんなに詳しくないし……」
「じゃあ……」
そう、じゃあ、の後言われた指定場所が、私の立っているこの場所だ。
「そこしか分からないんだ。俺の世代だと、新宿の待ち合わせ場所っていえば、そこだから」
そう言われて、私はその「世代」という言葉に、自分と相手の歳の差を、今更のように感じた。本当に、今更なのだけれど。
……今日は春の陽気だ。私の格好も、思い切って春らしく、檸檬色のワンピースにベージュのトレンチコート。それに紺のパンプスを合わせた。すぐ私に気づくだろうか。こんな格好で逢うのは初めてである。そりゃ、そうだ、いつも、今までは、制服だったから。グレーのジャンバースカート、白シャツに赤いリボン。だが、3年かけて漸く着慣れたそれを、この春、私は脱ぎ捨てたばかりであった。
「よう」
人混みのなかから、唐突に聴き慣れた声がして私は我に返った。そこには、待ち合わせ相手の、金澤先生が立っていた。いや、もう、先生ではない。なら、どう呼べば良いのか。流石に下の名前で呼ぶ度胸は、ない。仕方なく私は言った。
「先生、遅かったですね。15分過ぎてますよ」
「いやすまん、少し前には着いていたんだ。けど、その今日の怜奈の格好じゃ、すぐ分からなくてな」
怜奈、と、さらっと、私は下の名前を呼ばれ、思わず先生の顔を見た。相変わらずの無精髭に、銀縁眼鏡。その表情は、何処か、苦笑い気味。格好といえば、白のシャツに茶のジャケットとチノパンといった軽装だ。流石に今日は白衣は着ていない。当たり前だけど。……だって、もうここは、高校ではないのだから。
そして、私たちも、もう、教師と生徒ではない。
物理教師である金澤先生と、私が、関係を持つようになったのは、高2だった冬、つまりは昨年の修学旅行がきっかけだった。
修学旅行の行き先は、毎年代わり映えのない、会津若松でのスキー合宿。私はこれが死ぬほど嫌だった。スキーの経験は、ある。それは小学生の時、子ども会の「みんなでスキーを楽しむ会」でのことである。いわゆる地域の子どもたちによる日帰りのスキー旅行である。ここでの経験が、まずかった。ただでさえ運動神経の悪い子どもだった私は、どんどん上達していく友人たちの横で、ボーゲンすらままならぬまま、雪と格闘し、仕舞いには転げて雪まみれになった姿を皆に大爆笑された。それ以来、スキーは私にとってトラウマなのである。
このたびの旅行でも、私は初心者の組に入れられ、悪戦苦闘する羽目になった。ひとり、またひとりと、クラスメートは上のクラスに上がっていったが、私と言えば、全く悪夢の再来としかいいようが無い状況で、しまいには初心者クラスは私1人になっていた。そして、そのクラスの担当が、先生だったのだ。先生は、文字通り、手取り足取り、私にスキーの基本を教えようと頑張ってくれた。だが、私はどうにもそれに応えようがなく、合宿の時は流れていった。
旅行最終日、いまだに板を履いて立つことさえおぼつかない私に、先生は言った。
「松永、最後だし、リフトで上まで行かないか。先生がサポートするからさ」
そう言われて、私はおっかなびっくり、2人乗りのリフトの椅子に滑り込む。そして、先生は隣に座った。雪山を上昇していくリフトの上で、私は、その情けなさから、既に半泣き状態だった。すると先生が言った。
「俺もさ、スキー苦手なんだよ。教えといてなんなんだけど」
「……え?」
「そりゃさ、若い頃はよく仲間でスキーに行ったさ、あの頃の冬の娯楽っていえばスキーがお決まりだったからな。だけどさ、俺、下手すぎて、それが原因で結婚するつもりだった彼女にフラれたんだよな」
リフトは白の世界の中をゆっくりと私たちを上へ上へと、連れて行く。それに揺られながら、先生の思わぬ告白は続く。
「だから、スキーなんて二度としたくなかった。それが何の因果か、教師になんぞなったおかげでこのザマさ」
私はただ、無言で真白な視界のなか、先生の、白く曇った銀縁眼鏡の横顔を見つめるのみだ。
「それはともかく……なあ、松永、スキーなんて、できなくても、人生には何の問題もない。この浮世離れした白い景色を見て、ああ、綺麗だったなあ、その思い出さえ胸に残して帰れば万事オッケーだ」
……その言葉に、私の目から、雪の中に涙がほろりと落ちた。
そしてあの時、私の心も、先生の手中に落ちたのだ。
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