7話「薄闇の中で」





「離婚が決まった」とお母さんが口にした晩から、お父さんはほとんど家に帰ってこなくなった。たまには帰るけど、両親の会話は事務的なもののみに限られて、私が夜中にトイレに起きた時は、リビングのソファからいびきが聴こえてきていた。



「あなたは…お母さんについてくることになったの。それで…大丈夫かしら?」


「そうなの…?」


お母さんはまたお茶を入れて、引っ越しの一週間前にそう言った。


あまりお母さんは話したがらなかったけど、どうやらお父さんにあるなんらかの事情で、私を引き取ることができない、そんなような口ぶりだった。


私は他に何を言うこともできなかったので、「うん、わかった」、と言った。



“わかった”。子供の頃から何度も言った言葉。


子供は結局何にもわかってないけど、ただ“そうしなきゃいけないんだな”思った時には、“そうすることに決めたよ”という意味で口にする、「わかった」。この時、私は自分がそんな言葉を使ったことに気づいた。



私はお母さんから、「荷造りをしておいてね。この家を出ることになるから」と、段ボールをいくつか渡された。何も知らないまま、結局お父さんとお母さんはなんの理由があって別れることにしたのかわからないまま、お父さんともろくに話せず、私たちは離れた。




私とお母さんは一週間して、こぢんまりしたアパートに移り住んだ。そこはリビングと寝室の二つしか部屋がなくて、それぞれ六畳くらいの広さだった。前のマンションよりだいぶ狭かったので、お母さんが好きで持っていた花瓶やたくさんのお皿、それから家電もいくらかを売り払ってしまわなければいけなかった。私の学習机も新しい部屋にはとても置けないので、小さなテーブルに買い替えられた。




深夜、両親が怒鳴り合っている声はもう聴こえない。でも、それは「いない」からだ。私はもちろん、「いがみあう親」というものを見なくて済むようにはなって、少しは落ち着いた。でも、“いないのと、いても喧嘩してるのとでは、どっちがいいんだろう”と思い始めて、わからなくなっていった。


それから、お父さんが一人で暮らす様子も考えた。


まだ一緒に暮らしていた時、お母さんはよく、お父さんが次のビール缶に手を出すのを止めていた。そうすると決まって喧嘩が起きるけど、誰かがそうしなかったら、お父さんは延々とお酒を飲み続けるだろう。



“大丈夫かな、お父さん…。”



私はそれだけが心配だった。



“あんなにお酒を飲むお父さんが嫌いだったのに、離れてみるとこう考えるものなんだ…。”






お母さんはだんだん気鬱な様子でいることが増えた。時々、一人で泣いているのを見つけたこともあった。




「あ、凛。ごめんなさい、そろそろごはんの時間よね…」


食事の時間になっても寝室から出てこなかったお母さんを呼びに引き戸を開けた時、お母さんは後ろを向いていた。それから急いで顔を拭うような動作をして、振り向いた。お母さんの目は、真っ赤だった。


「う、うん。大丈夫、急がないから…」


その時の私には、そのくらいのことを言う頭しかなかった。



悔しかった。


“私は子供だから、なんにもできないんだ。家がめちゃくちゃになっても、家族が悲しんでも、なんにも。”


そんな無力感に苛まれることもあった。






ある晩、私はなぜか悲しい気分だった。頭が重い。体も同じ。気分はぼんやりして、体もくたびれているはずなのに、なかなか眠れなかった。


傍らで眠っているお母さんはくうくうと眠り込んでいて、少し安心したけど、自分も眠らないとと焦った。


しばらく目を閉じてみたけど、やっぱり眠れなかった。それで、なんとなくだけど、前によく聴いていた“シスピ”のアルバムをスマートフォンから探して、イヤホンを差して聴いてみることにした。



“たかやす君が亡くなってから、聴いてなかった…。”



どうしても思い出してしまうから、“シスピ”を聴くことができなかった。でもその時はなぜかそれを聴きたくて、たかやす君のことを思い出したい気がして、自分の一番好きだった曲を選ぶ。



それは悲しい歌。歌詞には何も書かれていないから、どんな別れかはわからないけど、急な別れで好きな人と離れてしまって、それでもまだ隣にいるんだって思いたい気持ちを綴った…。



私は、耳の中に流れ込んで来るキラキラした悲しみがどうしても心臓に突き刺さって、涙が溢れて来るのを止められなかった。でも泣き声は立てられないから、涙を拭うのも遠慮がちに、お母さんの隣に敷いた布団で、縮こまって泣いた。



真っ暗な狭い部屋で、悲しみを押し留められずに泣いていると、苦しくて苦しくて仕方がなかった。




“どこかに行きたい。誰も知らない遠くに…!”



そう思った時、私はもう自分を止められなくなっていた。


私は慎重にお母さんが寝入っていることを確認してから、起き上がった。


何度も振り返っては、音を立てないようにびくびくと身支度をして、それから一日分くらいの着替えと、貯金箱の中身も入れた財布、スマートフォンの充電器などの手回り品をボストンバッグに詰めた。




その時、私は自分がなぜそんなことをするのかわからなかった。でも、どこでもいいからどこかに逃げたかったんだと思う。だから私は、行先も考えずに家を出た。






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