第98話 背後に許嫁

 三波先生のお別れ会が終わり一人帰宅した。


 帰るだけで汗だくになったので、俺は帰るとすぐにシャワーを浴びる事にする。


 先生はまだ最後の仕事があるとの事で職員室に戻り、夏希先輩と五十棲先輩は名残惜しそうだが帰って行った。

 シオリと四条は寄る所があると言って二人して帰って行き、冬馬はやる事があると言って部室に残っていた。


 明日から夏休み。


 その事を思うと胸が躍るはずなのだが、夏休みが明ければ三波先生はもういない。それを思うと何だか今日は素直に喜べない。


 先生と仲は良い方だったと言えよう。いや、先生は生徒と仲良くするのが仕事な所もあるから、仲が良いのは普通な事なのかも知れない。

 ――理由はどうであれ、先生と仲が良いのは確かだったので、やはり次回から先生に会えないのは寂しい気持ちになる。


 俺でこんな気持ちになるのだから、映画研究部の部員達はこれ以上の感情なのだろう。

 特に冬馬は何か思う所があって部室に残ったのだろうな……。


「はは……。今からこれじゃあ自分達の卒業式の日なんてどうなることやら……」


 乾いた笑いを出すとシャワーを止めて浴室から出る。


 バスタオルで身体を拭いて自室に入り寝巻き代わりのジャージを着用する。


 そして、そのままベッドにダイブする。


「卒業か……」


 浴室で自然と出た自分の言葉をベッドの上で繰り返し放つ。


 まだ二年生の夏休み……。それとも、もう二年生の夏休みと考えるべきか?


 普段何気なく過ごしているが時間は有限。やり直しの効かない尊い物……。


 無意味に過ごすのでなく、意味のある毎日過ごすべきなのだが……人生経験の少ない俺では何をどうすれば意味のある毎日になるのか全く分からない……。


 悩んでいるうちにすぐ卒業――なんて話はそこいらで良く耳にするな。


「――先生との別れでここまで壮大な事を考えてしまうとは……」


 そんな事を普段考えない脳みそだからか、はたまたお別れ会で食べ過ぎたお菓子か、それとも炭酸ジュースを飲み過ぎたからか……。

 段々と瞼が重くなってきて、俺はいつの間にかそのまま深い眠りについてしまった。







 ふと目覚めると部屋の中は真っ暗だった。


 寝起きの頭の中で、今何時かと思うより先に、右肩を下にして寝てしまっていた俺の背中から何かの気配を感じる。


「う、うぅん……?」

「起こしちゃった?」


 その気配の主が可愛らしい声を出した。


「シオ……リ……?」


 寝惚けた声で名前を呼びながら振り返ろうとすると「待って」と言われる。


「今、凄いベスポジ」

「ベス……ポジ?」

「ベストポジション。だからこのままで」

「ベスポジねぇ……」


 彼女に従いそのままの体勢で問う。


「それで? 何してるんだ?」


 聞くと何だか少し動揺した様子で答えてくる。


「今日は……その……えっと……冷えるから布団温めてあげようかと思って……」

「夏……なのに……?」


 寝惚けて正しい事を言ってしまうと「うぅ……」とシオリは唸り声を出す。


「よ、余計な事は考えなくて良い……」

「は、はい……」


 少し怒った口調のシオリへ素直に返事をすると、すぐに機嫌が戻る。


「私が帰って来た時には寝てたけど、いつから寝てるの?」

「えっと……。家に帰って来てからすぐだから……。――って、今、何時?」

「八時過ぎだよ。――ふふ。お昼寝にしてはガッツリ寝ちゃったね……」

「まじか……。何だか勿体ない気分だ……」


 寝る前に『時間は有限。尊い物……』なんて考えてから、すぐにこの始末。

 こういうのが時間の無駄というのだろう。


「シオリも寝てたのか?」

「私? 私は……まぁ……うん……」

「何か悪戯とかしてないだろうな」

「し、してないよ。うん。してない」


 何だか怪しい解答だが、シオリが言うなら信用するしかない。

 されていたらされていたで美味しいから良いけど――。


「シオリは何時に帰って来たんだ?」

「七時前かな」

「それまで四条と?」

「うん。ショッピングしてた」

「仲良いな」

「うん。仲良し」


 シオリは嬉しそうな声でそう言った。


「何か買ったのか?」

「何だと思う?」


 質問に質問で返されて、寝起きの頭で考える。


「エッチィ下着……とか?」


 言うと腕をつねられる。


「あででででで!」


 それで目が覚めてしまう。


「ハズレ」

「めっちゃ痛いんですけど」

「変な事言うコジローには天罰」


 シオリさん。我々の業界ではご褒美です。


「正解は――水着だよ」

「――ん? 下着って結構惜しくない?」

「惜しくない」


 また少し怒った口調になってしまい俺は何とか機嫌を戻してもらおうと話しかける。


「そういや前に水着買うって言ってたよな」


 はっきり買うとは言ってないが、早急に対応する、とは言ってたな。


「うん。これで、いつでも海でもプールでも行けるね」

「そうだな。いつ行こうか」

「じゃあ、明日」

「明日? 急だな」

「ダメ?」


 ここで、俺の幼い男子心が芽生えてしまう。


「もしかして、早く水着姿を披露したいとか?」

「――なっ……!? ち、違っ、違うよ」


 焦って言うシオリが妙に可愛くて顔がニヤけてしまう。


「あはは。そっか、違うか違うか。あはは」

「うう……。コジローのバカ……」


 俺の背中をポコポコと軽く殴ってくる。


「ごめんごめん。明日行こう」

「知らない」

「えー。悪かったよ。明日行こう。な?」

「――行きたいの?」

「行きたい。シオリと行きたいな」

「やれやれ、仕方ない。そこまで言うなら……行ってあげなくもないよ……」


 相変わらずの上から目線で言った後にかなり小さな声で「ふふ……。やった……」と言っていた。

 多分、こちらに聞こえてないと思っているだろうから、そちらへの反応はやめておく。


「――きょ、今日はやっぱり冷える……」

「そ、そうか?」


 なんならシオリがいてくれる為、熱いくらいなのだが……。


「ひ、冷えるの。うん。冷える。これじゃあ風邪をひくから、し、仕方なくもうちょっとくっついてあげる……」


 シオリが無理くりに言い放つと、俺の背中に身体を引っ付けてくる。


 彼女の柔らかい感触が、甘く切ない香りが近くなり俺の心臓が早くなる。


「ふふ……。コジローの心臓の音、背中越しでも凄くドキドキしてるのが分かるよ」


 言われて俺は照れ隠しのつもりで彼女に言った。


「シオリだって、凄く心臓の音が早いぞ?」

「うん。早い。とても……。こんな風になるのはコジローだけ……」


 そんな事を言われて更に心臓が早くなってしまうのに、彼女が俺の手を握ってきて自分の心臓が自分のじゃないみたいになる。


「――離れたく……ない……」

「シオリ?」


 いきなり彼女が真剣な声を出すから心配する声が出てしまう。


「――今日、三波先生が最後で、みんな悲しそうだった……」

「そうだな……」

「私、今まであんまり人と接して来なかったからそういうのイマイチ分からなかったけど、純恋ちゃん、あの後泣きそうなの我慢してた……。――仲の良い人との別れって辛いんだね……」


 言うと彼女は握った手に少し力を入れる。


「――それで……。その……。もし……コジローと別れちゃったらって考えたら……寂しくなっちゃって……」

「シオリ……」


 彼女の言葉に俺は耐えられず、一旦手を離してから寝返りを打ち、彼女の方を向く。


 俺の可愛い許嫁。俺の可愛い彼女。俺の大切な人の顔は暗闇で見ると、何だかとても色っぽかった。


「離れないよ。俺達は……」


 シオリの目を見て言うと、彼女は少し安堵した様な微笑みで返してくれる。


「――離さないでね……」


 彼女へ、次は言葉ではなくこちらから手を握る事で解答した。


 先生、俺はやっぱり、シオリの事が好きじゃなくなる時が来る日なんて絶対に来ないと思います。

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