それはあまりに蒼かった

渚

「蒼……！！」

なんだ、夢か――。

早朝5時。高校1年生の渚は、自分のものとは思えないほどの大きな声で目覚めた。

窓越しの空はほんのり朝焼け色に滲んでいる。

夏だ。渚の大嫌いな夏だ。

枕元のデジタル時計は8月14日を示している。渚は重い溜息を吐いた。

今日こそは行くと決めていた。

鮮やかで透き通った海。小さい頃から夏が来るたびに遊んでいた海。蒼を攫った海。

今日は、蒼の一回忌だ。

蒼は、渚の一つ年上だった。

目立って容姿が良いわけでもない。勉強も運動も平均的で、どこにでもいる高校1年生。

だけど、とても優しかった。

鬼ごっこで仲間外れにされて泣いていた小学1年生の渚をぎゅっと抱きしめ、一緒にトランプで遊んでくれた。

クラスの男子からからかわれていた中学2年生の渚を見つけたときには、自分が馬鹿にされたときより大声で怒鳴り、男子達を寄せ付けなかった。

渚は、そんな蒼が大好きだった。

中学3年生の8月14日、あの海で、渚はずっと抱いてきた恋心を蒼に打ち明けた。蒼はその想いを受け止め、ずっとそばにいるよ、と微笑んだ。渚は泣いて喜んだ。

そして、2人はそのまま海で遊んだ。砂浜に相合傘を描き、波打ち際で貝殻を拾い、制服のまま海に飛び込んだ。

「あ、魚がいるよ！」

海底にキラリと光る何かを見つけた渚は、そう叫んで沖へ泳いだ。

「ちょ、渚……あんま遠い方には行くなよ」

苦笑する蒼に見向きもせず、渚はずんずんと遠ざかる。

「蒼も来たらいいのにぃ」

「だから、俺泳ぐの下手なんだぞ……」

これが、2人の最後の甘酸っぱい会話だった。

突然、真っ黒な大波が渚を呑んだ。口の中に大量の海水が流れ込む。飲んでも飲んでも追いつかない。息もできない。前が見えない。後ろも見えない。心臓が凍り付く。

「あ……あお……い……」

やっとのことで声が出た。その声はひどく震えていた。

「渚！おい、渚！何やってんだ！！」

「あお……たす……け……」

苦しい。苦しい。沈む。沈む。動けない。動けない。怖い。怖い。

「いいから焦るな！待ってろ、今行くから」

ドポン。バシャッ。

蒼が海水をかき分けこちらへ向かってくるのがわかった。

その時、真っ白な渚の脳裏に、蒼は泳げないという事実が過った。

止めなければ。今すぐ蒼を止めなければ、蒼が死んでしまう。そんなのは絶対に、絶対に嫌だ。

ふぅ。はぁ。ふぅ。はぁ。ごぽっ。ごぼごぼっ。

「あお……」

最後の力を振り絞って叫んだが、その声は次の波にかき消されてしまった。

「なぎ……今……行く……か……」

渚の記憶はそこで途切れている。

その後、2人は海上保安庁によって捜索された。渚はすぐに発見された。重体ではあったが、その後の懸命な治療により一命を取り留め、後遺症も残さずに社会復帰を果たした。蒼は、渚の発見から3時間後に見つかったが、すでに息はなく体は冷え切っていた。

数日後に病室で意識を取り戻した渚は、医師や家族からの説明を頼りに、少しずつ状況を知っていった。2人が海に行った日、強風注意報と高潮注意報が出ていたこと。渚が遊泳区域を越えて泳いでいたこと。そして、蒼が口を「なぎさ」の「ぎ」の形に開き、渚の方に腕を伸ばしたまま亡くなっていたこと。

そのことを聞いても、不思議と渚は泣かなかった。大人たちが嘘をついているのだと思った。蒼の遺影を見ても悲しくならなかった。遺影の中の蒼が自分の名前を呼んで手を振っているような気さえした。蒼の遺族に謝っている時も、渚はどこか上の空だった。

夏が去り、秋が去り、冬が去り、春になった。

渚も当時の蒼と同じ高校1年生になった。

色褪せたセーラー服を着れば「ご卒業おめでとう」を、真新しいブレザー服を着れば「ご入学おめでとう」を嫌になるほど浴びせられた。

入学祝いに親戚から立派な腕時計を貰ったが、蒼からのプレゼントだった百均の腕時計をはめて高校に通った。その時計は8月14日の10時を差したまま止まっている。

渚の心に、ぽっかりと大きな穴が開いていた。誰もが胸を躍らせる高校生活の幕開けに、渚だけが何も感じない。嬉しくも悲しくもない。その穴の向こうにあの日の海が見える、それだけが確かだった。

そして、その春も去り、耳をつんざくセミの鳴き声とともに夏がやって来た。

大好きだったあの海だけど、もう行きたくなかった。どうしてかはわからない。自分も死ぬのが怖いのか、思い出すのが怖いのか、蒼がいなくなった現実から目を背けていたいのか。それら全てが正しくて、それら全てが間違っていた。

だけど今日は8月14日だ。だから何かが起きるというわけでもないが、行かなければならないような気がした。

寝ぼけまなこで朝ご飯をかき込み、夏休みだというのに制服を着て、いつもの腕時計を巻いて外に出た。あの日、蒼と歩いた海へと続く長い小道を、今日は一人で歩いた。うだるような暑さも、首筋に滲む汗も気にならなかった。

空は晴れていて、風は穏やかだ。

小一時間ほど歩くと、だんだん波の音が近くに迫って来た。潮風が柔らかく鼻を掠める。気付けば、渚は何かに吸い寄せられるように走り出していた。

初めて蒼と会った日に交わした会話、初めて蒼と通学路を歩いた日に電線にとまっていた小鳥の鳴き声、初めて蒼の家に遊びに行った日の帰りのメール、そして初めての恋。渚の思い出にはいつも蒼がいた。大好きだった蒼。今はいない蒼。悔いても悔いても戻らない蒼。たくさんの蒼が、身体中を駆け巡る。

どう考えたって自分のせいだ。

ああ、今さら心の穴から血が湧く。目尻から涙が湧く。今さら、今さら、今さらなのに。

ずっと背を向けていた真実が、あの真っ黒い大波のように渚を呑む。

もう助けてとは言わない。ただ、その波に身を任せる。痛くて、痛くて、でもその痛みが心地良い。

やがて、砂浜に辿り着いた渚の涙目に、海が映った。

深くて優しい蒼の匂いが渚を包む。

「海だよ、蒼」