000.無題。

 初めは、たゆたうだけの存在だった。何もない空間でゆらゆらと揺れながら、白色の日々、概念のない時をむさぼり生きる。金と銀の光を抱いた魂は、空白の痛みに曝されながら、やがて海の中へと産み落とされた。


 げほっ。


 漏れ出でたそれは魂の叫びであり、実体の声ではない。痛みが、新たに得た全身を苛む。その痛苦が、淡色の魂の生きることを拒む。やがて世界が魂を地へ辿り着かせ、白金の魂は肉体を灼かれた。


 また……。


 気付けば、新しい体を得て海を漂っている。けれども結局は、再び肺を焼かれて果ててしまう。そんな風にして、幾度も幾度も苦痛を味わった。その、破壊と再生を繰り返す行為の末に、淡色の魂はようやく地上へと辿り着く。そして、辿り着いたその先で、光り輝くものを見た。


 あれは……。


 言いかけて、ごぽりと、嫌な音が聴覚に届く。淡色の魂のよく知る、なじみのある感覚である。耐え難い痛苦が内から体中を焼き尽くそうとする。引き裂くような痛みと共に肉体が滅び、他の体へと魂が移される。


 はっ。


 自分の意志もなしに生を与えられ、全身に走る激痛に耐えて地を這う。動けない体のまま、乾きに堪えかねて枯れ果てる。鱗が剥がれ、羽毛が千切られ、一寸も満たない肉体の手足をもぎ取られ、病のためにろくに息も出来ずに倒れた。そうして幾千幾万の生と死を、数え切れない程に繰り返す。


 不毛っ、だね。


 自嘲気味に、淡色の魂は己に囁く。幾度も世に生まれては、その度、飢餓と渇きと苦痛ばかりを味わう。それでもなお、金と銀の輝きを失わなかったのは、頭上に広がる空間がためであった。そうして、魂の内に巣くう、それと同様の空虚感。それだけが、金と銀の魂を満たしている。


 空。


 何もないその空間の名を、淡色の魂が知ったのはいつだったか。恐らくは、言語を扱う身体を得た頃だろう。ふいに言いようのない衝動に駆られ、青年は宙へと手を伸ばす。金と銀の中間を漂う曖昧な色の髪が、さらりと青年の肩の上を滑る。青年は、すでに生命の行き着く果て、人という生物としての生を得ていた。


 遠いね。


 届かないな、とぼんやりと思う。そんなこと、とうにわかっている癖に。それでも手を伸ばした理由を、青年自身が知ることはない。見上げれば在るはずなのに、どこにも存在し得ない。その不可思議な存在が、青年の前で透明に輝いている。


 空……。


 もう一度その名を呟いて、青年は、一つの存在を思い浮かべた。常に己より先にあったその存在は、頭上の空間にあまりにも似ている。あらゆる幸福に満たされ、それ故に空っぽである存在。


 小さな、世界の、不適合者……。


 小さな世界の不適合者、とそう口に出した途端に、ぐるりと胃の捩れるような錯覚に襲われ、青年は腹を押さえる。金と銀、その中間のような淡色の魂に刻まれた痛みの記録が、青年に知識を与える。


 お前は、何だ。


 ふいに青年の前へ影が差し、そうたずねるものがあった。誰だ、ではなく、何だ。その問いかけに、青年は薄く笑う。


 君の知らないもの全て、だよ。


 君は苦しまない。君は痛みを持たない。君は苦痛を知らない。この飢えも、渇きも、君にはないものだろう。

 痛みを知らないのは、空と同じだ。けれど痛苦のみを知り得るものもまた、無でしかない。中身など無い。過ぎる痛みは虚無と同じだ。あらゆる苦難も苦痛も、戒めに成り得ない。


 お前は、私と同じなのか。


 きょとりと目を瞬かせていた空の存在が、ふっと安心したように笑んだ。青年は微かに瞳を瞬かせる。


 ……同族では、あるだろうね。


 青年の前にいるのは、一番初めに世界に生み出された、永遠の魂だ。森羅万象、世にある全てに変わることができ、あらゆる幸に満たされた存在。対する青年は、世界に二番目に生み落とされた、永久の魂だった。自由には生きられず、あらゆる負荷に満たされた存在。二つの魂の抱く虚無感は違う。それでも、空虚を抱えた存在として考えれば、彼らの間に何ら変わりはなかった。


 不毛だね。


 青年は呟く。結局はどちらもが、世界の不適合者なのである。互いの種が何であれ、それぞれが個々として存在する限り、その違いを疎い羨むのは不毛でしかない。青年の中にある痛みも、相手にそれがないのも、青年にはどうでもいいことだった。


 私は、お前のおかげで寂しくなかったんだ。お前はいつも、私のすぐ側にいたから。


 ありがとう、と笑うその空っぽを、青年は無表情で見つめる。そして、考えた。

 この空の存在が青年を振り返ったことには、どんな意味があるのか。たった二つの空っぽな不適合者が揃ったところで、世界は何も変わりはしないだろうに。


 げほっ……。


 唐突に、地を紅い液体が彩った。それと同時に青年の口からは苦悶の声が漏れる。突然のことに、そばにいた空の存在が戸惑ったように声を上げた。


 おいっ! どうしたんだ!?


 慌てて駆け寄る相手を押し止めて、青年はげほごほと幾度か咳を繰り返す。掌に、べっとりと赤黒い粘液がはり付く。しばらくくしてから、青年は、ふっと息を落ち着かせた。


 この身体の寿命も、そう長くはないね。


 青年の言葉に、空の存在は身を竦ませた。息を詰め、目を見張って、青年を見つめる。


 お前は、消えるの、か……?


 ぽつりと投げ出された言葉は、失望に彩られているようだった。青年が緩く首を振り、相手に向かって微笑む。


 君もすぐに生まれ変わるだろう。僕より先に、君は変わるから。


 その空虚さを保持したままで。変わらないままに、姿だけを変えていく。


 そう、か。よかった。また、会えるんだな。


 微かに笑んで、空の存在は安心したように胸を撫で下ろした。ようやく見つけた話し相手を失いたくないのだろう。全身の激痛と飢餓に堪え、青年はその手を掴んだ。軋む体を無理に動かし、重力に任せて相手の肩口に身を寄せる。


 君は好きに変わればいい。君が何になったにせよ、結局は変わることなどないのだから。


 そう言い切ると、青年は何処へと消えてしまった。残された空は、悲しみを帯びた目で宙を見つめて呟く。


 私は変わらないよ。お前にまた、出逢うまでは――。


 微かな声は、風に巻かれて消えていった。

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