044.運命。

 おや、雲。来ていたのですか。


 夢と一緒に部屋に入ってきた、黄金と白銀が交じり合ったような髪の青年を見て、霧が驚いたように目を丸くした。それからすぐに笑みを作って、青年に席を勧める。


 まあ、少し君達の顔が見たくなってね。


 冗談めかして青年がそう言えば、傍らにいた夢が、ふふ、と楽しげな笑い声を漏らす。霧もくすりと笑って、そうですかと応えた。


 夢から聞いたよ。あれが来ていたんだってね。


 ええ、まあ。気が向いたとのことでしたが。


 気が向いた、ね。


 青年はそれとなく、霧の表情から交わされた会話の内容を探る。が、どうやら本当に他愛もない対話だったのだと見て取り、ふうん、と興味が失せたような声を上げた。


 そういえば、君の方も何とも面白いことをしましたね。


 その言葉に反応したのは、青年ではなく夢の方であった。


 兄様? 面白い、って……?


 先程、お前が歌っていた賛美歌ですよ。夢、あれを歌うように言ったのは雲でしょう?


 全く、本当に面白い。

 霧の散らす言の葉を掬い取り、夢は困惑したような様子で小首を傾げた。その、常人には分からぬ程に微かな表情の変化に気付き、霧がくすくすと笑い声を上げる。


 君が指示したというのなら、全く以て納得がいきますよ、雲。要するに、空に対する皮肉という事でしょう?


 まあね。夢の歌は此方にまで届いただろう。


 神を讃えるために作られた、聖なる歌。そして、この世界において神と等しく崇拝される地位にある、空。本人がいることを知りながら、雲は賛美歌を歌うように言った。それは何という皮肉だろうか。


 雲。


 咎めるように、夢が青年を呼んだ。怒っているというよりは、悲哀の籠もった声色である。


 あんまり、空様をいじめちゃ、だめよ。……兄様も。


 いじめているつもりはないさ。ただ、あれは少し自覚が足りないようだからね。


 小さな世界の不適合者としても、空としても。

 青年の呟きを拾う者はなく、それは直ぐに宙に散じて消える。空が何であるかにおいて、霧の理解は半分程度であろう。霧が理解するのは、空でさえ知りえない空の感情だ。それさえ成しているのなら、青年は余計な口出しをすべきではない。青年はちらと霧を見て、軽く息を吐いてから言葉をかけた。


 それより本題に入ろう、霧。


 分かっていますよ。幻のことでしょう?


 数ヶ月前に青年が預けに来た子供の名を霧が持ち出すと、青年は口角を釣り上げた。


 話が早くて助かるよ。君のそういうところは嫌いじゃない。


 お誉めに預かり光栄です。連れて来ましょうか?


 ……そうだね、一度見ておこう。


 尋ねる霧に対し、青年が少し間を空けてから頷く。それを見た霧が夢に視線を遣ると、夢は静かに頷いて部屋から出て行った。それから、霧が再び青年に尋ねる。


 君はどこからあの子供を連れてきたのですか? 幻は随分と飲み込みが早いが、その分極端に人間味に欠ける。あの子は夢と近しい存在だ。君は何を考え、どうして幻を僕に預けたのですか?


 矢継ぎ早に投げられる霧の質問に答えず、雲は冷めた視線を霧に送った。霧も真っ向からその視線を受け止め、無表情の雲と対峙する。ややあって、雲が口を開いた。


 それを知って、君はどうするつもりだい。君はあれの理解者だろう。僕を理解する必要はないはずだよ。


 親友のことを解りたいというのに、理由がいりますか?


 くすりと、笑いが一つ。口元だけを器用に歪めた青年に霧が訝しげな表情をした時、ちょうど夢が幻を連れてきた。


 お久しぶりですねー、雲の君ー。今日はどういったご用件でしょうかー。


 貼り付けたような笑顔で一本調子にすらすらと言の葉を散らしながら、幻は足早に青年へと近付く。寄ってきた幻に手を伸ばし、青年がその頭をくしゃりと撫でた。


 やあ、幻。君は相変わらずのようだね。


 それほどでもー。まー、元気にやってますよー。雲の君はどうですかー。


 ぽんと軽く頭を叩かれた幻が大切そうに自分の頭に手をやったが、その顔には相変わらず仮面のような笑顔だけがある。幻の頭を撫でた青年さえ無表情のままであったから、その光景は見る者にどこか薄ら寒さを感じさせる。


 特に変わりはないね。


 そうですかー。それは何よりですねー。そういえば雲の君の気になさっていた人とやらはどうなんですかー。


 ああ、変わりないよ。あとは、君の同輩もね。


 先を制して青年が告げると、幻の周りの空気が少しだけざわついた。傍らで二人の対話を見ていた霧と夢が、その様子に目を瞬かせる。


 まったくー、なんであの子だけ雲の君のところなんですかねー。ずるいじゃないですかー。霧の方が師匠とかやってられませんよー。


 おやおや、随分お喋りをするかと思えば僕への不満ですか。あとで教育的指導が必要なようですね、幻。


 笑顔のままで大仰に溜め息を吐いた幻に、霧がにっこりと笑いかける。それを見た幻が笑顔のままでため息を吐いた。


 そういう所がだめだと思うんですけどねー、霧の方は。どうせなら夢の君の方がいいですよー。


 やれやれといった体で首を振る幻は、それでもその仕草がどこか芝居じみていて、薄気味悪さを感じさせる。そんな幻の額を青年が弾いた。


 幻。


 青年が、常より低い声で幻の名を呼ぶ。そこで初めて、はっとしたように幻が表情を変えた。


 うー、あうー、分かってますー。冗談で言っただけですからー。ちゃんと師匠の言うことは聞きますー。だから怒らないでくださいー、雲の君ー。


 弾かれた額を押さえて、幻は不安げに青年を見上げる。今まで見たことのない幻の態度に霧が目を見張る。


 別に怒ってはいないさ。君は君であるだけなんだから。


 はあ、と青年が溜め息混じりに言葉を吐き出し、霧と夢に視線を寄越した。


 悪いけど、幻を頼んだよ。この子は君達の所に居るべきだからね。


 うー。まー、そういうわけですから仕方ないですねー。これも運命ってことで今後ともよろしくお願いしますー、霧の方ー。


 くるりと振り返って霧を見た幻は、すでにいつもの笑顔を貼り付けていた。大人しく状況を見守っていた夢が、幻の言葉を繰り返すようにぽそりと呟く。


 運命……。


 その呟きが、なぜだか強く霧の心を揺り動かした。霧は青年に視線を向けるが、感情のない表情からは何も読み取れない。


 じゃあ、僕はもう行くよ。


 そう言って、青年がゆっくりと椅子から立ち上がり、扉へ向かっていく。霧の側を通り抜ける際に、青年が微かな声で霧に向かってこう囁いていった。


 夢幻揃いて霞とし、斯くてありしは霧の元。全ては因果の下に生じる、それだけの話だよ、霧。


 はっとして霧は振り返ったが、青年の姿はすでに扉の向こうであった。

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