第25話
ショップ内は小鳥のさえずりが流れている。
マリヤは浮かれている。
(ようやく自分が戻ってきて、珠希も戻ってくると考えたら、そうなるに違いない)
俺の呼吸音とマリヤの長い鼻歌で、その感覚がはっきりと伝わってきた。
「ピアノ弾かせてほしいわ」
マリヤが言った。
「長いこと弾かんとったら、腕がなまってまう」
「疼くのか? 腕が……」
マリヤは腕を伸ばして、持ち上げた。
俺もつられて、上げた。そしてマリヤの腕を掴んだ。
「痛いわ!」
マリヤが笑った。
「冗談やった」
俺の手のひらから、マリヤの腕が離れると、マリヤの手首は肘のあたりからがら空きになった。自由になった指は空中に鍵盤を探し出す。
(聞こえる……)
「ほんまかいな」
(なんて奴だ……音楽だ!)
俺が思っていることはマリヤも同じだったらしい。
「ほらな」
マリヤは得意げに言った。
たしかに。だが、しかし……。
マリヤは、俺のシャツを引っ張った。俺は笑った。
「心配しすぎやろ。うちは大丈夫やって」
マリヤが微笑んだ。
さっきの虹の名残りのように――
「ほんなら、行こか」
俺は、黙ってマリヤの後を追った。
店の外で、俺とマリヤは手をつないでいた。空は青いか、空じゃないのか。まだ曇りなのか、青空じゃないのか。アトラクションの前は、人込みでぎゅうぎゅうだった。園内は、メインも寄り道も、遊歩道も、迷路も、みんな俺なんかより、ずっとずっと青い、年少の子供ばかりだった。付き添う親も、大人たちも子供色に染まって、どこまでもどこまでも青くなっていった――。俺は――俺にはマリヤが、青い、青いんだと……わかっていたはずなのに――俺は笑ってしまった。マリヤの鼻先が好奇心に満ちて、くんくんと子供じみた嗅ぎ回りようで周囲を探るのを、俺は見た。子供たちと――俺とマリヤは声を合わせて、笑いあった。
それは俺の知る現実とは、まったくかけ離れている。
(あの頃、俺が生きていた世界……)
俺は、マリヤの顔の右側に、顎をのせた。
「なぁ」
「そうや」
マリヤは肯定した。
俺は、少し考えた。
そして、考えるのをやめた。
凧が上がっている。近くに地下発電所の送風口があって、その風を利用しているのだろう。
世にも奇妙な凧祭りだ。空の中で凧揚げなんて。
多数の凧が――民族色あふれるオールドモデルから、AI制御の最新式まで。彩りはさまざまだが、地上に落ちた空の中で、いっさいが青く輝いていた。
(まだ青い――青すぎるんだ。あの頃の色、俺が生きる世界――それはきっと、未来なんだ。俺は――まだ、生きていたい)
子供たちは目の前のアトラクションに夢中で、見上げることさえしない。
俺も……子供たちは――俺なんか見てくれないだろう。俺は――俺にとっての現実は。未来から来る。――それは。俺は子供たちを無視せずに、目を凝らした。それはただの気休めだ。俺は、これから大人になるおまえたちとは違う。
人込みを避けて――俺たちは閉鎖されたサーカスのテントに侵入した。
外観は天幕だが、内部は、仕切られた各部屋ごとに、個別の見世物が演じられるようになっている。人形はまだ置かれたままだが、からくりは止まっていた。一部機械が剥き出しになっているのは元からだ。
一際目立つ大きな空間には、天井や壁と壁の間に、ロープが垂らされてあった。
綱渡りや空中ブランコ、さまざまなアクロバットや、大掛かりなショーが演じられていたのだろう。ステージは大きく天井も高く、模造大理石の壁にベルベットのカーテン、とまるで王城のような立派な造りになっている。
色あせた衣装をつけた人形が数体、関節を折り曲げて、ロープの下でうずくまっていた。油染みと多数の傷が残る床には、切断されたワイヤーがゼンマイのように丸まっている。機械じかけの人形は、今はもう流行らない。
俺が生まれる前に滅んだサーカスの夢を見ているようだ。
懐かしい。初めて見る夢がとても懐かしく感じるような、そんな落ち着かない気分。
剥がし残されたステージに立ってみる。だが。俺は。観客を――観客たちを眺める余裕を――俺は持たない。それが何のための道具なのか。観客は気づいているだろうか。
高すぎる天井に足音が小さく反響した。
壁の裏は倉庫になっていた。ここはもうただの廃墟だ。
倉庫には、俺たちのほかに、機械と人形がひしめき合っていた。人形が、機械に絡みつかれて、身動きが取れずにいる。不用品の山と無表情な顔を寄せ合って――。(誰のための仕掛けなんだろうな)と思うことを許さない――その光景は、サーカスの廃墟と言うのもまた場違いに思えた。
俺たちは何にも触らなかった。
そっと舞台の下、奈落に通じる階段を降りて、地下道の扉を開けた。
「どっちや」
マリヤが訊いた。
俺はメモを取り出した。
メモは生体培養液が染みて溶けかかっていた。文字は消えていない。読める。
「右だ」
メモは紙といっても珠希か、ギガアントの皮膚の一部を採って培養した紙だから、ほんらい身に着けるのにポケットはいらない。肌に付ければ一体化して、失くす心配もない。他者の皮膚だから使う時に剥がすのも簡単だ。
それを、俺がわざわざポケットにしまっておいたのは、このためだ。自分が、他者と融合してしまうのが怖かった。
今はもう怖くない。
何が起きても怖くはない。
貯水槽が近いのだろう。壁越しに一八機のポンプの唸りが伝わってくる。水の音もする。もうすぐだ。壁の向こう。メモに従っていれば、地下道も迷路ではない。
「左」
「そや。すぐやな、おや」
抜け穴をくぐる時、頭をぶつけそうになる。マリヤの身長は一七〇近いからだろう。湿気た髪が扇のように広がっている。
壁の内側は機械で満たされていた。ただでさえ狭い空間は、息苦しく、見通しも悪い。零れた培養液で足元が滑る。
そこに珠希がいた。
壁に埋め込まれたカプセルの内部にひっそりと浮かんでいる。
マリヤも水も音を立てない。ただ、俺が手を出すのを待っていただけだ。しかしその手は俺の腕ごと振り払われる。
自動防御が働いている。ネズミよけの電撃か。まあ、警報が鳴らなければいい――耳を澄まし、見回すほどのスペースもない周囲を確認した後、急いでカプセルを開ける。
宿泊施設の軽量タイプと違って強化ガラスのカプセルは重くて硬い。
電撃を切ってからはマリヤも手伝ってくれる。
激しく息をつく顔に汗が浮いている。
機械と培養液の塊の中にいるのは珠希と、その魂。
カプセルから引っ張り出すと、目を覚ました。
目をパチクリさせ、口から培養液をこぼしながら、
「ちゃうねん」
珠希は言った。
なんだ、寝ぼけているのか。
「あかんのか?」
マリヤが訊いた。
「いやあ、今、どないなってんねん。ほんま、まいったわ。ほんまはんま、あ……」
珠希が言う。
「……なんや、ずっと、夢見とったようや」
茫然と突っ立っている。
「ほんまに大丈夫?」
「平気、なんともない。平気や」
そう言って、珠希はふらふらとカプセルに近づいた。
「あかんで……そら、ここにおるで、ほれ」
珠希の、唇が動き、(えええええ)喘ぐ。
珠希はマリヤの手をとって、指先を、何度も自分に触れさせた。マリヤは、その感触を確かめるように、ゆっくりとなぞった。珠希はその指に自分の手を重ねた。
「ずっと、温まっとった。お日さまん中にいるんかと……」
と言って、身震いをひとつ。
「マリヤの手ぇ、ひんやりやな」
珠希は手の甲に口づけした。
「はん……ええ匂い、するで」
マリヤは笑った。
「ほんまやな。……で?」
珠希は、マリヤの喉に指を這わせ、喉を撫でている。
「やっちゃろ、やり」
とマリヤ。
「ひとぉーつ」
珠希が数え始める。
「ふたぁーつ」
マリヤはそれに倣った。
「みっつ、よっつ、いつっつ」
珠希は、マリヤの肩をポンとたたいた。
「むっつ」
マリヤは目だけを動かし、珠希を見上げる。
「なな!」
と珠希はマリヤの耳に口づける。
「はち」
マリヤは口元を押さえて、笑った。
「くぅ」
と珠希。同時に、二人が、
「ジュー!」
と叫んで、珠希は俺に抱きついてきた。
珠希は俺の胸に両手を押し付け、
「やった! やったぁ!」
マリヤもまた、俺に抱きついていた。
「うわー……このやろー!」
俺はマリヤを抱きすくめるようにして、両腕で二人を抱き込み、マリヤの耳元に唇を寄せた。珠希の両手が俺の体に密着し、珠希は体をよじっている。
「ええ匂いや。ああ……もうええか?」
とマリヤ。
「ちゅーや、マリヤ、ちゅーや!」
珠希が言うと、
「あかん。あかんて、言うたやろ!」
マリヤは顔を真っ赤にしている。
俺は珠希とマリヤにかわるがわるキスをした。
「いやや、まだ。もっとや!」
珠希が、声を枯らして叫ぶ。
「もっと……!」
キスが一つに溶け合った。
それから、珠希は、まだ起きて立っていることに馴染んでいない身体でマリヤが渡した服を着た。
培養液が引いて、体は、汗に濡れて光っていた。そして剥いたリンゴが変色するかわりに透きとおっていったら、そうなるだろうというような肌の色をしていた。
断続的に、それが、かすかにハレーションを起こすのは、生体コンピューターにつながっていた名残りだろう。
皮膚に、皮膚が、皮膚に、鱗が、骨に、神経が、骨に、細胞に、心臓が、細胞に、細胞が、結合し、接続され、体組織が、生体コンピューターの一部として組み替わる。神経は、脳は、体組織は、心臓は、皮膚は、組み換えられ、再構築され、それが終わると、また、再生し、定着する。その繰り返し――
「さあ。行こう」
俺は言った。
「あ、ちょっと待ちいやん!」
マリヤが言った。
「あそこに」
と指差した。
「何?どないしたんや!」
珠希はおっかなびっくりだ。
仄かな明るみに、もしやと思って確かめると、今いる小部屋の奥、換気口のような細い通路の向こうに、結構な広さの空間がある。光はそこから差していた。
「行ってみよう」
「何があるんやろう?」
とマリヤ。
「行ってみよう」
俺とマリヤが二人で言った。
「なんや! 気色悪いやんか!」
珠希は、もう既に、逆光で自分の裸が透けているのも忘れて、俺の後ろをぞろりぞろり着いてきた。
まあいいさ。どうせ、後で、すべて見るんだ。
隠せるものは何もない。
俺たちが歩く細道は透過光で照らされている。
「なあ……何で、そんなに怖いの? ここ……」
珠希が、小さくつぶやく。
最後は腹這いになって、外へ出た。
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