第2話

翌朝、俺はベッドの上であぐらを掻いていた。女はまだ眠っていた。


俺はまだ寝起きであったが、なんとなく昨日のことを思いだしていた。あの少女、マリヤ姉ちゃん(?) そして昨日、俺を襲ったらしい出来事を、難しいが、なんとかはっきり思い出そうとしていた。


「何よ」


女が、昨夜と同じ口調で言う。


貴女あなたは」


「もうちょい寝とってええのに」


(ああ。


女は俺の隣に座り込んだ。俺は女の顔を観察する。


瞳孔が開いているので瞳の色は昨日の夜よりも濃く見える。髪は寝癖でボサボサになっている。女からは、俺への悪意などは微塵も感じられない。


「昨日、何があったん?」


化粧もしていないので、昨夜とほぼ別人だ。


心なしかおっとりとして、柔和に見える彼女の顔は、かすかに産毛を輝かせて、相変わらず美しい。


「昨日のことって何だよ」


何も着ていないので、心臓がドキドキして、下半身がムズムズする。


「やっぱり覚えてへんのやろ?」


彼女が肩をすくめた。


「まあええわ。私はまだ貴方あんたに伝えたいことがあるよってに、こうしてんねん」


彼女が頬に手を当て、俺に笑みかけた。(また、何だよ。


女はベッドの上で横になる


「おはよ。もう、起きてたん?」


昨日の少女が玄関を開けて入ってくる。昨夜のことは、夢か、幻覚にしか思えないのだが……。しかし彼女のことは、はっきり記憶に焼き付いている。



「着るもん持ってきたよ、おめー」とツナギの作業着とサンダルを放り投げた。「姉ちゃんも、ちゃっちゃと着替えてな」


裸の女は渋々、ベットの脇に雑然と積んだ服の山から、Tシャツとジーンズをひっぱりだした。


「ちょっと、それ、私のだぁぁぁぁ」


「あーあ、もう」


「ほい」


少女が泣き言をいうのも構わず、作業着を俺に押し付ける。


年嵩の女はマリヤ・ランドフスカと言って、夜の店でピアニストをしている。雷撃の灰色熊――それが彼女の渾名だ。


女が着替えている間に、少女が説明した。


「うちは珠希や。たまきはるって枕詞から採って親が付けた由緒正しい名前なんで、よう覚えといてや。私、こう見えたっても高校生なんよ」


そういえば、彼女が着ているのは、学校の制服のようだ。


「じゃ、珠希さん。マリヤさん。今日はよろしくお願いします」


「うんこは、お家で洗うとくね」と、マリヤは言った。


珠希は、俺と妹のような関係だ。妹は肉体を持った分身だ。妹の本体を通して、俺という魂、すなわち妹の意識に干渉し、妹の肉体の動きを把握することができる。もちろん、俺という魂と妹の意識の相互作用による自動操作の類だ。


それから、妹の魂が、人間であるわけがないのに、妹の意識と精神を共有して、俺の意識と精神を乗っ取って、お兄ちゃんに憑依させていた。魂に意識が流れ込んで、肉体と精神が俺の身体に流れ込むようになった。お兄ちゃんとお兄ちゃん以外と意識が流体的なもので繋がっていた。


だから、意識の共有という感覚は、俺の魂の記憶や意識とは違い、現実世界という世界の中だけでなく、どこか遠い別の世界のような感じに似ている。俺と俺の体、つまる所、脳の中に俺の精神、つまり妹がいて、妹が俺の意識とつながっている。それは、兄と妹が、脳の中で、互いに影響をおよぼすことなく、自然に共有ができているということだ。


また、俺と妹が、共有をしているということは、何かのために共有を拒否するようなことはなかった。たとえそれが記憶の引き継ぎであっても、二人の意識に入り込んで共有をすることができたのは、妹の心が俺であるという意味だ。


そうそう。俺と妹の意識を共有しているといって、本当に、何の影響も受けないというのは、どうも信じられない。俺の魂だっていう部分だけならば、妹が妹で通っている、という感じなのだ。俺の魂も脳の中に入っているとしても、二人は似てはいないと感じる。俺の魂の記憶や意識、つまり肉体の記憶なんかもそうだ。脳の中の妹のものではあるけど、妹に、そうなのだ、という感情だけがあって、妹の意識だけに意識がおよんで、魂がどこか遠い場所に繋がっているだけみたいなのだ。


そこに意識の問題をもってくるというのも、どうにもわからない。妹の魂が何者かに取り憑かれて、俺が誰かの精神に取り憑かれて、それで、どうでもいいことを考えるようになる。それは妹の精神が俺の精神に取り憑かれているようにも、見える。そういう、精神を構成しているものというものの中には初めから妹というものが含まれていて、そういうことを指すようになっているだけなのかなと考えてしまった。妹は、何かを抱えているわけでもなく、どうやら誰かの記憶も魂も持っていて、それを構成しているものを構成している者とは少し違う。しかし、その何かが具体的に何かが俺の脳の中に入っているわけではなくて、そういうものを、身体の中に抱えているわけでもなくて、そのどうしようもないものを、手に湛えていて、それを通じて、どうしようもないものの中に入って、どうしようもないものを、思い通りに動かして、どうしようもないものを、思い通りに動かして、どうしようもないものの中に入って、何を思い通りに動かしてでも、どうしようもないものと心を通わせながら、そういうものを、この世に保とうとはしていて、その何かの魂が抱いているからこそ、妹は、そのどうしようもないものを、こうして、どうしようもないものと心を通わせた、心を通わせているその精神に、こうして、この世に保とうと思うというのは、そのどうしようもないものに入って、どうしようもないものを、こうして、そうして、心のままにそうする。それは俺の精神に入っていた魂ではなくて、俺の魂そのものだ。


「たまきん。今日は、あたしら、『カヌレ』と『スシマサ』に行くんよね」


灰色熊は妹分のことをそう呼ぶ。珠希は、珠希なりに気を遣っているのだろう。確かに、今日、俺たちは桜新地に行くことになったのだった。


「ま、マリヤはそうやねー。うち、てっきりスピリタスと思い込んどった。あたしら、あんたにいろいろ話したいことがあってさ。それが終わったら、ちょっとお家にお邪魔しようと思うんよ」


いつものように明るく笑って、そう言った。俺は、確かにスピリタスという人種に心当たりはない。


枚方は繁華街の地獄だ。桜新地は地獄の底だった。


俺は珠希がどんな人間だが少しは分かっていたつもりだが、その彼女が、目の前にいる彼女自身でないことは、その面差しを見ればわかることだった。


俺と二人、三人、一緒に、地獄行きの電車に乗った。


車内の天井はどこまでも暗く、俺はこの空間の中で、ただただ、そこにいるだけで、どこか、俺の脳裏に、ある映像がちらついている。それは何かをささやくように……。


二つ目の駅で降りて、駅前の人混みを抜けると、商店の合間の道を進み、路地の奥へ。突き当りにある鉄扉を開けて入る。


アンダーグラウンドバー『カヌレ』は、正式には『La lune dans le caniveaux cannelés』という名で、プレミアムなハーブの香りのする階段を降りると、大きなフロアがあって、カウンターの向かいにピアノが置いてある。隅っこのピアノに寄り添うように、さらに小さなステージがあります。ステージの中央では、誰かが座って、何かを考えていました。男が数人、俺の前で立ち止まり、腕を組んだり、肩を組んだり、声を上げて笑い合いながら、何かを伝え合うように目配せをした。


しかし、俺の記憶の中で、彼らの思い出が語り出すことはなかった。


それが記憶だったということにしておきましょう。


珠希が、俺に言った。「このバー、初めてですよね」


マリヤ・ランドフスカはオーストリア・オーバーエスリングロール家伝来の由緒正しいピアノの前に座ると、ホンキートンクなタッチで不協和音が絡み合うバロックなラプソディーを弾き始めた。


さすが雷撃の灰色熊。


雷鳴のように轟く和音、歪んだリズム、透明な空色を切り裂く高音、麦の穂のように揺れるイエロートリル……、地響きを立てて近づく低音の嵐が、あっという間に俺を呑み込む。


それは、まるで音の海だ。俺は思わずたじろいだ。こんな素晴らしい技巧を、俺は知らない。


まるで天から舞い降りる羅――。マリヤ・ランドフスカは、ピアノを演奏しながら、俺に向けて微笑んだ。


しかし、その美しさも、演奏の素晴らしさも、知っている、わかる、というレベルではない。


「ええ?」


その曲の虜になった俺の隣で、珠希が目をパチパチさせてマリヤを見つめた。

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