製作日記 其の13

書くのが苦しくなるのは固定観念に囚われるからだ。Webは固定観念の嵐だ。各々の自明のことで溢れかえっている。



Webに流れる画像や動画、ソーシャルネットワークに流れる映像などを見て、それを読み解いたり、意識して読み解くようになってから、私は外部世界のなかで自分がどのように見えているのかを知る。このことが何よりも大事なことだということを、私の友人に言われたことがある。その友人は私の趣味、偏愛的な領域に没頭し、それに合わせて生計を立てるため、自ら趣味を活かして生きるとの必要性いうものが私の世界観にあったために「そういうこと」を聞いてみた。


「実は、僕も趣味はあってね。僕の趣味はその、ネットで情報の仕入れ・共有だね。でも、Webというのは、もうどうしようもないほど古くなって来ているんだ。すでに化石化した観念がぎゅうぎゅうに詰め込まれて身動きもできない。堆積物が無数の層をなして、どこまでも広がっている。ほら、Wikipediaとかの百科事典が、ずっと長い間、最新版のままでずっと、誰も何も知りたい情報なんてなくて、ただ、『これ何が書いているんだろう?』という疑問が、読者にその広大な領野をさまよわせているだけ、ということは知っているだろ。Webはもう十分に知っていることを確認したいだけの好奇心で、いっぱいだよ」


友人は淡々と話しをしながらも、自分が思うネットワーク上位の『よく分からない世界』の人のようで、どこか誇らしそうに語る。


「僕が言ったことは、この記事に書いてある。この記事を発見した時、僕はずっとずっと、この問題に関する記事というものを書いていたわけで、これはどうしたらこうなるのか、もしかするとWebでも変わらなければ、そうするのは難しい、かもしれない、と思っていたんだ。でも、この記事で僕は、もしかすると僕の生きる環境は変わっているのかもしれないと、少し、思った。でも、ここで悩んでもしょうがないし、どうすればいいんだろうね、その記事を知ってちょっと別のことをやってみたら、どうかな? という、少し訝しんだ相談だよ」


私は思う。


「ここで悩んでも何もならないんだ、って」


ここまでは私も含めて同じ。


その後も「自分が好き好きに、言いたいことを言えばいいよ」という光明はある中で、しかし、私はいくつかの自分語りをしようとしても止めていた。こればっかりはしょうがない。


「こういう人間を書いている人いるでしょう?」


そういったものは昔からあったけど、「人間を書いている人がいる」と言えばそういうものが書いているのが当たり前になってしまう。誰かに読んでいて欲しい。という願いはあるんだけど、その願いは私自身にも伝わっていない。


今までの私だったら、私の中に溢れたその物語を見たら、「これ、書いた人自身だよ」とおっしゃりましょうと言うだろう。それは、きっと「私の物語」なのだ。


「人間を書いている」という光は、そのような人間に降り注ぐ。

なので書くべきモノが、ない、なんて不確かなモノではない。そんなことは思わなくていい。ただ私にはそう言った方がわかりやすいと思っただけだ。

もしも、本当に私が書きたいだけとか考えている人がいるのならば、どんな本でもいいから読んで見てください。

お会いした時に、こういうことを言っても大丈夫ですか? と言っていただけたら嬉しいです。


そして、その後の「やりたいことリスト」作成作業も大変になる。

仕事を行っていない時は、時間が過ぎるので、その間、少し体を動かして、楽しもうということもある。

それでも、これから、仕事を行わなくて良い分、楽しみを優先していると、自分の中で「それでいいよ」となることが(私の場合)ある。

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