第60話 懐かしい匂い、懐かしい音
札幌から東京に帰ってくると逸る気持ちを抑え、僕は円と一緒に都内のスポーツショップに立ち寄った。
ちなみに昨夜は夜遅く迄ずっと円に陸上の話を、走る楽しさを語り続けた。
「なんか、ちょっと妬ける」
「え?」
「元彼女自慢されてる様なさあ~~」
ベッドで寝そべり、延々と語る僕、さすがの円も辟易したのか、苦笑いでそう言った。
そう……そうなんだ……僕はずっと恋をしていた。陸上に走る事に……。
忘れられない相手……いつまでも忘れられない……。
だから何も手につかなかった、何か新しい事をする気になれなかった……新しい恋をする気になれなかった。
だから僕は中途半端なのだ……生きる事も死ぬ事も出来ない、出来るわけがない。
この世に未練があるから……だから僕は何も出来ない、何にもなれない。
いつだって、走る事を考えてしまう、集中なんて出来るわけが無い。
諦められない、諦め切れない……そう思っていた。
スパイクと、ランシャツ、ランパンを買い店を後にする。
本当なら、昔のユニフォームを着たかった、あの頃のスパイクを履きたかった。
それらは、まだ捨てられないで部屋に置いてある。
ただ、この3年余りで僕は成長している。身長も足も数センチ伸びていた。
精神的には何も成長していないけど、僕の時間はあの事故の日から止まっているけど、でも実際はそんな事はなく、僕は周囲とそして自分の身体から取り残されていた。
心と身体がちぐはぐになっている。
でも……進まなくては行けない……もう進むしか無いのだから……。
そして……僕達はほぼ1週間振りに学校に戻って来た。
制服に着替える暇は無い、うちの学校は校則では休みでも制服で登校しなくてはならない。
注意されないか少しびくびくしながら校門をくぐり競技場に向かうと、その途中に生徒会長が立っていた。
美しい金色の髪が風でなびきキラキラと光輝く。
会長は緊張な面持ちで僕を見ている……いや、違う、会長は隣にいる円を睨んでいた。
視線を円に移すと、円もまた会長から目を離さないでいる。
さらには掛けていたサングラスを外すと会長を睨みつけた。
「え?」
何? この雰囲気……なんでこんな雰囲気なの?
今にも火花が散りそうなそんな睨み合いに、僕は思わずたじろいだ。
「白浜さん」
「はい」
「……今日の所は負けを認めておくわ」
「……いいえ……最後の最後で全部会長に持っていかれました……負けたのは私です」
「え? え?」
負けって何? なんでそんな事になってるの?
「……ふふ、じゃあ、行きましょうか、準備は出来てるわ」
会長は目線を僕に移すとさっき迄とは一転、女神の様に微笑んだ。
「あ、うん、じゃ、じゃあ円」
「はい、頑張ってね」
円もそう言って僕を見ると、天使の様に微笑んだ。
「うん、ありがとう……見ててね」
「うん!」
僕は天使のような円の笑顔を少しだけ見つめ、先で待つ会長の後を追いかける。
そのまま会長と並んで、杖をつき荷物を片手に陸上競技場に向かった。
「はいこれ、妹さんから、お守りだって」
会長と並んで歩いていると、会長は僕に持っていた布袋を手渡す。
見覚えのある袋、僕は立ち止まり中を確認すると、袋の中には中等部の時のユニフォームとスパイクが入っていた。
「……ふふ」
それを見て僕は思わず笑いが漏れる。勿論妹だってサイズが合わない事は知ってる……でもこれを持ってきてくれた事に僕はホッとした。
まだ、僕の事を思ってくれているって……そう感じられた。
「……本当に走るの?」
会長は僕を見ずにそう言った。 僕の歩くスピードに合わせながら、真っ直ぐ前を向いている会長……本当にこの人は……昔から綺麗で、そして誇り高くて……憧れる。
「うん」
僕は会長をじっと見つめ、そして会長と同じく前を向いてそう返事をした。
「一緒に走る?」
「……まさか」
「そっか……」
会長は寂しそうにそう返事をした。多分それでわかったのだろう……僕が何をするかを……。
僕は会長に連れられ、まず競技場の手前にある部室棟に入った。
そしてよく知る部屋に入る……いや、正確に言うと少し離れた所にある部屋には何度も入ったがこっちに入るのは初めてだった。
高等部陸上部の部室、部が何個並ぶんだよ……その中に入ると中等部の時と同じ匂いが、汗と制汗剤と消炎剤と湿布の匂いが入り混じっていた。
長めのテーブルにパイプ椅子、ホワイトボードには練習メニューが貼り付けられている。
壁には細長いロッカーが並び、さらには大きな下駄箱が置かれ、古いシューズとスパイクが並んでいる。
天井近くの壁には数々の賞状、そして入口付近の棚に置かれているトロフィーや盾、その様子に中等部の部室よりも古さと歴史を感じた。
ロッカーの横にカーテンで仕切られた部屋が二つ、ピンクが女子更衣室、ブルーが男子更衣室なのだろう。
僕は会長を見ると、会長は誰も居ないから……という意味で、軽く首を振った。
僕は頷き、そして黙って一人更衣室に入る。
3畳ほどの小さな部屋で僕は北海道で買ったシャツとズボンとそして下着も脱ぎ、スポーツショップで買ったばかりの真新しいサポーターを履き、白いランニングシャツとランニングパンツに着替える。
そして用意しておいてくれたのだろうか? ポツンと置いてある丸椅子に座り、袋に入っている新品のスパイクを取り出す。
そして、妹が用意してくれたスパイクからピンを一本だけ外し、お守りとして新品のスパイクのピンと交換する。
交換したら、もう一度全部のピンを専用工具を使い締め直す。いつも試合前にする僕の儀式。
カキカキと音が鳴る、この音を聞くと神経が研ぎ澄まされていく、心地よい緊張が走る。
懐かしい、全てが懐かしく感じる……たった2年半しか経っていないのに、とてつもない程昔に感じられた。
全てのピンを締め直し、スパイクの紐を緩め、すぐに履ける状態にして僕は更衣室を出る。
「お待たせ」
そう言って会長の前に立つと、会長は驚きの表情を浮かべた。
「体型……あまり変わってないのね」
「……まあ、身長が伸びたけど……トレーニングは続けてたから」
腹筋、背筋、腕立て伏せ、小学生の頃から毎日続けている基本的なトレーニング。歯を磨くが如く毎日続けていた事をそう簡単に止められる筈もなく、回数は極端に減ったが僕はそれらをこの間まで毎日続けていた。
死のうって……思うまで毎日。
「そう……カッコいいわよ」
会長は冗談めかしてそう言ったが、頬を赤らめながら言ったので思わず本気なのかな? って僕は勘違いをしそうになる。
「ありがと……」
僕は会長にそう言うと、更衣室から持ってきた丸椅子に再び腰を掛け、スパイクに履き替える。
そして全ての準備は整った。
部室から出る前に入り口近くに置いてある大きな鏡で自分の姿を確認する。
言われた通り体型はそれ程変わっていない、でもやはり足は細くなっており、さらに右足と左足の太さも違う。
その自分の姿を見て僕は思わず苦笑した。
会長のカッコいいは……やっぱりお世辞なんだって、そう思ってしまう。
「行きましょうか」
僕は気持ちを切り替え、会長にそう告げカツカツとスパイクの音を鳴らし部室を出た。
さあ、終わらせよう、僕の初恋を、そして僕の物語を……。
【あとがき】
次回一部完
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