第44話 彼の人生


「この棺かんを、わたしにゆずってくれませんか。そのかわりわたしは、なんでも、おまえさんたちのほしいと思うものをやるから。」といわれました。けれども、小人たちは、

「たとえわたしたちは、世界じゅうのお金を、みんないただいても、こればかりはさしあげられません。」とお答えしました。

「そうだ、これにかわるお礼なんぞあるもんじゃあない。だがわたしは、白雪姫を見ないでは、もう生きていられない。お礼なぞしないから、ただください。わたしの生きているあいだは、白雪姫をうやまい、きっとそまつにはしないから。」王子おうじはおりいっておたのみになりました。


(『白雪姫』グリム著、菊池寛訳、青空文庫)




 たくさんの人が死んだ。

 生というのはただの状態異常で、ただの通過点に過ぎないのだと知った。

 どんなに生を謳歌しようが、いずれ人は死に至る。それならなぜ、人は生きなければならないのだろうか。




 心地よい朝日が、アーノルドとその祖父を照らした。

 ブランシュ王国の最西端から、首都にかけて走る鉄道。国内随一の長いトンネルがある事で有名な鉄道だ。アーノルドはそれに乗ることを、それはもう、たのしみにしていた。知り合いのツテを辿って、祖父が二等車の切符をとってくれたのを知った時は、文字通り舞い上がった。

 祖父は郵便局で働く真面目で質素な男だ。恩着せがましく口にしたりはしなかったが、郵便局のけして多いとは言えない給料をアーノルドのためにコツコツと貯めてきてくれたのを知っている。華やかな男爵家の父方の祖父母と同じくらい、祖父はアーノルドを愛してくれて、アーノルドもこの無口で素朴な祖父が好きだった。


「二人で海辺まで旅にでよう。南の海は暖かい。それに青く透き通って綺麗だ」


 頭を撫でる祖父の腰に、感極まったアーノルドは抱きついた。アーノルドはこれが自分の人生の中で特別な瞬間だと、理解していた。まだたった八年しか生きていなくて、まだきっと人生は長いけれど、絶対に生涯この瞬間を忘れずにいよう、そう心に誓った。

 アーノルドは蒸気機関車に乗った事がなかった。海を見た事もなかった。祖父がいうには、どこまでもどこまでも水が続いているらしい。それはどんなにすばらしい光景だろう。想像するとわくわくが止まらなかった。

 人々のおだやかな話し声がアーノルドの脳を幸せで満たした。




 しかし、その日、ブランシュ王国の鉄道は未曾有の損害を叩き出した。




 正午ちょうどに出発する予定だった六両編成の列車は、不審な黒い包みが見つかったという事で、出発が遅れた。乗務員が中身を確認したところ、中にはただ古い人形があるのみだった。結局、問題はない、という事で駅を出発したのが、記録に残っている。

 列車はセントラルを出発後、やがてトンネルに入った。そのわずか後、三両目の座席の下から突如、出火した。

 炎はあっという間に座席を包み込み、それから車両全体を飲み込んだ。木製であった事が災いしたのだ。


 この時、アーノルドは、人に押され、煙に巻かれ、あっという間に祖父とはぐれていた。体を低くし、ほうほうの体で何とか車両から外に這い出すも、そこはトンネルの中。どっちに進んでいいものか、懸命に光を探すも、皆目検討もつかない。


「おじいちゃん! おじいちゃん! どこ! おじいちゃん!」


 おじいちゃんを守らなきゃ。

 アーノルドはその一心でもがいた。

 まともに息もできない苦しさに、生理的な涙が溢れてくる。我を忘れてパニックに陥った乗客のだれかに、アーノルドは押されて踏まれた。

 この時に限って、いつも返事をくれる祖父は、アーノルドに応えなかった。


「くるしい……」


 煙で朦朧とする意識を手放し、そこでアーノルドの思考は落ちた。

 次に目が冷めた時に、見えたのは病院の白い天井だった。




 


 その日以来、アーノルドは二度と祖父の姿を見ることはなかった。

 アーノルドが見たのは、まるで胎児のように体を丸めて縮こまり、黒く煤けた祖父だったものだ。






✴︎

 マリルは己の手を見て愕然とした。

 まだ十九だというのに、その手は働きづめでまるで老婆のようになっている。その手が、血にまみれていた。

 ああ、爪が割れている。

 マリルはぼんやりそう思った。

 彼女の前に横たわっているのは、たった一人の家族だった弟だ。苦しい中でも生活を切り詰め、たった二人身を寄せ合うようにして暮らしてきた。

 弟を見捨てれば生活ははるかに楽になっただろう。

 マリルがずっと欲しいと思っていた、街のブティックのショーケースに飾られた仕事用鞄だって買えたにちがいない。

 でも、素敵なあの青いリボンのついた鞄なんて目じゃないくらい、マリルにとって弟の存在は大切だった。なにがなんでも守ろう、二人で生きていこう、そう思っていた。

 弟はマリルにとって、たったひとつの大切な宝ものだったのだ。

 でも、なぜか、マリルは弟を殺してしまった。

 あの暖炉の前に転がっているめん棒で。

 おかしなことだ。

 だって、これは料理をする道具なのに。

 きっかけは些細な事だった。


『なあ姉さん。僕も中学に入ったんだからたまには友達と遊んできたいんだ。すこしお金をくれよ』


 普段だったら、少しくらいは融通してあげられたかもしれない。

 だけど、今月は予想外の出費が多くてどうしてもお金を切り詰める必要があった。

 無理だ、と答えたマリルに対して、弟は激昂した。

 きっと、普段だったらその態度を我慢できた。

 なのに、マリルは、どうしても苛立ちが抑えられなかった。そこからは売り言葉に買い言葉だった。気がついたらめん棒で、弟を打ち据えていた。

 なんかいも。

 なんかいも。

 なんかいも。

 弟は、マリルに反撃しようした。


「いい気味だわ」


 マリルは嗤う。

 しかし、すぐに分からなくなった。

 弟は、やめて、と懇願していなかっただろうか?

 ごめんと、言ってはいなかっただろうか?

 なんでマリルは弟を殺してしまったのだろう?

 だれかの囁き声がする。

 マリルは身体中の血が、抜かれていくように感じた。

 ふっと、ほほえみを浮かべる。


「もう、いいや」


 マリルはふらふらと台所にいくと、包丁を手に取った。

 流行病で亡くなった母が大切に使っていた包丁だ。

 それを震える手で、自分の首につけた。


「ごめんなさい。すぐにそっちにいくわ」


 一気に横に引こうとした時ーーーー、

 コンコン、と誰かが扉をノックする音がした。





✴︎

 ブランシュ王国の南の海沿いに大きな漁村が存在する。

 その街から少し行ったところに、古い修道院がある。その修道院に備わる泉には有名な伝説があった。というより、有名な泉がある場所に、修道院ができたのだ。


『その泉の聖なる水に触れたものは、どんな病気からも解放されるだろう』


 普段は参拝客でごった返すその場所は、今日に限っては静寂に満たされていた。しかし、そこに誰もいないわけではない。

 そこには、もはや、なんの治療の見込みもない病人たちがいた。

 少し前から奇妙な病が流行していた。

 老若男女、彼らの顔は病によって変形していた。

 彼らは揃いの白装束を来て、こぽこぽと静かに揺れる水面を見ている。

 どこからか、ささやき声がした。


「さあ、みなさま。のちほど上で再会しましょう」


 白装束のうちのだれかが、そう言った。

 その言葉を皮切りに、白装束の人間たちがぞくぞくと水の中に歩いていく。顔に水がかかっても、顔が完全に水の中に沈んでも、だれも頓着しない。前のものにつられ、後ろのものにおされ、ただ水の中に潜っていくのみだ。

 その瞳孔は開いている。事前に服用した薬の効果だ。世界の光を全て享受せんとする彼らの瞳を通して、世界は輝いていた。

 なにも怖いものはなかった。ただ、進めばよかった。

 十分もしないうちに、水面は浮かんできた白い布で覆い尽くされた。




 『修道院、狂気の水死』。


 それが、その日の夕刊の見出しだった。

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