第14話 誘惑

 とくに何の障害もなく、マーシャたちは三階に到着した。


「あたしはね、長女だからっていーっつも、弟と妹たちの世話ばかり! みんながいなければ、あたしだって学校に行けたのに」


 言葉を発したマーシャはハッと顔を引きつらせる。

 赤ずきんとふつうに家族の話をしていたつもりだったのに、衝動に駆られ、気がついたら罵りの言葉を口にしていた。


「ちが…、あたしそんなつもりじゃ」


 顔から血の気が引いたのが分かる。

 マーシャにとっては、この不可思議な状況よりも、こんなことを自分が口にすることの方が信じられなかった。自分では、考えたこともないような事のはずだった。

 マーシャの心の内を知ってか知らずか、赤ずきんが言う。


「だれだって考えたりするよ、そういうこと。罪悪感を感じたりする必要はないんだ。普通のことだから。前に師匠が言ってた。魔法には伸ばしたり、縮めたりする効果があるって。こういう変な場所にいるからそういう、ふだんは考えないような感情も伸びちゃうんだよ」


 どうやら、慰めてくれている。

 幻滅されなかったことに密かに安堵する。もう数年会っていないが、弟のうちの一人は赤ずきんと同じ歳だ。なんとなく、彼にがっかりされるのはイヤだった。


 マーシャのそんな心情を読み取ったわけではないのだろうが、この話はおしまい、と切り上げるように赤ずきんが後ろを振り返る。


「師匠! だいじょうぶ?」

「だ、だいじょうぶ…」


 息も絶え絶えに三階へ至る階段を登ってくる魔女に、まるで介護士のように甲斐甲斐しくアーノルドという刑事が付き添っている。

 全身を黒で染め上げた魔女は、その分厚い布のローブ越しでも分かるほどに細い。そしてその見た目通りに貧弱なようだった。


「やっぱ、休みたいかも…。数週間ほど」


 階段を登りきった魔女は息も絶え絶えに前言を撤回した。膝に手を当てて前かがみになっているせいで、うなじが見えた。その首筋もマーシャですら片手でへし折れてしまいそうなほどに細いのだった。


「なんか、百合の香りが強くなったね」


 赤ずきんが顔をしかめる。


「百合……?」


 ようやく体を起こした魔女が顔をしかめる。

 その時、唐突に建物が揺れだした。


「じ、地震かしら?」


 マーシャの疑問に、アーノルドは首を振る。


「この国では、ほとんど地震は起きないですよ。なんだろう?」

「じゃあ…」

「ん?」


 二人の間に挟まれていた赤ずきんが妙な声を出したので、二人とも彼をみる。


「わあ、部屋に駆け込め!」


 ところが、彼は突然、素っ頓狂な声を上げる。同時に、魔女を小脇に抱えこみ、駆け出した。

 一体なにが、とアーノルドとマーシャが駆け出した方と反対方向を見る。

 そこには、見間違えようもない。

 たっぷりと幅のある廊下。そこを大きなイノシシたちがこちらに向かって突進してきているのだった。


「わああああああ」


 どうしてここに動物が、と考える暇もなく、彼らも慌てて赤ずきんに続く。

 狭い建物内で、イノシシの体がまるで詰め物のようにぎゅうぎゅうになっている。だというのに、自分が先に行くのだと我先に駆け寄ってきているのだ。


 ただし、本物の動物かどうかは甚だ怪しい。

 動物というよりは、どうもイノシシの皮を被ったジェリーのようで、それがぶよぶよと前に押し出されている。それらはときどき爆ぜて、なんだか分からない濁った液体が壁面に叩きつけられる。


「き、きもち悪い」


 マーシャがちらっと後ろを振り返り、ひいと悲鳴を上げる。


 そして気がついた。イノシシの爆発は、先ほどから赤ずきんに抱えられた魔女の衣からころころ転がりだす大小のなにかに触れることによって起きているのだ。その飛沫がマーシャの顔にも触れそうになる。


 あんな汚いものに触れたら、きっと腐っちゃうわ!


 必死になって駆け続ける。

 ようようにして彼らは小部屋の一つに駆け込んだ。


 アーノルドが後ろ手に扉を閉め、赤ずきんがすぐさま本棚を押して入り口をふさぐ。その間にマーシャが窓まで駆け寄った。

 窓から外に逃げようと考えたのだ。

 しかし、窓の外になにもない闇が広がっているのを見て、『外』が存在しないことを思いだす。


「ど、ど、どうしよう」


 と慌てるマーシャに、声がかかった。


「だ、だいじょうぶだよ」


 地面から聞こえる弱々しい声。マーシャは恐る恐る問いかける。


「だ、だいじょうぶってなにが…。……ていうか魔女さまこそ大丈夫ですか?」


 よくよく見たら魔女は地面に崩れ落ちている。そのことに気がついて、マーシャは慌てて駆け寄った。


「揺さぶられたせいで吐き気が、…うえっぷ」

「わああ、は、吐かないでくださいませ。吐かないで」

「だいじょうぶ。吐かない」


 魔女の背中をさするマーシャに、ソルシエールは掠れた声で答えた。


「扉は、ウチとソトとを分ける結界なんだ。ああいうものは、拒まれたら入ってこれない」


 マーシャが入り口を確認する。

 そういえば、とっくに蹴破られてもおかしくない扉はいまだにちゃんとそこにあるし、耳に痛いほど聞こえていた蹄音も、振動もいつの間にかなくなっている。

 驚くほど、静かだった。

 アーノルドもそのことに気がついて、不可解そうな顔をした。


「じゃあ、ここは安全なのかしら」


 顔がひきつりそうになるのをなんとか押し戻しながら、マーシャが外の様子を懸命に伺う。しかし、無情にも魔女は否と告げた。


「いや、ここは相手の縄張りのなかだから。すぐにでも次が…」


 その言葉に間違いはなかった。


「きゃあ、ネズミ!」


 マーシャが部屋の隅に小さなものがカサコソと過ぎ去ったのを見て、またもや悲鳴をあげる。

 なんだかもう、叫んでばかりだ。


「え、どこですか?」


 アーノルドの質問に、マーシャが必死に部屋の一角を指差す。

 指差した先の一点。

 まるでそれが呼び水となったかのように、その一角からごぷりごぷりと大量にネズミが湧いてきた。


「え、やだ。あたし何もしてないわ」


 マーシャは動転して、しなくてもいい言い訳を口走る。

 一体一体は小さいのに、あまりにも量の多いネズミたちは一体となり、まるで小山のようにこんもりとした塊になっている。それが、カサコソ動くものだから、マーシャは喉の奥から魂が出て行ってしまいそうな気がした。

 しかも、その小山はますます体積を増し、あっという間に部屋を覆い尽くそうとしている。

 この場で圧倒的少数派の人間たちは、瞬く間に壁際に追い詰められてしまった。

 マーシャが壁にへばりつき、半分泣きながら魔女に懇願する。


「ま、魔女さま。焼き払って!」

「いや、魔法はそういう風に使えない」


 魔女はローブに絡みつく小鼠をふるい落としながら、無情にもそんな事を言う。


「もう、役に立たない! もうヤダあ」

「ごめん」


 泣きべそをかいたところで、急にネズミの山が弾け飛んだ。

 飛び散る赤い飛沫に、キューと甲高い獣声があちらこちらから上がり、ネズミは一斉に露散していった。

 なにが起こったか分からない。

 呆然とするマーシャとは反対に、魔女は言った。


「わあ。赤ずきん、すごい」


 その賞賛に、マーシャが赤ずきんを見ると、手になにやら筒のようなものを持っていて、そこから白い煙が出ている。どうやら、彼がなにかをしてくれたらしいことはマーシャにも理解できた。

 彼はにかっと陽気な笑みを浮かべて朗らかに言った。


「もっと褒めてくれてもいいよ」





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(おまけ・その12)


 相棒と町中の教会を回ったが、怪しいものは見つからなかった。

 とすれば、怪しいのは新興宗教だが、そうした類のものに保守的だったルイ・シャンティエが影響されるだろうか。


「もし新興宗教だったら、教会の教えをドラマチックに改変したものではなく、既存のものを少し変えただけのものかもしれませんね。そうしたものの方が敷居は低いですから」


 そんなことを相棒が言う。


「つまり?」

「『神は乗り越えられる試練しか与えない』ってあるじゃないですか。これって本来は、『神は、耐えられる誘惑しか与えない』という意味でしょう。でも、中には『人はどんな試練も乗り越えられるのだから、耐えなければならない』という間違った解釈の方を覚えている人もいないではない。これって、その人たちの頭が悪いのではなく、文章がそういう風にも汲み取れるせいなわけです。そんな風に、本来の意図とはズレているけど、受け入れやすいことをあえて広めているような宗教もあるんじゃないですか」

「なるほど、そういうところを当たってみるべきかもしれんな」


 頷くと、相棒はやった褒められた、と無邪気に喜んだ。

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