かげろふ
水原麻以
第1話
彼女は笑う。「私は、人を救うことが好き、人を傷つけることが……私は、人の幸せを感じたいから……」
男は彼女を、「お姉ちゃん」と呼んだ。妹からの紹介。
自分らしさを感じること、それを、自分自身に向けたい、と彼は思い、『生まれながらにしてそれはできなかった』と言った。
「他人のことより、自分のことを考えてみて」という彼女の言葉、
いつもの事で、彼は自分にこんなに苦しんでくれるのは、姉の役目を果たしているからだと思って、彼女を自分の家に招いた。
夜に二人で布団や天井を回した。彼にとって、姉は家族ではなく、姉であるためだけに生まれてきた人だけれど、自分にとっての、自分を見つめている存在とは、とても大切な存在だった。だから、強がっているのかな、と彼女を見る。
姉が男の実家に居た期間は短く、姉は一人で暮らしていることが多かった。そう、男は、あの人を追い出した日から、毎日ずっと一人になっていたのだ。
姉が「自分の住む場所を見つける」という言葉を発したのは、つい二日前の事だった。男には、もう何も残っていない、という気がした。もう一人、新しい自分でいられる時間も、無かったし、姉の残像を後生大事に抱える自信もなかった。
屋根がぽつぽつとはぜ、石畳が水に浸かっていた。
「お前が死んで、私の人生が止まりかけたときに、私も死ぬんだ、って思った」と、彼女の父親、つまり、彼の父親はそう述べたらしい。
「生を受けた時を言う」、とは彼の父親の言葉だった。
「そうだったの……貴方の死を思うに、私は生まれてから三年も経っていないということだった」男は言った。
「うん、三年、か……」彼女は、もう、彼を名前で呼んだ。
「貴方は、どこまで行っても運命の相手、か……」男は思わず、言葉を失う。
「その言葉、信じましょう、私を救ってくれるわ、きっと」と彼女は言う。
「そうか……」彼は言った。
「貴方が生まれる前から、ずっと、私の人生は終わっていなかった。そうなった理由は、もう考えていませんでしたの?」
「あるよ。何というか、私の運命を変えるための材料が、私を生みだし、何だか分からないがまだ私が生きている、と感じるために現れた感じ……って事が……」
男は言った。
そうして壁に背を向けた。
すると、彼女は男を呼び止めた。
「貴方、少し、お話ししていきましょうか」
女は、男の妻で、男の義理妹だった。女は男を見上げて、「どうか、私を救っていって。私にだって、救えることはあるのだから……」と言った。
「うん……お願いね」男は頷き、彼女の家を後にする。
「でも、貴方はそうではないと思うから、そう思うだけで、救われるのよ……」「……はい」
男は、「でも、どう考えたって貴方は、貴方らしくはないはず」
言葉を選びながらつづけた。
「どう考えても、僕は貴方が思うような人はないです。そして彼が思い描く理想像でもない。少なくとも僕の内面には居ないし、本当に彼が思うような人が現れるのは、数万年後だけです」
「そうかな」彼女はそう言いながら、空を見上げていた。
鏡と一つになる満月は、いつの間にか、彼女と彼を薄い膜で包んでいた。
月が雲に隠れるのを待って、彼女は言った。
「私、貴方に出会えて良かった。こんなにもあなたに出会えて良かったと思えるのは、奇跡ね。もう、私の運命の人たちは、誰にも救われないわ」
「……はい」
男は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
「……でも今ならまだ、彼が救われる事がある筈。それは、君自身だろうけど」「え?」彼女は驚いた表情で彼を見た。
「あなたは私の運命の人です、貴方だって、運命は変えられます」
「違う違う、違う違う。僕は僕なんだ。運命なんて、もう、変えられるものはない。そんな事、言われなくても解っている」
彼は、「運命なんてもの」と言った。
「……あの雨の日に私を見て下さった時、運命というものが何なのかを…」
男は壁に背を向けた。自分は印刷物と同じだ。そして姉は銀幕の星。寄木細工が奇跡を買い付けている。男はよろよろと物干し台に昇った。松葉が落ちている。掌に二つ載せてみて、人という字の俗説を見破る装置であることと証明した。
三年目、最後の夏の意味を男は払暁の鏡に問うた。
「あなたはそうやっていつまで太陽を盗み失楽園を演じ続けるのですか」
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