5-1

 慣れすぎてたまにここ坂道であることを忘れる学校までの道のりを、自分とは逆方向に自転車をこいで坂を登っていく学生をみて、元気だな、と思う。顔に見覚えがないということは後輩で、おそらく背負っている楽器からみるとトロンボーン。ということは江藤えとう先輩ならわかるんだろうか。

 そんなことを考える自分の息は、冬の白に染まり始めていた。時刻はまだ三限目の途中で、ちらりと上に視線をやると、曇り空が広がっている。車通りも多く、彩りが削げ落ちていった景色にエンジン音がいくつも交錯する。

 学校の周りにいくつか学生専用の物件があって、自転車のほうが早い距離の生徒もいる。清川きよかわ奈央なおはありがたいことにそういう距離でもなく、駅や買い物エリアにも近いので自転車はもっていない。同門の四人をはじめ仲の良い友人も徒歩通学が多く、一年生の早いうちにこの坂道で息が上がることはなくなった。

 でも、この夏はちょっと違った。術後で体力が落ちていたのだろう、いつもよりも上るときには汗をかいたし、疲れも強く感じた。夏バテもしやすかった。そんな自分を周りが気にかけてくれるのも悔しかったり、でもうれしかったりもした。

 森田りょうはもともとがっついて練習をするタイプではない。だから清川のようすを見に来て夕飯をつくったりするのはほとんど息抜きで、本人もそういう自覚があるようだった。そうじゃなければさすがに遠慮する。そのへんのピアノ講師でせいぜいの自分と、涼はそもそも生きている次元がちがう。

 それにしてもエレクトーンの部屋が全部うまっていたのは残念すぎた。いつもなら学食で昼食を食べてすぐに出ると、いい頃合いにエレクトーンのレッスンを習っている楽器店に到着するのだけれど、今日はたまたま、担当の先生の都合で時間がいつもより遅く始まる。学校のエレクトーンの練習室はすくなく、おなじくグレード取得をめざす生徒で取り合い状態なので、今日に限っては出遅れてしまった。

 エレクトーンは足にも鍵盤があって、音量調整などを行うペダル――ピアノのペダルよりも車のペダルに近い作りだ――にはフットスイッチといって音色を変更するような機能もついている。清川はこれが苦手だった。運動神経にそもそも自信がないこともあるし、ずっとピアノだけをやってきていたので、ほんの一拍のすきまでフットスイッチを切り替える、という動作にどうにも慣れない。そのあたりの練習をレッスン前にもしたかったのだけれど。

 無駄に体力を使っても仕方ない、と自分に言い聞かせ、どうせなら軽くカロリー摂取しておこうと思い直す。慣れない作業のおかげで、レッスン後はけっこう体も脳みそもへろへろになる。だからカバンには栄養時補助食品は常備しているけれど、――あったかいものがいいな、と思う。しょうがとか入ってる季節のメニューはあるだろうか。

 思いつけば足取りはやや軽くなった。エレクトーンのレッスンなのでヒールのない靴で、坂道を蹴る音がきゅっと軽くなる。駅前のいつものコーヒーショップをめざしていると、そのテラス席によく知ったシルエットを見つけた。

 清川は知らず、かすかに首をひねった。なんでここに。たしかこの曜日のこの時間は――

 瞬間的に声をかけるか迷う、そのあいだに、相手がこちらを見た。

 髪を下ろし、テラス席にひとり座る横顔が、ゆるやかにこちらを向く。その動きと同調するようなまつげの上下の動きまでがあでやかに見え、そのかすかな風が自分の頬をなでたようにさえ思えた。

 テラス席という背景もあいまって、まるで演劇の一幕のようだった。白尾しらおあきらと一緒に見たミュージカルの、その舞台上の一瞬のような。

 でも、みそらは軽くほほえんで手を振った。清川に向かって。演劇の中ではない証拠に、間違いなくこちらを認識して。

「おつかれー。もしかしていまからレッスンだっけ?」

「うん」

 惹かれるようにそのままみそらのそばまで歩いていき、どうしたの、と言うかやっぱり迷う。その間にまたみそらがあっけなく言う。

「もしかしてなにか飲むつもりだった? このテーブル席いっしょに使う? ちょっと寒いけど」

「ああ、うん。――ありがとう」

 買ってくるね、と言い残し、店内に入る。すると暖房がしっかりと効いているのがわかった。当然だ、もう十二月に入ったのだから。

 しょうがを使ったホットのティーメニューを手に取り、外に戻る。みそらはとくにスマホを触るとかでもなく、ただ座っていた。きれいな体の線だ、と思う。冬の服になってきても、その美しさは損なわれていない。

「寒くない?」

「大丈夫。あ、清川さんは中がいい?」

「ううん、このくらいなら」

 コートを着ているし、歩いてきたので体はあたたまっている。それでもいちおう座面にストールを畳んでひいて、その上に腰掛ける。

「山岡さんは?」

 どれくらいいるのかわからないが、こちらも聞いてみると「大丈夫」と軽い返事がきた。森田に呼び方を突っ込まれてしばらく経つが、どうにもいままでのくせはお互いに抜けていない。でもそれはそれでいいような気もしているし、みそらもそう思っているような雰囲気も感じている。

「外のほうがいまは気が紛れるなって」

 みそらの表情にはくったくがなかったけれど、やっぱり気になる。この時間はたしか――

「いいの? 重唱研究」

 清川が言うと、みそらは軽く驚いたように目を見開いてこちらを見る。そのまつげの長さは花のようだった。

「よく覚えてたね」

「最近いっしょにいたからね」

「そうだった」

 といってみそらは笑った。そして「休めるときはちゃんと休んで、って夕季ゆうきも言ってたからいいの」とつづけた。

「ずーっとやったら疲れちゃうし」

「……うん」

 その気持ちはわからないでもない、というか、よくわかる。ずっとやってたら疲れるのはピアノだってエレクトーンだってそうだ。とくにみそらの重唱研究は飯田いいだ先生のクラスで、そのつぎの四・五限がそれこそオペラ演習――来週に迫った、くだんの発表会の練習でもある時間だった。

 と思いながらカップで手のひらをあたためていると、みそらが意外そうにこちらを見ていた。

「なに?」

「いや、戻ったほうがいいよとか言わないんだなと思って」

「言ったほうがいい?」

「いや、いらない」

「でしょ」

 なぜか淡々としたやり取りで、そこまでうなずいて清川はちょっと笑ってしまった。緊張感がなさすぎる。

「私も今日は二時間くらい遅く始まるの」

「うん」

「でもそうなると帰りが帰宅ラッシュとかぶってさ」

「ああ、それはいやですね」

「そうなの。なのでせめてこう、いいもの飲みたくて」

「わかるなあ」

 みそらは適切にあいづちを打ちながらも、言っていたとおりに空や人の行き交うようすをよく見ているようだった。

 まだ日は高い。駅前で行き交う人のなかにも高校生なんかは少ない。もちろん会社帰りという雰囲気の人もほとんどいない。でももう二時間もすれば日が傾き、すぐに世界は夜に覆われてしまう。星はよく輝くかもしれないけれどそのぶん空気はつめたくて、刻一刻と冬至に近づいていく。

「家探しってめんどくさいよね。受験期って親がいてくれてほんとに助かってたんだなって」

 みそらの言葉が白い息となって景色に散っていく。みそらと三谷みたに夕季の就職先はそれぞれのインターン先で、いまは週に二日ほど通っているけれど、さすがにフルタイムとなると距離が遠いので、もっと都市部寄りの物件を探していると聞いていた。とはいえこのスケジュールで探す時間があるのか、とは清川もこっそり思っていた。

「難航してる?」

「しすぎて、けっきょく小野先生に頼ることになりそう」

「あっ、なるほど」

 つい清川は心の底から納得した。小野先生ということはつまり、小野先生が持っているマンションということだ。葉子ようこに加えて今年度からは江藤先輩もお世話になっているらしく、おそらくみそらたちにも適した広さの部屋の空きがあったのだろう。

「良かったじゃん、めっちゃ安心できる」

「そーなんだよねえ」

 みそらは苦笑した。

「全然進まないでいたら、『うちに空きがあるから、大家を助けると思ってとりあえずうちにしなさい。家賃は交渉してあげるから』って夕季ゆうきがレッスンで言われて」

「すんごい説得力ある。あ、でも――そうなると声楽のレッスンもしやすいね?」

「そう、ほんとそうなの。週五勤務してまた通いでっていうのはちょっと体力的にも心配だったから、ありがたいことこの上ないよ」

 そのあたりも踏まえて小野先生は提案してくれたんだろう、と思えた。小野先生は清川にとってあまり接点のない先生ではあるし、葉子とは奏法も教え方もちがうと聞く。それでも葉子が恩師として慕っているのは感じていたので、他人のことながらほっとする。

 そう思ってほったらかしだったドリンクに口をつける。小さな飲み口から飲み込むと、舌先にぴりりとほどよくしょうがが主張してくる。

美咲みさきの、聞いた?」

 ふとみそらが言う。その瞬間、ああ、今日、レッスンが遅く始まってよかった、と思った。ほとんどカンだけれどそう思った。



(5-2につづく)


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