第十三章 天藍を仰ぐ

1-1

 四限の授業が目の前で消えてしまった。単位は足りているので問題ないけれど、たったひとつでもコマが消えるのはなんだか大きな喪失感がある。

 秋だからかな、と思いながら三谷みたに夕季ゆうきはスマホの学内連絡のページとメールアプリを閉じ、さてどうしようと顔を上げた。坂道をちょうど上がってきたばかりなので、家に戻る気はさすがにもう起きない。あと三十分早く連絡してほしかった、と思いつつ、こういうこと自体にも慣れてしまっている自分もいて、すぐに思考を切り替える。五限の休講連絡は来ていないので、図書館か、空いていれば――

夕季ゆうき

 聞き慣れた声がして顔を向けると、自分とおなじくらいの背丈の人物が「おつかれ」と片手を挙げた。その手には飾りっ気のないスマホがあった。

「さすがに連絡遅くない? これ」

「思った」

 森田りょうの遠慮のない、そして自分とおなじ感想につい苦笑が漏れる。秋の装いにすっかり入れ替えるにはまだ暑い日も多くて、今日の森田もまだ薄着だった。こちらに歩いてきながらスマホをいじっている。

「あ、空きあった。グランドの部屋、いっしょに使う?」

「空きがあるのってそこだけ?」

「うん」

「じゃあ、お願い」

 三谷の返事を聞くとすぐに森田は練習室の予約をしたらしく、スマホをポケットにしまうと「行こ」とうながした。森田も五限はおなじ対位法たいいほうの講義を取っているので、暇つぶしの方法も自然おなじになる。

「夕季、どれか楽譜持ってきてる?」

「ショパンなら」

「ああ、卒試そつしの」

「涼は」

「俺は学内選抜のなら。今日は五限で終わり?」

「いや、終わったら合わせ。江藤えとう先輩の」

「演奏会のやつか。どこでやんの? 家?」

「今日はレンタルスタジオ」

「いっそがしいな相変わらず」

 なんて会話をラリーしていると練習棟はすぐだった。中に入って一度窓を開けて換気をする。残暑というには長い夏の湿気が部屋に残っていて、つい楽器の傷み具合が気になった。森田が荷物をパイプ椅子に置きながら会話を続ける。

「どーなの最近、小野おの先生のレッスンは」

 そろそろ聞かれるだろうなと思っていたので、三谷はつい笑みをこぼした。

「前よりは違和感なくなったと思うよ。あいかわらず指摘は細かいけど」

「それ、葉子ようこ先生も言ってたけど、具体的にどういうところなの?」

 答える前に三谷が指で軽くピアノを指さして先に弾いていいかを確認すると、森田はすぐにうなずいた。それにまたうなずいて、三谷はピアノの前に座る。

「最初の一音で止められることもあるけど、まあそれはどの先生もおんなじだし……」

 森田が窓を閉めるのを視界の隅にとらえながら、三谷はピアノの蓋を開ける。臙脂えんじ色のフェルトを取ると白と黒がつづく鍵盤が見えて、その並びのうつくしさに無意識にほっとする。

「右手の対になってる左手の内声とか、フレージングも。でもやっぱり一番こだわりが強そうなのは弱音かな」

「弱音」と繰り返し、森田はほんの二秒ほど考えたようだった。

「バラ四だとけっこう――半分くらいまでテーマの提示が多くない?」

「そこも含めてどうニュアンスの違いをつけるかとか――」

 言いながら手を鍵盤に乗せ、とりあえず最初から弾き始める。ハ長調にも聞こえるやわらかな前奏から、主題となるヘ短調のゆったりとしたメロディ――

 ショパンのバラード四番は、技術的にとんでもなく難しい、というわけではないと思う。いや、たしかに難易度はすごく高いけれど、技術的な面で言えばリストの「超絶技巧練習曲」のほうがもっと難しかったりする。でも――

 たぶん、ショパンの難しさと、それに比例する美しさを詰め込んだのが、この四番――と、三谷夕季は思っている。

 ゆったりとしたテンポで叙情的なメロディが層を重ねて曲を織っていく。ただそこで「なんとなく」の分析アナリーゼのままだと曲は簡単に崩壊する。変奏曲的にテーマのいろどりが変化しながら「語り」が進んでいくような印象のこの曲の演奏時間は、十分ほどと比較的短い。それでも内容の理解、それにともなう構成力がなければすぐに演奏が瓦解する。

 半分ほど弾いたところでなんとなく手を止めた。理解が足りていない――練習量というか、曲との付き合いがまだまだ浅いので「なんとなく」にしかならない。それは森田も理解しているはずだ。

「――だいぶ変わったと思うよ」

 予想よりも前向きな森田の言葉に、三谷はちょっとびっくりして視線を投げた。驚きが伝わったのか、森田はかすかに苦笑を浮かべた。

「参考に聞いてるの、ツィマーマンって言ってたっけ」

 三谷はうなずいた。登録しているサブスクで配信されている音源には、ショパンの祖国であるポーランド出身の大御所ピアニストの曲があって、ほかのピアニストとも聴き比べた中で三谷自身がしっくりくる解釈だったのが彼だった。大御所であっても解釈、というか、好みが一致するかどうかは別問題なので、このピアニストの存在は勉強を進める上ですごく心強い。森田は納得がいったようにうなずいた。

メロディ伴奏の棲み分けが成立してきてるのは、山岡さん――ていうか、声楽曲からの影響もある気がする。左右のバランスがダサくないし、あざとくもないからすごく自然で聞きやすい。お手本にも近いと思う。――けっこう難しいんだけど」

 ショパンの曲の基本の構成は、「歌うメロディ」と「伴奏」だ。曲の大小に関わらず、そのエッセンスは随所に見られる。そしてこのバラード四番を含め、森田が言うように「一人で歌手と伴奏を演じ分ける」のができない生徒は、日本中いたるところにいる。

「あとは――音色がちゃんと寒くなったっていうか」

 森田はそこまで言ってすこし考えたようだった。森田がこうやって時間を取って感想を言うのがめずらしいのは、長い付き合いなので承知している。感想を聞かないという選択肢は三谷にはなかった。

「弱音に意思があるようになってきたっていうか。前がなかったわけじゃなくて、よりはっきり弱音でもようになってきて、弱音でもちゃんと何を意図しているのかが伝わってくるようになった――かな」

 そこまで言って森田は顔をあげた。

「そこが小野先生の弱音のこだわりってやつ、で合ってる?」

「――と、おもう」

 うなずいてから三谷は体を森田のほうに向けた。いまは弾くより話すほうが、練習をする上で有意義だ。

「ただ、小野先生で難しいのは、具体的なやり方――体の使い方とかがあんまり言語化されてないところかな」

「ああ、前も言ってたやつか」

「うん。ていうか、たんに他人だから体のアプローチがちがうだけだとはおもうけど。そもそも身長差もあるし――自分の体の使い方と音色をすり合わせていくから、けっこうそれに時間がかかってる、ってかんじかな」

「時間がかかってるぶん、音色がよくなってるってのもありそうだけど」

 それも事実だろうと思う。たった一音に数十分から数時間をかけ、音の出し方、その音の意味、体の使い方、――あらゆるアプローチを繰り返すのが練習だ。

 森田は「ポーランドって」とつづけた。

「こういう景色の色してんのかなって、ちょっと想像しやすくなったと思う。行ったことないけど」

 と言う森田は、三月の卒業式が終わってすぐに、一度ドイツの留学予定の学校――というよりもそこで師事する先生との顔合わせに行く予定だと聞いている。こっちの音大とおなじで先生に空きがあれば基本的に入学には問題ない、ということらしいけれど、すべてがうまくいくとは限らない部分もあるかもしれない。――まあ、涼なら問題ないとは思うけど。

 と思っていると、森田が「あ」と声を出した。



(1-2に続く)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る