第十三章 天藍を仰ぐ
1-1
四限の授業が目の前で消えてしまった。単位は足りているので問題ないけれど、たったひとつでもコマが消えるのはなんだか大きな喪失感がある。
秋だからかな、と思いながら
「
聞き慣れた声がして顔を向けると、自分とおなじくらいの背丈の人物が「おつかれ」と片手を挙げた。その手には飾りっ気のないスマホがあった。
「さすがに連絡遅くない? これ」
「思った」
森田
「あ、空きあった。グランドの部屋、いっしょに使う?」
「空きがあるのってそこだけ?」
「うん」
「じゃあ、お願い」
三谷の返事を聞くとすぐに森田は練習室の予約をしたらしく、スマホをポケットにしまうと「行こ」とうながした。森田も五限はおなじ
「夕季、どれか楽譜持ってきてる?」
「ショパンなら」
「ああ、
「涼は」
「俺は学内選抜のなら。今日は五限で終わり?」
「いや、終わったら合わせ。
「演奏会のやつか。どこでやんの? 家?」
「今日はレンタルスタジオ」
「いっそがしいな相変わらず」
なんて会話をラリーしていると練習棟はすぐだった。中に入って一度窓を開けて換気をする。残暑というには長い夏の湿気が部屋に残っていて、つい楽器の傷み具合が気になった。森田が荷物をパイプ椅子に置きながら会話を続ける。
「どーなの最近、
そろそろ聞かれるだろうなと思っていたので、三谷はつい笑みをこぼした。
「前よりは違和感なくなったと思うよ。あいかわらず指摘は細かいけど」
「それ、
答える前に三谷が指で軽くピアノを指さして先に弾いていいかを確認すると、森田はすぐにうなずいた。それにまたうなずいて、三谷はピアノの前に座る。
「最初の一音で止められることもあるけど、まあそれはどの先生もおんなじだし……」
森田が窓を閉めるのを視界の隅にとらえながら、三谷はピアノの蓋を開ける。
「右手の対になってる左手の内声とか、フレージングも。でもやっぱり一番こだわりが強そうなのは弱音かな」
「弱音」と繰り返し、森田はほんの二秒ほど考えたようだった。
「バラ四だとけっこう――半分くらいまでテーマの提示が多くない?」
「そこも含めてどうニュアンスの違いをつけるかとか――」
言いながら手を鍵盤に乗せ、とりあえず最初から弾き始める。ハ長調にも聞こえるやわらかな前奏から、主題となるヘ短調のゆったりとしたメロディ――
ショパンのバラード四番は、技術的にとんでもなく難しい、というわけではないと思う。いや、たしかに難易度はすごく高いけれど、技術的な面で言えばリストの「超絶技巧練習曲」のほうがもっと難しかったりする。でも――
たぶん、ショパンの難しさと、それに比例する美しさを詰め込んだのが、この四番――と、三谷夕季は思っている。
ゆったりとしたテンポで叙情的なメロディが層を重ねて曲を織っていく。ただそこで「なんとなく」の
半分ほど弾いたところでなんとなく手を止めた。理解が足りていない――練習量というか、曲との付き合いがまだまだ浅いので「なんとなく」にしかならない。それは森田も理解しているはずだ。
「――だいぶ変わったと思うよ」
予想よりも前向きな森田の言葉に、三谷はちょっとびっくりして視線を投げた。驚きが伝わったのか、森田はかすかに苦笑を浮かべた。
「参考に聞いてるの、ツィマーマンって言ってたっけ」
三谷はうなずいた。登録しているサブスクで配信されている音源には、ショパンの祖国であるポーランド出身の大御所ピアニストの曲があって、ほかのピアニストとも聴き比べた中で三谷自身がしっくりくる解釈だったのが彼だった。大御所であっても解釈、というか、好みが一致するかどうかは別問題なので、このピアニストの存在は勉強を進める上ですごく心強い。森田は納得がいったようにうなずいた。
「
ショパンの曲の基本の構成は、「歌うメロディ」と「伴奏」だ。曲の大小に関わらず、そのエッセンスは随所に見られる。そしてこのバラード四番を含め、森田が言うように「一人で歌手と伴奏を演じ分ける」のができない生徒は、日本中いたるところにいる。
「あとは――音色がちゃんと寒くなったっていうか」
森田はそこまで言ってすこし考えたようだった。森田がこうやって時間を取って感想を言うのがめずらしいのは、長い付き合いなので承知している。感想を聞かないという選択肢は三谷にはなかった。
「弱音に意思があるようになってきたっていうか。前がなかったわけじゃなくて、よりはっきり弱音でも聴かせるようになってきて、弱音でもちゃんと何を意図しているのかが伝わってくるようになった――かな」
そこまで言って森田は顔をあげた。
「そこが小野先生の弱音のこだわりってやつ、で合ってる?」
「――と、おもう」
うなずいてから三谷は体を森田のほうに向けた。いまは弾くより話すほうが、練習をする上で有意義だ。
「ただ、小野先生で難しいのは、具体的なやり方――体の使い方とかがあんまり言語化されてないところかな」
「ああ、前も言ってたやつか」
「うん。ていうか、たんに他人だから体のアプローチがちがうだけだとはおもうけど。そもそも身長差もあるし――自分の体の使い方と音色をすり合わせていくから、けっこうそれに時間がかかってる、ってかんじかな」
「時間がかかってるぶん、音色がよくなってるってのもありそうだけど」
それも事実だろうと思う。たった一音に数十分から数時間をかけ、音の出し方、その音の意味、体の使い方、――あらゆるアプローチを繰り返すのが練習だ。
森田は「ポーランドって」とつづけた。
「こういう景色の色してんのかなって、ちょっと想像しやすくなったと思う。行ったことないけど」
と言う森田は、三月の卒業式が終わってすぐに、一度ドイツの留学予定の学校――というよりもそこで師事する先生との顔合わせに行く予定だと聞いている。こっちの音大とおなじで先生に空きがあれば基本的に入学には問題ない、ということらしいけれど、すべてがうまくいくとは限らない部分もあるかもしれない。――まあ、涼なら問題ないとは思うけど。
と思っていると、森田が「あ」と声を出した。
(1-2に続く)
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