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 みそらのピアノの練習は、三谷みたにのアドバイスに葉子ようこが賛同したこともあって、練習室のほか、伴奏法などでも使う講義室を使うことも二度ほどあった。私情を挟みすぎなんじゃないか、と三谷がこっそり言うと、「学外での音楽の普及活動につながるって説明すればそこまで学校も頭固くないわよ」と葉子は苦笑していた。言われてみればたしかにそうだ。祖母がやっていることはもしかしてけっこうすごいことなのかも、なんてことを、みそらの練習を見ながら三谷はちょっと考えたりもした。

 練習のようすを見ていて面白いと思ったのが相田あいだ美咲みさきだった。いわゆるお嬢さま育ちをしているのでピアノも当然たしなんでいて、おそらく身につけているのは副科ピアノの及第点をゆうに超えていると思えた。それにみそらへの指摘も的確だった。「子供の情景」も何曲かやったことがあるらしく、自分や葉子とは違った視点からの指摘もあって、とくにドイツ語に関しては興味深かった。

 ドイツ語は子音をはっきりと発音する言語だ。それは歌にも反映されていて、シューマンの曲などを聞くと、たまに「これはドイツ語のニュアンスなのかな」と思うこともある。夏休みに菊川きくかわ先輩の演奏を聞いたからなおさらそう思うのかもしれない。ともかく美咲の指摘は葉子以上にそういうことが多かった。

「みそらー、『異国から』の符点、子音っぽくない。内声の三連符に引きずられないほうがいいよ」

 というような具合で、的を得ていると三谷も思う。ただ相手をするのは北原白秋はくしゅう――日本語だ。日本語は母音がはっきりしていて、子音のこまかさを苦手とするまったく別の言語だ。それを組み合わせるというのだからみそらはたまにこんがらがるのか、帰宅したらしばらくソファに寝そべっていることもあった。こういうみそらはめずらしくて、インターンをし始めたときを思い出させた。

 うつぶせになっているみそらの背中あたりにはどんよりとした疲れが見えるようだった。三谷は床に腰を下ろし、みそらの背中まであるきれいな髪を指でゆっくりと梳いていく。

「ご飯、食べれそう?」

「……食べる。食べないと糖分が足りない」

 低めの声でそう答えて、みそらは顔を横にむけて三谷を見た。長いまつげが部屋の明かりにかすかにかがやく。

「伴奏って大変なんだなって、あらためて思ってます」

「今回のは厳密には違うけどね」

「うん。でも――いつもありがとうって思ってるけど、思ってる以上にありがとうだったなって」

 右の頬をぺたんとソファの生地につけたみそらは、いつもより幼く見えた。

「曲の理解も、話の筋の理解も、言語の理解も、そして呼吸のことも。ぜんぶ甘えてました。……ごめんね」

 甘え、という言葉にどうしても違和感があって、三谷は首をかしげた。

「甘えっていうか、慣れじゃないの?」

「それもあるけど……わたし、ほんとに三谷じゃないと歌えないのかもしれないって、そう思った。だめなほうの意味で」

 軽くみそらの頬にふれる。それが先をうながしていると伝わったのか、みそらは軽く瞳を伏せて続けた。

「三谷だったらいままでの積み重ねっていうか、それこそ慣れっていうか、どこがどうっていうのもわかってるし、修正しようと思ってもすぐに話し合えるし。でももしこれが葉子ちゃんとか清川さんとかならどうなのかなとか、うまく伝えられるかなとか。――それが副科声楽のレッスンだとどうなるかなとか」

 ああ、そこか、と納得する。葉子や清川奈央なおのことは、たぶんみそら自身もどうにかできるとどこかで思っている。だからいまほんとうにみそらが不安に思っているのは、副科のレッスンこと――来春からの自分のことだ。

 なにか言おうとして、でも適当な言葉が思いつかなかった。それはたぶん、自分が卒業後に続けるものが、いまとおなじ「生徒側」だからだ、と気づく。教えるほうの不安は、想像はできても実感はできていない。すくなくとも葉子と何度もレッスン見学に足を運んでいるみそらとは、きっとぜんぜん認識は違うと思う。――こっちのほうが甘えじゃないだろうか。

 体の中に湧き上がってきたそれらを、でもうまく言葉にできる気がしなかった。落ち込んでいるみそらを目の前にして、何も言えない自分に対するいらだちか、焦りか……でもそういうものとはまた別のものもあるような気がして、三谷はしばらく言葉をさがしていた。壁にある時計の針の音と、遠くのバイパスを走る車の音、そしてみそらの呼吸だけを聞いていると、みそらが帰りぎわにそっと言ったことが思い出された。

 しらちゃん、ちょっと変じゃない? ちょっと違うんだよね。目が合わないっていうか、なんか……うまくいえないけど。

 三谷としてはみそらの感受性に舌を巻くばかりだった。白尾しらおにあんな顔で「黙っていて」と言われているからそうしているけれど、でなければさっさと話している。それがみそらの落ち込みにいくらか拍車をかけているのがあきらかだからだ。そして同時に、この感受性こそが講師に向いているのだと、「生徒」を二十年近くやってきたからわかる。講師の第一の素質は、技術でも、経験でも、実績でもなく、この生まれ持った、他人のごくわずかな変化をつかまえる繊細さなのではないか――

 ふいにみそらがまぶたを開けた。その瞳の色にはさっきまでのような疲れとか不安は見当たらなかった。

「よし、じゃあご飯作ろ」

 言うやいなやさっと起き上がってソファから降りる。

「食材、何が残ってたっけ」

 いつものようにてきぱきと動き始めたみそらを見て、それでもすこし心に引っかかりを感じる。――なんであのときあれを見てしまったんだろうと、すこしだけ自分の間の悪さをうらめしく思いながら「たぶん卵はあったよ」と言いながら三谷も立ち上がった。


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