6
みそらのピアノの練習は、
練習のようすを見ていて面白いと思ったのが
ドイツ語は子音をはっきりと発音する言語だ。それは歌にも反映されていて、シューマンの曲などを聞くと、たまに「これはドイツ語のニュアンスなのかな」と思うこともある。夏休みに
「みそらー、『異国から』の符点、子音っぽくない。内声の三連符に引きずられないほうがいいよ」
というような具合で、的を得ていると三谷も思う。ただ相手をするのは北原
うつぶせになっているみそらの背中あたりにはどんよりとした疲れが見えるようだった。三谷は床に腰を下ろし、みそらの背中まであるきれいな髪を指でゆっくりと梳いていく。
「ご飯、食べれそう?」
「……食べる。食べないと糖分が足りない」
低めの声でそう答えて、みそらは顔を横にむけて三谷を見た。長いまつげが部屋の明かりにかすかにかがやく。
「伴奏って大変なんだなって、あらためて思ってます」
「今回のは厳密には違うけどね」
「うん。でも――いつもありがとうって思ってるけど、思ってる以上にありがとうだったなって」
右の頬をぺたんとソファの生地につけたみそらは、いつもより幼く見えた。
「曲の理解も、話の筋の理解も、言語の理解も、そして呼吸のことも。ぜんぶ甘えてました。……ごめんね」
甘え、という言葉にどうしても違和感があって、三谷は首をかしげた。
「甘えっていうか、慣れじゃないの?」
「それもあるけど……わたし、ほんとに三谷じゃないと歌えないのかもしれないって、そう思った。だめなほうの意味で」
軽くみそらの頬にふれる。それが先をうながしていると伝わったのか、みそらは軽く瞳を伏せて続けた。
「三谷だったらいままでの積み重ねっていうか、それこそ慣れっていうか、どこがどうっていうのもわかってるし、修正しようと思ってもすぐに話し合えるし。でももしこれが葉子ちゃんとか清川さんとかならどうなのかなとか、うまく伝えられるかなとか。――それが副科声楽のレッスンだとどうなるかなとか」
ああ、そこか、と納得する。葉子や清川
なにか言おうとして、でも適当な言葉が思いつかなかった。それはたぶん、自分が卒業後に続けるものが、いまとおなじ「生徒側」だからだ、と気づく。教えるほうの不安は、想像はできても実感はできていない。すくなくとも葉子と何度もレッスン見学に足を運んでいるみそらとは、きっとぜんぜん認識は違うと思う。――こっちのほうが甘えじゃないだろうか。
体の中に湧き上がってきたそれらを、でもうまく言葉にできる気がしなかった。落ち込んでいるみそらを目の前にして、何も言えない自分に対するいらだちか、焦りか……でもそういうものとはまた別のものもあるような気がして、三谷はしばらく言葉をさがしていた。壁にある時計の針の音と、遠くのバイパスを走る車の音、そしてみそらの呼吸だけを聞いていると、みそらが帰りぎわにそっと言ったことが思い出された。
しらちゃん、ちょっと変じゃない? ちょっと違うんだよね。目が合わないっていうか、なんか……うまくいえないけど。
三谷としてはみそらの感受性に舌を巻くばかりだった。
ふいにみそらがまぶたを開けた。その瞳の色にはさっきまでのような疲れとか不安は見当たらなかった。
「よし、じゃあご飯作ろ」
言うやいなやさっと起き上がってソファから降りる。
「食材、何が残ってたっけ」
いつものようにてきぱきと動き始めたみそらを見て、それでもすこし心に引っかかりを感じる。――なんであのときあれを見てしまったんだろうと、すこしだけ自分の間の悪さをうらめしく思いながら「たぶん卵はあったよ」と言いながら三谷も立ち上がった。
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