1-2

(承前)


「みそらって案外、ストーカーとかされたことなさそうだよね。ああいうのって同族を引き寄せるものっても聞くし、そう考えればなくて当然か」

「え、どういう意味……?」

「ソプラノらしいね、ってこと。前にも言ったけど、高潔っていうところかな。へたに手を出せない雰囲気は誰にでも伝わるんでしょうね。とはいえ、さっきの子たちみたいに、そこがいい、ってなっちゃう子たちもいるわけで」

 ここで有名税なんて安易な言葉をもってこないあたりが葉子ようこらしかった。みそらはもう一度、二人が出ていったドアを見た。

「……伴奏、前向きな子もいるんだね」

「そう見えた?」

「ここから見てる分には、けっこうまじめに聞いてるなと。その理由のひとつになれたかも、っていう部分はうれしいんだけど」

 自分の歌が、伴奏への興味のあと押しになることは素直にうれしかった。相手の発露の仕方に驚いただけだ。葉子も片づけながらうなずく。

「そうね、それが本来わたしたちの役目だしね」

 以前、江藤えとう先輩に「ファン」と言ったことを思い出す。先輩がそれを受け入れてくれたのは、先輩がおおらかだったからだろうか。

 とはいえ、とりあえず実害もなかったのでそこまで引っ張る問題でもないか、――と思ったところで、ドアが開いた。一瞬さっきの二人かと思って体が瞬間的にこわばる。

「終わった?」

 姿を見せたのは三谷みたに夕季ゆうきだった。思わずがっくりとうなだれるみそらの背中を、葉子がぽんぽんと軽く叩く。

「いいよ、入って。ていうかみっちゃん、『O mio』やってあげてくれない?」

「え、ここで?」

「あ、ううん、ごめん、家とかで。もうここ、鍵閉めるからね。みそら、すっごく頑張ってくれたから、ちゃんとした伴奏でねぎらってあげて」

 ちゃんとした、という言い方で三谷はなんとなく察したようだった。段差を降りてきてそのまま前の座席にあったみそらの荷物を取る。

「また先生が無茶振りしたんじゃないの?」

「やれる子だから来てもらったんだもの」

 悪びれない葉子に、ついみそらは笑いこぼした。ほとんど苦笑だったけれど、――でもたしかに、葉子の要望に応えられるのは、声楽なら自分だろう、と思えてきたのも事実だ。そう思うとすこし気が晴れてきたので、三谷に向かって言う。

「ついでに来週の『Vaga luna優雅な月よ』もかな。あれ地味に体力使うし、いまのうちからやっときたい」

「うん」

 と気軽に請け負って、歩いてきた三谷はみそらに荷物を渡した。それにみそらが楽譜をしまっていると、すでに葉子はドア近くまで移動していた。先生たちはほんとうに撤収が早い。

 九十分の講義のほとんどが自分へ注がれる視線との対峙だったということもあって、廊下から見える初夏の空は瞬間的に目を細めるほどにまぶしかった。青い空に緑の葉が映える季節だ。

「じゃあまた来週もおねがいします」と講師口調で言って、初夏の光をまとった葉子は颯爽と去っていった。年度が変わってまたすこし忙しくなったみたいだな、と思い、みそらはやっと大きく息をついた。

「なに、ほんとに疲れてる」

 隣の三谷がちょっと驚いたようにつぶやいた。みそらはうーんと生返事をして頭の中で取捨選択をする。最後の女子二人については言わなくてもいいだろう。

「……なんか、トゥーランドット姫がいたんだよね」

「なにそれ」

「今日当てられてた子なんだけど、なんというか、すごくお姫さまだなって印象の子がいて。うまいんだろうっていうのは演奏からも周りの反応からもわかるんだけど、どうにも伴奏がね、なんか……」

「膝を折りたくなさそうな?」

「――だね。誰にもびない月のような子、って思って見てたらなんだか、トゥーランドット姫を連想しちゃって」

 説明しなくても三谷には「トゥーランドット」の内容も、姫のキャラクターも通じている。三谷はなるほど、とつぶやいて歩き始めた。

「なんて子?」

永本ながもとさん」

 ぱっと三谷がみそらを見る。

「それ、小野おの先生のところの生徒」

 小野先生、の名前が聞こえた瞬間、みそらの中でイメージが一気に作られていく。――もやがかかっていた景色から白いものが吹き払われ、景色があざやかに色づいていく。

 見覚えがあるような気がしたのは間違いではなかった。年度はじめの小野・羽田門下の合同発表会を例年どおりに見に行ったときに、去年よりも目立つようになった子がいる、と思ったのが永本さんだったのだ。名前を記憶していなかったのですぐにつながらなかったけれど、――そうか、なるほど、小野門下だったのか。

「だから見たことあったんだ」

「いま小野門下の中で、一番の出世頭っぽいよ」

 門下も学年も違う三谷が詳しいのは、今年度から受け始めたダブルレッスンのおかげだ。葉子から声をかけられた小野先生のダブルレッスンは、それこそあっさりと話がとおり、オーディションもほとんど初回レッスンのようだったと聞いている。

「だからだと思う、伴奏に乗り気じゃないの」

「……小野先生の影響?」

 三谷のコメントに、思わず疑問符をつけて返事をしてしまう。

 前期がはじまってまだ一ヶ月半ほどの、月曜日の三限終わり。日はかなり長くなってきていて、この時間でも行き交う生徒は多い。一年生は学校に慣れてきたころだろうし、教職課程を取っている生徒以外の二、三年生は自由時間も増える。一方で四年生は徐々に就活という二文字と本気で向き合いはじめつつあった。でも学校はそれを全部飲み込んで、やっぱりゆったりと、生徒たちを見守っているようだった。

 三谷の横を、一年生らしい集団が逆方向に向かっていく。まだ講義があるんだろうなと思いながら横目で流していると、「それもあるんじゃないかな」と三谷が言った。

「小野先生、あんまり好きじゃなさそう。伴奏が、っていうより、伴奏に時間をさくのが、って言ったほうが正確かもしれないけど」

「へー、意外……」

 葉子の師匠なので、小野先生も伴奏が好きなのかと勝手に思っていた。

「葉子先生が伴奏を本格的にやりはじめたの、留学してからだって」

「え、そうなの?」

「ここにいる間は、特待生を維持するために一人くらいに絞られてたって言ってた。まあそれはそうだなと思う」

 特待生、という言葉にみそらも納得した。つい先ごろの三月まで、三谷が江藤先輩に付きっきりだったのを知っているからだ。しかもピアノ専攻は練習量が多い。その中で毎年試験によって更新される特待生の肩書を維持し続けた葉子もまた、やっぱりある意味怪物なのだ。

「でもまあ、たぶん、小野先生はあんまり好みじゃないとは思う。なんとなくだけど」

「そうなの?」

「どっちかっていうと……不可侵なんじゃないかな。先生の妹さんは声楽やってたらしいし、だからよけいにみ分けになったのかなって思ったり」

「なるほど、棲み分け……」

 思った以上にあっちの門下になじんでるな、と感じるのはこんなときだ。結果、三谷は四つの門下――そもそもの担当講師である葉子の羽田はねだ門下、伴奏での交流が多い木村門下、江藤先輩が所属していた山本門下、そして今回のダブルレッスン先である小野門下――をまたがっている形になる。これも人脈のあり方のひとつの形かもしれない。

 そんなことを思っていると、「やっぱり」というちいさな声が隣から聞こえてきた。

「入っとけばよかったかな」

「なにに?」

「さっきの伴奏法。葉子先生には止められたけど」

 え、時間あるから見にくる? やめときなさい。四年生がいるとか、二年生が萎縮しちゃうでしょ。――という葉子の言葉が、三谷が今回講義にいなかった理由だ。でも――とみそらは思って、横目で隣を歩く三谷を見上げた。

「よけいに気なってきた。永本さんのこととか」

 ほら、言わんこっちゃない。つい胸の中で言ってしまって、みそらは思わずそれにも笑いこぼしてしまった。

「結果そうなるよね」

「そうなるよ。それにそもそも、山岡の伴奏を誰がしてるのか把握してないのって、まじでちょっときもちわるい」

 本気で嫌そうな言い方に、でもみそらは妙な声が出そうになっておもわず両手で口元を覆った。そのまま立ち止まったみそらに、さすがの三谷もちょっと怪訝けげんそうな視線を送る。

「……どうかした?」

「……した。いまのやつ、もう一回言って」

「え、なんで」

「いいから。おぼえておきたいの」

「……『まじでちょっときもちわるい』?」

「惜しい! その前から」

「いやなんのコント」

 結局言ってもらえなかったけれど、みそらとしてはもう、胸の額縁に入れて飾っておきたいくらいだった。それくらいの破壊力があることを、たまにこの伴奏者は忘れている。でもそれくらいに、それが三谷の中で自然なことになっているのかもしれない。そう思うと胸がぎゅうと締めつけられていく。

 四号棟の玄関口で、一度三谷とは別れる。それぞれにこれから四限、五限と授業があるからだ。四年生になったからといって、大してコマは減らなかった。でもそれがすこし、みそらの胸のあたりをやわらかくさせる。

 今日を乗り切ると、あしたは火曜日。みそらの大好きなファントム――木村先生と差し向かいで火花を散らす、大事な大事なレッスン日だ。

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