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合流した店でいつものブラックコーヒーを頼むと、「こういう時くらい高いのにすればいいのに」とみそらはどこか残念そうだった。みそらにとっては奢る約束というよりも、曲選びに付き合ってくれたお礼という意味合いが強いようだ。
「いいよ、おかわりできるんだからコスパいいし」
「それはそうですが」
カバンをバスケットに入れると重い音が響いた。最近持ち歩いている楽譜は薄いものが多いけれど、それが数冊となるとやはりそれなりの重さだ。
「山岡って、就職先の候補に音楽教室とかも入れてる?」
「うーん、音楽教室はなー、無理かなー」
こちらもいつものメニューであるラテを手にしたみそらは、席につきながら首をひねった。
「ボーカルレッスンに力を入れてる楽器店とかならべつだけど、やっぱり音楽教室は基本的にピアノ科のものだよ。声楽ならやっぱり聖歌隊とかになるんじゃないかな」
就職先にも楽器ごとの性質はあって、ピアノ専攻や電子ピアノといった鍵盤楽器ならばよくテレビCMを見かける音楽教室、管楽器・弦楽器・打楽器ならばオーケストラ、さらに管楽器や打楽器は自衛隊や民間、行政の団体などから募集がかかることもある。
一方で声楽はそのいずれでもなく、結婚式場の聖歌隊や、個人のボーカルレッスンなどがメインに挙げられる。
「管の人たちだと学校に入って部活指導とかも考えられるけど、……そもそもわたし教えるの向いてないんだよなあ」
「三谷は教えるのもできるんじゃないの? ワルツ選んでくれた時だってわかりやすかったよ」
なんで葉子先生と同じようなこと言うんだろう、と不思議に思った時だった。テーブルに置いておいたスマホがメッセージの受信を報せる。通知欄にある単語に目が行く。――え、なんだ今の。
スマホを手に取るとすぐにメッセージを確認する。二度ほど読んで、三谷は思わず正面に座る同級生を見つめた。
「なんかあった?」
みそらが瞬くと、まつげが花のように揺れた。それに返答しようとして、けれど言葉が思考回路で絡まってしまう。三谷は数秒かけてやっと言葉を絞り出した。
「……山岡、選抜の曲変えた?」
「変えてないよ? ……あ、もしかして」
みそらがピンときた顔をすると、またまつげが花のように揺れた。
「林先輩も『ミミ』になったって連絡きた?」
「え、なんで」
思わずレスポンスの速さが上がるが、みそらは動じなかった。
「昨日、木村先生から連絡があったの。林先輩が『ミミ』に曲を変えるかどうかを考えてるけど、どうするって」
「どうするって、どういう」
「わたしが曲を変えるかどうか、の、どうする」
とはっきり言って、みそらはカップを手にして椅子にもたれかかった。
「木村先生がね、きみも先輩からそういうことをされるようになるなんてなかなかやるじゃないかって言うの。それを聞いたらなんか、変えられないなと思って」
まあもともと変えるつもりもないんだけどね、と続けて、みそらは一口、ラテを飲んだ。その様子は店の景色にふさわしくくつろいだふうで、彼女の状況が大変なものではないかのように思える。――同門の先輩とオーディションの曲がかぶるなど、特別なことではない、そんなふうに。
『急にごめんね、今度の選抜だけど、まだ曲の変更がきくらしいから変更します。前にやった「ミミ」だからそちらの負担は少ないと思うけど、よろしくね』
先ほど林香織から送られてきたチャットにはこう書いてあった。読み返すたびに網膜に文字が焼き付く。
おそらくわかっていて、林香織は曲を変えたのだ。後輩、しかも同門であるみそらと同じ曲である『私の名前はミミ』に。
それをもう一度認識すると、今度こそぞっとした。ブラックアウトした画面を見ながら脳内で文字が回る。なんで――なんでそんな選曲ができるんだ――
「……三谷がそんな顔しなくていいんだよ」
鍵盤をそっと、けれどしっかりとレガートでつなげていくような丁寧な声が、視界をすっと撫でていく。三谷が顔を上げると、みそらがカップを包み込むようにして持ってこちらを見ていた。彼女の輪郭をわずかに、夕焼けの色が包んでいる。
「音大だもん、こういうこともあるよ。たまたま三谷とわたしが友だちで、三谷が林先輩の伴奏してるところに曲が重なっただけだよ」
目が合うと、みそらはふんわりと微笑んだ。それを見てかすかに背中が冷えた。――みそらはもう、これを受け入れている。
音大だもん。みそらが言った言葉が、先ほどの葉子の言葉を連れてくる。
――そういえば、林さんっていつもあんな感じ?
葉子に肯定の返事はしたものの、その言葉の意味を自分はつかめていただろうか。
「三谷は林先輩の伴奏なんだからさ、気にせずに伴奏に集中しなよ」
みそらの真っ当な意見に口が開けない。そもそも、自分は伴奏担当だ。主導権はソリストにあるし、――それに、みそらに関しては伴奏ですらない。
口をつぐんだ三谷を見て、みそらはもう一口ラテを飲んだ。二人が揃って買った飲み物はそろそろぬるくなり始める頃だった。カップを離したみそらは、声を少しだけ小さくした。
「……ごめんね、黙ってて」
ごめんと言われるのが合っているのかわからなくて、曖昧にうなずくしかできない。残った氷の冷たさが伝わって指先がじんと震えた気がした。
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