④ 優大実家 野立ベーカリー
優大の実家に寄ると、いつも野立のお父さんとお母さん、お兄さんにお嫁さんの義姉さんと、姪っ子が賑やかに迎えてくれる。
『舞さん、いつも綺麗なお花をありがとう』――と言ってくれるお母さん。
『こいつが一人前になるよう雇ってくださって、お父さんに本当に感謝していると伝えてくださいね』――と言ってくれるお父さん。
『舞さんが届けてくれる新鮮なカモミールのお風呂、本当に大好き、嬉しかった』――と喜んでくれるお義姉さん。
そして舞に『カムイ・ユーカラ』の小説を貸すために準備してくれていた優大のお兄さん。
「舞さん、これだよ。返すのはいつでもいいから、ゆっくり読んで」
優大に似ているけれど、こちらは穏和で静かな佇まいのお兄様だった。
「ありがとうございます。しばらくお借りしますね」
「あの家に最後にいた婆ちゃんが言っていたカムイが気になるんだって?」
「はい。どうして毎日、お茶を煎れて待っていたのかなと。同じ家に住むようになった者として知りたかったんです。少しだけ、カムイとアイヌの関係がわかって、気持ちのうえで繋がっていたのかもしれないと、絵本ではそう思えました」
さて、小説からはなにを感じられるのだろうか。舞はまだお婆さんが口にしていたカムイについての探求心がやまない。
小説を渡してくれた厨房の入り口を、優大の兄が覗き込む。
既にいつもの白いコックコートに着替えた優大が、もらってきた卵を黄身と白身に分けているところだった。
「ほんとうに、上川さんのお父さんには感謝しております」
お父様と同じことを、お兄さんも舞に告げる。
「作りたい物が作れなくて、荒れていた時期もあったんですけれどね。その土地で買ってもらえるもの、そうでないものがあるのですよ。うちはデイリーな馴染みやすいものを作り続けているので、優大が思うようなものは親父が造らせてくれなかったんです。おそらく、いままでのベーカリーでもそうだったことでしょう。それを上川オーナーが、一から商売はどう組み上げていくかを説いてくれたおかげで、地道な丸パンからこつこつ作るようになりましてね」
その話も、野立のお父様や父から良く聞いていたので、舞も『そうだったのですね』と相づちを打つ。
「でも、同じ職人として、ちょっぴり羨ましいですよ。好きな物を予算度外視でチャレンジできるのは……」
田舎町にあるパン屋の長男として、父親と共に経営をして安定した生活を真面目にやってきたお兄さん。理想を追い求め、荒れた生活を繰り返してきた次男坊だが、その夢を掴もうとしている弟。それでもお兄さんが厨房の入り口から送る眼差しは、弟を優しく見守っているものだった。
夕刻の静まった厨房にひとり、白いコックコートで調理をする優大は、ヤンキーな男ではなかった。
優大の焼きたてのシフォンケーキは最高だった。
彼の車でスミレ・ガーデンカフェまで送ってもらうときには、もう日が暮れる頃。
改めて見る夕のガーデンは、茜に染まる緑の丘からくる優しい風に撫でられ、舞が大好きなリバティプリントのようななめらかな艶やかさを見せてくれる。空にはまたいつもの宵の明星。ガーデンからカフェ前へと優大の車が停車する。
「優大君、一日、ありがとう。いろいろすっきりした」
自分の花畑から離れて、違う野の風に触れた一日。自分たちとは違う経営で商売を開拓しようと、同じ土地で頑張る生産者。家族で慎ましく営む暖かなパン屋さんの厨房で食べる優大渾身の焼き菓子。外の世界に久しぶりに触れた気持ちだった。
「じゃあ、明日な。卵のことも頼むな。それと、この卵でクラフティを試作する」
うん、この美味しい卵なら、濃厚なチェリークラフティができあがりそう。舞もわくわくしてきた。
優大を見送る。片手には今日、入手したものがいっぱい。新鮮な卵に、大好きなアカシアとクローバーのハチミツ。そして優大のシフォンケーキ。
家に入る前に、舞はふと今日は寄らなかった納屋へと視線を向ける。
育ち盛りのホリホックやデルフィニウムが揺れる影になってちらりとしか見えないが、森の薄暗い入り口と夕闇の中ひっそりとしているだけ。今日はそこにあの人の気配もない。
あとで行ってみようかな。焼きたてのシフォンケーキ。カラク様にも食べさせたいから。
あの人は幽霊? 精霊? それとも帰れない霊魂となってしまったカムイ?
ラベンダーの花びらが開くと、より清々しい香りが庭に漂う。
もうすぐ夏の花も終わる。
終わったら今度は、秋の花、ダリアやコスモスが花盛りになる。
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