第56話 風の洞窟

 「もう行くのですか?」


 さして多くもない荷物をまとめて、軍の宿舎を出たハンナを予想外の人物が出迎えていた。


「……はい、大佐。一度、森に帰ろうと思っています」

「そうですか……ボルドの件で一言、お礼をと思いましてね」

「そのことならば、もう十分に対価を頂いております。エルフ種の森における半永久的な自治の約束。それで十分ですわ」


 カイネルはその言葉に軽く頷いた。


「そもそも、我々はあなた方エルフ種と敵対するつもりなどはないのですよ。どの種族よりも魔法に長けたあなた方を完全に従わせるには、こちらも相応の被害を覚悟することになりますのでね」


 それでも自分たちが完全にエルフ種を従わせることができないと、この大佐は言わないのねとハンナは思う。

 事実その通りなのだろう。ただそれを行うには、お互いに流す血が多すぎるだろうことが明白だった。


「その話は別にしても、本当にあなたには感謝しています。あなたが常にボルドの傍にいてくれてなければ、今頃はボルドも亡き者となっていたでしょう」


 ハンナはその言葉にゆっくりと頷いた。


「ボルド少尉には宜しくお伝え下さい。僭越でしょうが、助かった命です。助けてもらった命です。死んでいった彼らのためにも、無駄にしてほしくはないです。少尉の今日は、死んでいった彼らがきっと生きたかった未来でもあるのですから……」


 今度はカイネルが黙って頷く番だった。そんなカイネルを見つめながらハンナは言葉を続けた。


「隊の中で生き残ることができたのは少尉と抜刀兵のダネル。後は戦闘員ではない私と通信兵のマークだけでした」

「激戦でしたからね。全滅した小隊も数多くあります」


 その激戦を指揮したのは誰だったのか。ハンナは改めてカイネルの顔を厳しい目で凝視した。そんなハンナの視線を真正面から受け止めながらも、カイネルは何ら表情を変えることはなかった。


 よくも悪くも大した男なのだとハンナは思う。当初の目的通りボルドさえ無事であれば、他の者の生き死になどは些細なことといったところなのだろう。


「それでは大佐、失礼致します。精霊の祝福を……」


 ハンナはそう言い残すとその場を後にしたのだった。





 故郷であるエルフ種の森に足を踏み入れたハンナは、村に戻ることなく風の洞窟へと最初に足を向けた。


 エルフ種がその守護者として保護している風の洞窟。

 ここから全世界に存在する風の精霊、その全てが生まれてくるのだった。


 洞窟内は外気よりも気温が低く、僅かに吹く風と相まってかなり涼しく感じられた。


「ハンナがこの洞窟に来るなんて、珍しいこともあるものですね」


 そう言いながら洞窟を訪れたハンナの前に姿を現したのは、同じエルフ種のルナグレースだった。


「お久しぶりです、ルナグレース様」


 ハンナはそう言って頭を下げた。ルナグレースは風の神殿に属する巫女であり、彼女が風の洞窟を管理していた。


「森を出て魔族の街に行っていると聞いていましたが、帰ってきていたのですね」


 ハンナはその言葉に頷いた。ルナグレースはそんなハンナの顔を見ると少しだけ表情を和らげた。


「いい顔をしています。色々と学ぶところがあったみたいですね。あなたはいずれエルフ種を統べる存在。学ぶことがあったのならば、喜ばしいことです」

「ええ、ルナグレース様……」


 ハンナはそう言って少しの間、目を閉じた。瞬く間に魔族の世界で経験した様々な事柄が胸の中を駆け巡っていく。


 ふと気づくと三つの青白く光る球体が、ハンナの頭上をくるくると旋回していた。


「あら、随分と人懐っこい精霊たちですね」


 ルナグレースもそれに気がついて、宙を飛ぶ三体の精霊たちを見上げている。


「ええ……」


 ハンナはそう呟くと、自分の頭上で旋回する風の精霊たちに向けて片手を伸ばした。伸ばされたハンナの手に戯れるかのように、三体の精霊たちはその周囲を飛び交っている。暫くの間、そうして三体の精霊たちとハンナが戯れていると、背後でルナグレースの少しだけ驚いたような声が上がった。


「おやまあ、今日は一段と元気な風の精霊が生まれたみたいね」


 ルナグレースのその声に引きつけられるようにハンナは青色の瞳を向けた。


 ルナグレースが言うように、他のどの精霊たちよりも元気に素早く周囲を飛翔している活発な風の精霊がいた。


 やがてその精霊はまるでたった今、こちらに気がついたというようにハンナの方へと勢いよく一直線に向かって来る。すると、ハンナの周りにいた三体の精霊たちがそれを出迎えるかのような動きを示す。


 合わせて四体になった風の精霊たちは、まるで互いに再会を喜んでいるかのように宙をぐるぐると回り出す。


 少しだけ顔を上げてそれを見つめていたハンナの両頬を静かに涙が伝った。

 ルナグレースはそんなハンナの様子を見て少しだけ不思議そうな顔をしたが、口を開くことはなかった。


 やがて皆で宙を舞うことにも飽きたのか、四体の精霊たちは一体、また一体と洞窟の外に向かって飛んでいく。


 最後に残されたのは、今日生まれたばかりだという先程の誰よりも動きが活発な精霊だった。


 その精霊はまるで名残を惜しむかのように、暫くの間は一体だけでハンナの頭上を旋回していた。そして、やがては意を決したかのようにハンナたちを置いて、洞窟の外に向かって飛翔して行ったのだった……。

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