第14話 山の珊瑚

 片割れ月は山のに姿を現し、光芒こうぼうが谷へと差し込む。月光に白い肌と赤黒い傷をさらしてクロエは立ち上がった。濡れ髪が肉叢ししむらに張り付き、水が滑らかな曲線を伝って地へしたたる。腕を伸べ、海綿を握ると、しずくが銀の輝きを含んで顔へ落ちた。

 クロエはゆっくりと新しいキトン麻服を取り、湿った肌の上に着付ける。そのかすかかな衣擦れに石の転げる音が重なった。


「呆れたな。懲りずにまだ山にいるなんて」


 彼女は僅かに首を回し、肩越しの視線をイリソスへ寄こす。それは流し目のようにつややかにも、にらむように冷ややかにも見えた。


「のぞき見?」


 淡白な一言に彼が狼狽ろうばいの色を見せると、クロエは初めて薄っすらと笑みを浮かべる。


「冗談よ」


 それを聞いたイリソスは怒気をあふれさせた。


「はぐらかすなよ! 君も入ったきりになるところだったんだ。それじゃ、復讐も何もないじゃないか。デイアネイラが山の中にいるわけじゃないだろ!」


 激しい声は月影に乱反射したかに響いた後、不穏な静けさを連れて来る。その静謐にクロエは動ずる気配もなく、変わらず目の端で彼を見ていた。イリソスは苛立ちを募らせ、言葉を継ぐ。


「何をしたいにしても君は金持ちなんだから人を雇えば良い。自分が入らなくたって済む」


 本心を吐き出し、イリソスが顔を背けた瞬間、凛とした声が通り抜けた。


「デイアネイラと同じことをしろ、と言うの?」

「……それが賢いやり方だよ。今だって君は奴隷を連れて行ってるじゃないか。君が一緒かどうかなんて大した差じゃない。ただの自己満足だ」


 強情なまでの意思を宿らせた彼女の視線を受け、イリソスはどこか弁解するように言い返す。それを黙したまま、横目にとらえていたクロエはやおら彼へと向き直った。


「知ってるでしょう? 奥の坑道は細いって。私だから行けるの。少年奴隷を買え……なんて、あなたは言わない人でしょう?」


 その声音と目線に含まれる僅かなびがイリソスには不快だった。彼女のそんな一面を否定したい余り、思わず口調はさげすみを含む。


「そんなに銀が欲しい?」


 しかし、クロエは即答した。


「欲しいわ」

「今あるだけでも一生、暮らして行くのに不自由はしないだろ?」

「私が欲しいのは、死ぬまで暮らして行ける生じゃない」


 彼の追及にクロエは小揺るぎもしない。その迷いのなさがイリソスには苦しかった。彼女とイリソスは見る景色も、望む人生もまるで違う。

 そんな心情を見て取ったか、クロエは表情を和らげ、彼へと歩み寄った。


「心配してくれるのは嬉しいの。私を本気で心配する人なんて滅多にいないもの。だから……一つ、私の秘密を預かってくれる? 少し前に珊瑚を見つけたわ」

「珊瑚? 山で?」

「坑道の奥で、尾をむ蛇の頭に彫られた紅珊瑚を見たの。昔、珊瑚のビーズ管玉でウロボロスをかたどった髪紐ディアデマを持ってて、彼にあげたわ」


 クロエはイリソスの胸に掌を当て、寂し気に微笑む。


「あんな所、男の人は入れない。せめてもう一度、その珊瑚に辿り着くまでは山を下りたくないの……わかって、お願い」


 彼女の額がイリソスの肩に乗り、濡れ髪が垂れて彼の服を湿らせて行った。



――君は大事なことは伝えない。

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