A博士とB君

内宮いさと

年の瀬の話

「君、十二月三十一日は特別な日かね」

 A博士がその蛇に似た難しい顔で何やら考えているのはいつもの悪癖に相違なかった。

「え? ええ。特別ですとも。大掃除をし、年越し蕎麦を食べるではありませんか」

「いいやそれは逆転しているのだ。君は暦に騙されているのだよ」

「はあ――」

 B君は料理の手を動かしながらも曖昧に頷く。やがてちらと目を上げ、台所の入り口で考え込んだまま全く動く気配のないA博士を見やった。

 かの先生の足下に転がった雑巾はあとで拾うことにしよう。

 A博士は演説を続ける。

「大晦日が特別だから大掃除をし、年越し蕎麦を食べるのでない。君、十二月三十一日は純然たる十二月三十一日に過ぎないのだよ。誰だか知らないが、大掃除をし、年越し蕎麦を食べる日を十二月三十一日に制定したものだから、特別に見えるのだ」

「はあ」

 B君はふつふつと沸いてきた湯に、きんとんになる予定のさつまいもを投入した。

 海老や数の子、かまぼこなどの準備はとうに済んでいるからこれが最後の料理なのである。

「仮に大晦日の習慣が全く違っていれば、十二月三十一日に行うのは大掃除でなくて衣替えだったかもしれない。そもそも大晦日に何か行動すること自体が悪であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。正月を、年明けをめでたいと祝う文化が育ち、その事前準備をするべき日と文化が定義付けたから我々はこうしているにすぎないのだ。しかしだね、これでは我々は文化の奴隷ではないか。違うかね」

 ――そうだろう。大掃除も蕎麦も、バレンタインデーもホワイトデーも、はたまたハロウィンのばか騒ぎも、きっと決まった当初は奇妙な習慣であったに違いないよ。

 A博士は続ける。

 私は文化の奴隷でなく、自立した確固たる人間であるから、是非とも自らの意志に従い選択して生きていきたいと思っている。

「……はあ」

 A先生の独擅場を聞き流しながら、B君は反撃手段を思いつき、洗い物の手を止めた。

「つまり先生は、僕が今懸命に準備しているお節を明日のお正月には召し上がらないということで」

「……」

「栗きんとんもお雑煮もご不要であるということで」

「……」

「僕は純然たる文化の奴隷ですからいただきますが、確固たる自立した人間であらせられる先生には無用の長物ですね」

 A博士は思案した。長考であった。

 その長考を終えると、ふっと笑った。

「いいや。いいや違うぞB君。私は正月や大晦日の文化には従うつもりもないが、君の作る料理は一等好きだ。純然たる、確固たる、自立したひとりの人間として、好きなものを食べることを選択しよう。正月がめでたいから食べるのではない。せっかく作ってくれた君の心映えに感謝する意味で、そうして私が好きなものを食べるという意味で、お節なる料理をいただこうではないか。さあ、どうぞその手を止めずに続けたまえ」

 だが誓って言おう。私は純然たる、確固たる、自立したひとりの人間として大掃除を放棄すると。人間たるもの、自らの意志に従い選択して生きることが大事だ。A博士は胸を張ると豪快な笑い声を立てながら自室へと去っていく。

「はあ……」

 B君は大仰にため息をつきながら火を止めて、さつまいもをざるに上げる。シンクがべこんと音を立てた。

 ――屁理屈学の第一人者、A博士。

 奔放なる彼の弟子に入ったのは早計だったろうか。来年が思いやられると、B君はもう一つため息を吐いた。

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