第3話 夜と光

 ほとんど真東から、吾輩の両の羽を広げても覆えないほどの月が昇ってきた。

 影は半分こ、月面の模様が半分だけでこちらに笑いかけてくる。


≪今宵は上弦の月。斯様かような凸凹に月の兎は居るという。まだ月が幼き頃でさえ見えたのだから、今顔を出さぬのは如何故か≫


 吾輩がいくら賢くても、鳥の頭では判らないのである。

 人間は賢い。この黒い線も、海のあちらこちらから飛び出している巣も、全て人間が創ってきた。


 星々が霞んで見えなくなるほどの月明りが、静かな海面にもう半分の月を浮き上がらせている。

 海の色は半宵色ミッドナイトブルー。吾輩好みの美味そうな魚が泳いでいる。鳥だが鳥目ではない吾輩には、暗闇は眩しすぎるくらいであった。


≪もっとも、世界がこんなことになったのも、また人間のせいであるのだが≫


 スッと扉が開く音がして首を真後ろに向ければ、ウェットスーツを着た彼女が立っていた。わずかな風に靡き、頭の銀が青白く煌めく。


「ほんとに歌ってた。ほーほー」


≪今のは違うのだ。恨み節をのたまっていたわけではないのだ≫


 爪でビルの縁を掻き、わずかに飛び上がりながら言い訳をする。

 言い訳をするのは人間らしくて、吾輩は好きだ。


「ふふ、どうして焦っているの。私は何も聞いてないよ。言葉はただの音だから」


≪そうか……いや、そうか。それで、吾輩の食事はこれからか?≫


「うん。隣の沈んだビルの中にイワシの群れが居そうだったから獲ってくるよ」


≪ふむ。気を付けるのだ、この海、それだけではなさそうだぞ≫


「はーい」


 分かっているのかおらぬのか、銀の毛をくるくるもてあそびながら、彼女は吾輩の方へ向き直る。


 それから腕を広げ、高く跳び上がった。


≪なんと……見事な羽ばたきか≫


 実際に羽を広げたわけではないが、鳥の吾輩がそう思ってしまうほどに美しい跳躍。

 月の中を泳ぐように、空でくるりと身を翻した。やがて、彼女はゆっくりと水の中へ墜ちていく。


 ぽちゃん。


 ◇


 水に入った瞬間の音は、ずっとずっと軽いものが落ちたみたいに静か。

 密度の少ない水は柔らかくて、空気がいっぱいに含まれたシルクみたいに包み込んできた。


(うん。やっぱり、水の中は気持ちいい。母なる海っていうけれど、私も海から生まれたのかなー)


 陽射しの中を歩いて熱を持った身体がどんどん冷えていって、それに合わせるように視界が少しずつ暗くなっていく。

 反射鏡の光は太陽光で水中を明るく、温かくするためにあるから、どれだけ大きくても月光は淡く溶けていってしまう。

 光の線が絵具を落としたように歪んでいって、やがてプルシアンブルーよりも深い濃紺の中に層を作る様子が私は好きだった。


(でも、どうしてこんなに暗いんだろう。私は見えるけど、近くにビルがあるのに……あ)


 自分が元いた場所から、光が来ていなかった。

 正確には、私が案内された階より下に明かりが灯っていなかった。


(電気は通したはずなのに……寝てるのかな)


 私が来るまでにはそれなりの年月が経っているから、生活習慣が変わらないのかもしれない。


(ま……いっか。そんなにいっぱい捕まえてられないもんね)


 この身体じゃ泳ぐのは速くないから、あの男の人に少し分けるのが精いっぱい。

 鈍く光るいわしの影を目指して、私は静かにバタ足を始めた。

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