第九章


 日暮里駅近くの谷中霊園の裏手に《typeX被害者の会》の事務所はあった。何故この場所かというと単に安かったからだ。墓地周辺はあまり人気がなかったので全国からの寄付金だけで賄っていて、金銭的に余裕のない千草たちは借りることにしたのだった。全国を講演とかで飛び回っている千草も時々は顔を見せて電話相談を買って出ることもあった。

 《被害者の会》の顧問弁護士である橘優作も、週二回から三回はこちらの事務所に顔を出していた。電話番の中年女性は常駐していた。被害者の会副代表である金沢ユキも、出来るだけこちらの事務所には顔を出すようにしていた。

 事務所の電話がさっきから鳴りっぱなしだった。とても電話番の女性だけでは手が回らないので、ユキも手伝って電話対応にあたっていた。もちろん昨日の原千草暗殺未遂事件に関する取材申し込みがほとんどだった。

「もう、手いっぱいです。橘さん、なんとか対応してください!」

 しぶしぶ、左腕を負傷して包帯を巻いたままの姿で、橘優作は事務所前でマスコミの囲み取材に応じた。言語道断でありいかなる理由があろうとも許されざる蛮行であり、絶対に許すことが出来ないというような趣旨のことを何度も何度も繰り返し同じような質問をしてくるマスコミに対して根気よく答えている橘を見て、ユキはなんだか気の毒に思えてきた。

 昨日の事件発生時だってそうだ。刃物を持って突進してくるあの若い男から千草を守ろうと、必死になって盾になったのは他ならぬ橘ではないか! なのに、揉み合った際にほんの軽傷とはいえ怪我をした橘に対して千草は余りにも冷たいのではないかと思ってしまうユキであった。それは直前に週刊誌にあんな記事が出てしまって敏感になっているのはわかる。

 それにしても、大げさでなく命を張って千草を守ってくれた橘に対して、もう少し優しい言葉のひとつもかけて労わってあげても罰は当たらないんではないかとユキは考えていた。そういう意味ではユキだってその記事の当事者の一人でもあった。何故ならその記事は、「橘弁護士を巡る三角関係!」という扇情的な見出しで読者を釣り、ユキと千草が橘弁護士を奪い合って恋の鞘当てをしているという内容だったからである。

 ユキの夫は真面目な公務員であった。市役所の土木課に勤務していて酒も煙草もやらず、ギャンブルにも手を出さず、毎日決まった時間に帰ってくる夫であった。二人の間には五歳になる娘がいた。職場結婚であった。気づいたらなんとなく付き合っていて、なんとなく結婚していた。大恋愛でもなくものすごく惹かれたわけでもなかった。愛しているとは思わなかったが、家に居ても邪魔だと思ったこともなかった。強いて言えば可もなく不可もなくだった。今の生活に満足しているとは言えなかったが、さりとてさしたる不満もなかった。

 ところが夫は浮気していた。それも相手が人間ならまだ我慢が出来た。人間ですらないtypeⅩだった、ということがユキのプライドを酷く傷つけた。相手が人間の女なら友達に相談していたかもしれないが、人ですらないラブドールに夫を盗られたなどと恥ずかしくてとても言えなかった。悶々としたひと月を過ごした後、ユキはその煩悶(はんもん)をついに夫にぶつけた。私の何が不満なの! 娘に対して恥ずかしくないの! なんでラブドールなの! ありったけの言葉で夫をなじった。夫はなにひとつ言い訳をしなかった。正座してうつむいたままだった。その態度はユキの怒りに油を注いだ。更にユキは激昂して夫の頭を殴りつけた。夫はされるがままだった。最後にたった一言、夫は言った。

「安らぎが……欲しかったんだ」

 翌日、夫は帰らなかった。三日後、雨で増水した近所の川の橋の橋脚に流れてきた流木の下に沈んで引っかかっているのが発見された。typeⅩと入水心中したのだった。お互いの腰を赤い紐できつく結んであった。それを警察から聞いた時ユキは太宰かよ! と唾棄したくなった。だが同時にあの日、自分が夫を詰問しなければ夫は死ななかったのではないかという後悔は、ずっとユキを苦しめた。そして気づくと千草のホームページにアクセスしていたのだった。



 千草は、自分の経験も踏まえつつユキの悩みを真剣に聞いてくれた。その人柄に救われたユキは、千草から《typeX被害者の会》を作ると聞いたとき、自分から手伝わせてくれと申し出たのだった。そういう経緯があるから、ユキは心から千草を尊敬していた。

 しかし、今日の千草の橘に対する態度は少し違うのではないかと感じていた。橘が治療を受けていた病院で、橘に通り一遍の謝意を表すと五分足らずで帰ってしまい、今だって拾った子猫の為の餌を選びに、近所のドラッグストアに行ったきりだ。命を助けてくれた橘よりも子猫のほうが大事だとでもいうのだろうか。

 自分はちょっと橘に入れ込みすぎているのであろうかとユキは自問していた。夫を亡くし、五歳の長女を抱えた自分に対して、橘は優しくしてくれる。しかしそれはあくまでも《被害者の会》の副代表として、接してくれているだけであることは分かっているつもりだ。だけど橘の千草への態度は自分とは違っていると感じる。それは女だから敏感に感じてしまうのだ。《被害者の会》の代表と顧問弁護士……橘の心の中で千草の存在は、それ以上に大きいのではないかと感じる時があるのだ。それはただの思い過ごしなのだろうか……。

 とりとめもなくユキがそんなことを考えていると、千草がドラッグストアの買い物袋を両手に下げて戻ってきた。

「あれっ、千草さん、マスコミの囲み取材につかまりませんでしたか?」

「えへへへっ、マスクとサングラスで腰まげて歩いてたら誰も気づかなかったよ。橘さんへのインタビューに夢中だったからね」

 そう言うと千草は、子猫に買ってきたいろんな種類のキャットフードをたくさん見せて、子猫に尋ねている。

「ホラ、きにゃこ、たくさん買ってきたよ。どれがいいかなぁ?」

「千草さん、その子猫の名前、きにゃこに決めたんですか? メスですか?」

「知らない。でもきにゃこにもう決めたの! ねっ、きにゃこ!」

 そう言って、千草は茶しろの子猫を抱き上げると、きにゃこと名付けられた子猫はにゃあと鳴いた。

「知らないって……。千草さん、本当にその子猫、飼う気あるんですか? 一時の気まぐれだったら猫ちゃんが可哀そうですよ」

「ユキさん、何言ってるの。気まぐれなんかじゃないもんね~、きにゃこ。ホラ、システムトイレも買ってきたよ。早くおトイレ覚えてね~」

 そう言って、千草はドラッグストアのレジ袋の中から二層構造のシステムトイレを取り出して、事務所の隅の一角に早速そのトイレを設置しだした。

 そこへやっと、囲み取材から解放された橘が戻ってきた。

「あ~っ、疲れたぁ~。マスコミは、原千草さんはどうしたんですかってうるさかったよ。仕方ないから、ショックが大きくてインタビューに応じられる状態ではないって言っておいた。まさかその横を、変装して猫の餌買って帰ってくるなんて思わなかったよ。僕は、内心驚いてた」

 そう言って橘は、事務所のソファに足を投げ出して座りながら、呆れた苦笑いの表情を作った。

「マスコミだって顧問弁護士の僕のインタビューを流すよりは、typeⅩ被害者の会代表、原千草のコメントが欲しいに決まっているからね。やっぱりテレビに映るのは男の僕よりも絵になる君のほうがいいんだろうし……」

 背を向けて事務所の片隅で子猫のトイレを設置しながら聞いていた千草の肩が小刻みに震えた。そして絞り出すように言った。

「だからマスコミは、低俗って言われるんだわ……。コメントの内容が被害者の会の主張を反映していれば、それを言ったのが、男性だろうが女性だろうが関係ないはずじゃありませんか! それを面白半分に絵になるとか絵にならないとかで判断するなんて、そしてそれを橘さんまでがおっしゃるなんて……」

 千草は、システムトイレにシリカゲルの消臭砂を入れながら、ポロポロと泣き出した。大粒の涙がシリカゲルの砂の上に落ちた。いきなり泣き出した千草に慌てた橘は、千草のもとに駆け寄って言いつくろった。突然大人の男が近づいてきたので驚いたきにゃこは、システムトイレの後ろに隠れてフーッと毛を逆立てていた。

「いや、そう言う意味で言ったんじゃないんだよ。ごめん傷つけてすまなかった。とんだ軽口を言ってしまった」

 橘の千草への気の使いようはとても細やかだった。ようやくユキも気づいたのだった。千草は、千草で大変なストレスを抱えているのだということを。今日、ずっと子猫の世話にかかりっきりになっているのは、別の大きな不安を紛らわすためだったのだということを! 

 子猫の餌を何種類も買ってきたり、二重構造のすのこ入りのシステムトイレを購入したりするのは、子猫のきにゃこに夢中というよりも大きなストレスから逃れるためだったのだということをようやくユキは理解することが出来た。想像するよりもずっと大きな不安とプレッシャーに日夜さらされ続けている千草にとって、やはり昨日、暴漢に襲われたということは余程の恐怖であったに違いないのだ。

 それなのに誰にも心配かけまいとその恐怖の感情を自らの心の奥底にしまい込んで、なんでもないように平然を装っていたのだ、この人は! なんという精神力なのだろう。尤も精神的に強いことは夫である雅人さんを失って、被害者の会を立ち上げようとした時点で誰もが驚いていたではないか。たとえ一時であろうとも、そんな彼女の行動に疑いの目を向けてしまった自分の狭量さをユキは恥じたのだった。



 その日もうだるような暑さだった。谷中霊園の周りの桜の木にとまった油蝉が、うるさいほど鳴いていた。事務所の中はもちろん冷房が効いてはいたが、暑気にあてられ橘以下、千草もユキも電話番の中村さんもゲンナリしていた。元気がいいのは、すくすくと成長している子猫のきにゃこだけだった。

 事務所のソファでぐったりしている千草の膝の上から飛び降りたかと思うと、パソコンで被害者の会のHPのチェックをしていたユキの肩に駆け上がり、にゃあと鳴いて元気いっぱいだ。ビックリしたユキが騒ぐ。

「ちょっと、きにゃこったら! だいぶ慣れましたね。人間が暑いときは猫も暑いんじゃないでしょうか? こんなお転婆だと先が思いやられますねぇ」

 きにゃこはメスだったようである。そのとき事務所の玄関のドアが開いて、いささか頬がこけた大男がのっそりと入ってきた。きにゃこは玄関先で見知らぬ男に対して背中を丸め低く唸って威嚇していた。男は猫が嫌いなのか、ちょっとひるんだようだった。

「すいません。きにゃこ、あっち行ってなさい!」

 千草に怒られて、きにゃこは一声にゃあと鳴くと事務所のデスクの下に隠れた。

「ごめんなさい。あのそれでご用件は?」

 男はいきなり頭を床に擦りつけるようにして土下座をした。

「私、黒川淳一と申します。本来ならばもっと早く原雅人さんが亡くなられた直後にお伺いすべきだったのですが、心身のバランスを崩して入院しておりました」

「ちょっと! 困ります。頭を上げてください! どういうことなんですか? 詳しく話してくださいませんか……」

 黒川は事務所奥のパーテーションで仕切った会議室に通され椅子に座ると、ユキの入れた麦茶を一息に飲み干した後、名刺を差し出し、自分は週刊誌の記者で雅人が亡くなる直前まで一緒だったことを話した。雅人と一緒だったということで、千草は橘やユキにも同席してもらった。

 黒川は、どういう経緯で雅人が彼に連絡してきたのか、そしてどうして北茨城に行くことになったのか等を、順序立てて話しだした。

「……そうだったんですか。雅人は、自分でtypeⅩを購入したわけではなかったんですね。だけど、どうして雅人は、偶然拾ったtypeⅩタマラにそこまでしなければならなかったんでしょうか……」

 そう言うと千草は、真っすぐに黒川を見た。その目は真剣に答えを探している目だった。

「そうなんですよ。私もそこがいちばん引っかかりました。だけれども納得できる答えはありませんでした。もしかしたら、原さん自身もわかっていたのかどうか……。力になれなくて申し訳ありません」

「そんなことありません。雅人が亡くなったその日に一緒だったかたとこうしてお話できるんですもの。感謝しています」

「そう言っていただけると救われます。あの日は勿来駅まで送ってもらって、その足で私は東京に戻りました。ですからそのあとで原さんに何があったかはわかりません。ですが、あの時、五浦海岸で原さんは、旅は終わりにする、自分には千草さんとの生活があるって確かに言ったんです。そんなひとが直後にtypeⅩと心中なんかするとは到底思えません。あれは、和久徳一郎周辺を探っているということで、消されたんだと私は確信しました」

 その言葉を聞いて橘はとっさに、千草の顔を盗み見た。彼女がどれほどの衝撃を受けているかが予想できたので、直視することは憚られた。だから目線だけを移動させて盗み見たのだった。それはユキも同じだったようだ。だが意外にも千草は右眉がぴくっと上がっただけで、それほどの表面上の変化は認められなかった。その心の中がどうであろうとも。

「それって雅人さんは殺されたってことですか? 大事件じゃないですか!」

 ユキが大袈裟に声を上げた。それには直接答えず、黒川は話し続けた。

「私は、あのニュースを見て次は自分が狙われると思いました。怖くてたまらなかった。だって主体的に和久徳一郎の周辺を探ろうと言い出したのは私だったんですから。私はノイローゼになり極度の鬱状態になりました。その間、どうしても千草さんにこのことを伝えなければと思えば思うほど、心の安定が保てず夜は全く眠れなくなり電話がかかってくるたびに不安に陥り、しまいには部屋への人の出入りすら心拍数が酷く上昇してしまい、薬のお世話になるしかありませんでした。

 電話をかけることはおろか、メール一本することすら全く出来なくなりました。そうして私は心療内科に入院せざるを得なくなったのです。先週、ようやく退院することができました。退院したら真っ先に千草さんに会わなければ、そしてこのことをお詫びしなければ、と思っていたのです! 本当に今まで来られなくて申し訳ありませんでした!」

 そうして再び黒川は深々と頭を垂れた。

「でもあの時警察は、事件性は全くないと言ってました……」

 千草はまるで、他人事のようにそうつぶやいた。その口調は穏やかで、誰かを糾弾するような調子ではまったくなかったし、また誰かに向けたものではなかったが、その言葉は、いつまでも消えずに残る耳鳴りのように、その部屋の中にいた人々の心にとどまり続けた。

 黒川は千草の言葉を打ち消すかのように続けた。

「……それは、茨城県警が忖度をしたんだと思います。北茨城のあの周辺で和久家と言えば誰もが知らない人がないくらいの名家。地元の経済界や自治体に与える影響も少なくないものがあります。多かれ少なかれ和久家の恩恵に預かっていないものはないとさえいえるくらいだし、ましてや和久徳一郎は大臣を務め総裁選に出馬するくらいの大物政治家、直接の指示があったかどうかはわかりませんが、忖度して原さんの足取り捜査を十分行わなかった可能性はありうることだと思っています。いや、むしろ十分捜査したからこそ、和久徳一郎につながる線を断ち切りたかったというのが本音かもしれません」

「それはあるかもしれませんね~。警察ってところは、政治家や権力者なんて一度も捕まえたことないでしょう! アタシなんてこの間もネズミ捕りに引っかかって罰金九千円払ったばっかりですよ~。罪のない一般市民を取り締まって喜んでるばかりが能じゃないっつーの!」

 吠えるユキを尻目に、橘はそこまで警察は腐敗しているのかと暗澹たる気持ちになると同時に、わずかながらの疑問も湧いてきていた。この黒川という記者はちょっと思い込みが強すぎるのではないだろうかという疑義であった。

 それにしてもさっきから千草の反応の鈍さが気になっていた。少なくともこの黒川という記者の言い分を信じるとすれば、夫である原雅人の死に疑惑が発生しているのだ。もっと感情の発露が前面に出て然るべきではないか? 情動というものがほとんど表に出てこないのは、なぜなのかと橘は訝っていた。

 その時だった。千草の左の眼から一滴の涙が頬を伝って流れ落ちた。橘の胸の動悸はにわかに激しくなった。そう、それでなくてはいけない。我慢する必要はないんだよ、千草さん! と橘は心の中でつぶやいた。

「あら、ごめんなさい。私ったら、皆さんの前で……」

 千草はハンカチを取り出すと頬の涙を拭って必死に嗚咽をこらえようとしていたが、ユキが千草の肩を抱いて耳元で「もう我慢しなくていいから……」と囁くように告げると、それがまるで合図でもあったかのように堰を切ったようにもう涙は止まることがなかった。しゃくりあげながら千草は話しだした。

「黒川さんの話を聞いてちょっとホッとしたんです。雅人が私のところへ帰ってくるつもりだったことを知って。少しは愛されていたんだって。私、ずっと不安だった。雅人は、わたしとの結婚生活に幸せを感じてくれていたのだろうかって……。私との生活が楽しくなかったんじゃないか、だからtypeⅩに走ったんじゃないだろか、そういう疑心暗鬼が絶えず私の心の中に渦巻いていました。だからそうじゃなかったってことが分かっただけでも救われた気がしました。

 もちろん別の感情もあります。雅人がもし誰かに命を奪われたのであれば当然、犯人は憎いです。真相を知りたいと思います。だけど、今更真実が分かったとしても、もうどうやっても雅人は生き返らないじゃないですか! 今の私にはそっちのほうが悲しい。誰かに憎しみをぶつけるよりも雅人が私の元に戻ろうとしてくれていたという事実のほうを私は大切にしたいと思うんです……」

 この告白を聞いて、一同はうなだれてしまった。橘は思った。この人の心の中にはいまだに雅人さんのことでいっぱいなのだ。 《被害者の会》に一生懸命で講演に飛び回っているのも、雅人さんのことを忘れるためじゃなく忘れないための行動だったのだ。一方で橘は千草が彼女の夫の小学校時代の友人や恩師を訪ね歩いていることも承知していた。亡くなってしまった夫の過去を辿っても今更辛いだけじゃないのかと、シニカルな目で見ていたが、そうではなかったのだ。彼女にとっては、原雅人は亡くなってしまったパートナーではないのだということを今、橘優作ははっきりと認識していた。亡くなってなお原雅人は、原千草の唯一無二のパートナーであり、そこには自分のような他の人間が入り込む余地などないということを改めて感じていた。

「代表の気持ちはわかりました。でも僕としては、やはり真相を明らかにすべきだと思う。そうすることが雅人さんへの手向けになるんじゃないのかなぁ……」

 橘は心に残るかすかな苦さと共にそう言った。これには黒川も同調した。

「私はなんとしてもこの件を世間に問いたい! 本当なら入院する前に週刊群衆に載せるはずだった、北茨城に取材した件と雅人さんから提供された和久の性癖の件を記事にするつもりです!」

 ユキが言った。

「千草さんの気持ちはもちろん尊重するわ。でも私たちは《被害者の会》を通じて同志っていうか、運命共同体よ! 最善の策を私たちで練りましょう! もう政治家や権力者たちの好き勝手にはさせないわ!」

「その通りだよ、千草代表。僕らはチームだ。和久やオリガント・インダストリーの横暴をこれ以上見過ごす訳にはいかない。奴等に天誅を加える千載一遇のチャンスをみすみす逃す手はないですよ!」

「そのチームに僕も加えてください。微力ながらお手伝いしたいんです。それが、事件直後にすぐに千草さんにお知らせできなかった私の罪滅ぼしです」

 黒川は力強くそう言った。ようやく涙も止まった千草は、みんなからの励ましの言葉にこっくりと頷いた。


 それからは作戦会議となった。どういう戦略を取れば、総裁選出馬が確実視されている和久陣営に、最大のダメージを与えられるかを一同で話し合った。黒川が持ってきた、雅人に提供されたという和久の性癖を記録したブルーレイディスクを全員で確認した。女性陣は一様に、ショックを受けていた。

 これはマスメディア、とりわけテレビメディアをなんとか引き入れなくてはならないという意見が出た中で、橘が選んだのが今まで原千草及び《typeⅩ被害者の会》に対して批判の急先鋒だった「ホットダイナミックヌーンショー」だった。というのは、襲撃事件以降の扱いに変化を感じ取っていたからだ。

 東都テレビに連絡を入れると番組の看板キャスター紅東洋子とチーフディレクターの犬養敏樹がやってきた。すでに原千草に傾倒していた二人は計画を話すと大乗り気で協力体制が整った。

 作戦は三段階で畳み込んでいくことに決まった。第一の矢は、週刊群衆の黒川の記事だ。おそらくものすごい反響が起こる。各メディアが一斉に取り上げるだろう。総裁選候補、和久徳一郎の知られざるおぞましき裏の顔を知って果たして世間はどういう反応を示すのか。

 二の矢は、黒川の記事を裏付ける証拠となる、雅人が黒川に預けた和久の性癖動画を記録したブレーレイディスクを、紅東と犬養の「ホットダイナミックヌーンショー」で放送する事だ。実際の動画が持つ破壊力は底知れない。黒川の記事までは半信半疑だった視聴者も、実在する動画を観て生理的な嫌悪感を抱くに違いない。

 そして、和久という政治家の負の部分を多くの人々が知り、彼の資質に疑問を持たざるを得なくなった後に、いよいよ三の矢が放たれる。千草自身が原雅人の死は心中などではなく、殺人事件である可能性を示唆する記者会見を開くというものだ。そしてこの件には、和久徳一郎が深く関与しているのではないかという疑義を呈する。

 これで和久の友愛党総裁、ひいては内閣総理大臣の目は完全に潰えるだろう。いやそれどころか、社会的にも抹殺される。あとは世論が沸騰するのを待てばよい。正義感という世論に後押しされれば、警察は否が応でも正当な捜査をするしかない。

 後は時間との戦いだった。すでに八月の終盤に差し掛かっていた。総裁選の告示は目前に迫っていた。



 これからの作戦の流れが決まって、忙しい紅東と犬養はそそくさと帰っていった。黒川も会社に戻ると言ったが、千草が珍しく駅まで送っていくという。もちろん送っていくというのは口実で、皆の前では聞きづらいことがあるからに他ならなかった。

 二人が出て行った後、事務所に残ったユキが橘に向かって尋ねた。

「さっきの話ですけど、確かになんでそこまで雅人さんがtypeⅩに肩入れしたのかは謎ですよねー」

「基本的には、typeⅩに同情したからだろうね」

「でも、それだけであそこまでやるかしら?……」

「ユキさん、それは千草代表の前で言っちゃダメだよ!」

「わかってますよ、それくらい。ここだけの話です」

 谷中霊園の桜並木にとまって、日中あれほどうるさいほどに鳴いていた油蝉に代わって、午後四時半過ぎにもなると今度はひぐらしがカナカナカナ……と物悲し気に鳴きだしている。その澄んだ高い音調は、人を感傷的にさせる力があるのではないかとふと黒川は思った。ひぐらしの鳴く桜木立の中を日暮里駅に向かって黒川と千草は歩いていた。

「あの……、黒川さんは、雅人がタマラに対してどういう感情を持っていたと思われますか? 率直におっしゃってください」

 黒川は、やはり妻としてはどうしてもそこにこだわらざるを得ないんだろうなぁと、内心同情した。答えづらい質問であったので黒川が逡巡していると、千草はさらに畳みかけてきた。

「偶然に拾ったタマラだとはいえ、ずっと私に隠していたということは、やはり後ろめたかったと考えていいんでしょうか?」

「正直、僕には原さんの心の中まではわかりません。何故あそこまでタマラにこだわっていたのか、皆目見当がつかないんです……」

 もちろん、雅人ではないから彼の心の中はわからないというのは本心だった。だが、なんとなく雅人がタマラを千草から遠ざけたかったという心理はわからなくはなかった。男はみんな美しい宝物は隠しておきたいものだからだ。おりしもふたりが歩くさくら通りはちょうど、五重塔跡に差し掛かっていた。

 谷中霊園には江戸四塔に数えられた美しい天王寺五重塔があったのである。東京の名所のひとつで谷中霊園のシンボルにもなっていた。幸田露伴の小説「五重塔」のモチーフでもあったが、残念ながら昭和三十二年七月に焼失している。原因は放火であった。焼け跡から男女ふたりの焼死体と遺留品が発見され、警視庁と谷中署は火災の原因を心中による放火と断定した。

 黒川は、記者という職業柄、知識としてその事件を知ってはいた。だが、まさかその焼け落ちた五重塔跡の前で、真実はどうあれ世間的には同じ心中事件として報道された当事者の遺族である妻と歩いているということに、奇妙な符合を感じていた。

「作戦がうまくいくといいですよね。僕も気合を入れて記事を書きますよ!」

 そう言うと、黒川はおどけて力こぶを作るポーズをしてみせた。千草は微笑んでみせたが、その笑顔はどこか寂し気だった。その時、肩にかけたコーチのトートバッグの中でスマホが鳴った。その着メロに、黒川は意外そうな表情を浮かべた。ちょっと失礼します、と言って千草は黒川から距離を取り電話に出た。しばらく話した後に、通話を切って戻ってきた。

「すいません、実家の母でした」

「あの……、着メロ、コーヒー・ルンバなんですね」

「ええ、雅人が好きだった曲なので、わたしも好きになって、ついに着メロにまでしちゃったんです。それが何か?」

「雅人さんはコーヒー・ルンバに特別な思い入れがあったんでしょうか?」

「雅人のお母さんが、コーヒーを入れる時にいつも口ずさんでた曲だったそうなんです。まだ小さかった雅人は、コーヒーは飲めなかったんですが、お母さんが飲んでいたコーヒーの香りを楽しんでいたようで、それで彼もコーヒー好きになったって言ってました……」

「そうかぁ! そういうことだったのかぁ!」

 黒川は、タマラが目覚めたときにコーヒーを飲んでいた雅人を見てコーヒー・ルンバを口ずさんだと雅人から聞いたことを千草に伝えた。

「そうだったんですか……」

「typeⅩタマラは、大好きだったお母さんの思い出に直結していたんですよ! だからタマラを救うことにあんなに一生懸命だったんだ、原さんは……」

 青々と繁った谷中霊園の桜の葉が揺れて、桜並木に涼しい風が通り抜けていった。空が急に薄暗くなり、ひぐらしたちはより一層、切なげに鳴き始めた。

「一雨来るかもしれませんね、急ぎましょう」

 そう言うと、黒川と千草は速足になって駅に続く紅葉坂を下った。黒川を日暮里駅まで送って別れた後、案の定夕立になった。千草は南口から大粒の雨が落ちてくる空を見上げていた。それは傍からみれば、傘を持たない女が恨めし気に空を見ているようにみえたかもしれなかったが、もしかしたら千草は天国の雅人になにか伝えようとしていたのかもしれない。



 暑い暑い夏がようやく過ぎて、九月になった。九月になると世間は友愛党総裁選一色になった。告示は九月七日だったが、事実上友愛党総裁選は、現総裁である須藤琢磨総理大臣と、和久徳一郎前経済産業省大臣の二人の一騎打ちの様相を呈していた。

 その他に総裁選立候補を仄めかしていたのは、早くからポスト須藤琢磨といわれ、初の「女性宰相」誕生も近いと囁かれていた友愛党、町田凛子衆議院議員だったが、直前になって二十人の推薦人が集まらず友愛党総裁選の出馬を断念したのだった。総裁選立候補には国会議員二十人の推薦が必要なのである。再選を目指す須藤首相サイドからの締め付けが厳しく、推薦人の切り崩しにあい、やむなく断念せざるを得なかったと伝えられた。

 そして九月七日、友愛党総裁選が告示された。候補者は届出順に和久徳一郎衆院議員と須藤琢磨衆院議員。開票の九月二十日まで両候補は演説会や討論で自らの政策を広く国民に訴えていくことになる。

 ここで総裁選の仕組みをおさらいしてみよう。一人一票の党所属の国会議員票の四〇五票と党員、党友の投票を基に算出される地方票四〇五票の合計八一〇票を巡って争う。過半数を獲得した候補者が友愛党新総裁になる。

 候補者二人の政策には、基本的にはそれほど大きな差異はない。党内の総裁選なのでそれほど大きな政策の差異を見いだせないというのが実情である。強いて言うならば、外交では日米の信頼関係を最重要視している須藤首相に対して和久徳一郎前経済産業大臣は友情と国益は分けて考えるべき! としているくらいである。

 テレビの総裁選を占う! という番組内では、政治コメンテーターが訳知り顔で解説をしていた。

「今回の総裁選の争点は、ずばり少子化対策でしょうね。三選をねらう須藤首相は実績をアピールすると思われますが、経済、外交などはそこそこの成果が上がっていますが、目玉だった少子化対策は目立った効果をあげているとは言えません。

 人口急減、超高齢化に対する施策として、須藤首相は東京一極集中の是正、若い世代の就労、結婚、子育て支援などを掲げていますが、なかなかこれといった目に見える成果が上がらないというのが実情です。従来から幼児教育の無償化等を推し進めていますが、今回の須藤首相の少子化対策の目玉としては、より分厚いチャイルドケアということを前面に押し出しています。具体的には不妊治療の無償化ですね。これはイスラエルなどではすでに百パーセント実施されています。これを日本でも導入しようというわけです。     他方、須藤首相は最近頻発しているtypeⅩと呼ばれる最新のAI搭載ラブドール心中事件にも心を痛めており、政府として対策を取らねばならないとも考えていると言われています。そのため《typeⅩ被害者の会》を結成した原千草代表の「少子化に関する特別委員会」への参考人招致も行っており、どちらかといえばtypeⅩ規制に前のめりではないかとも言われています。

 それに対して和久前経産大臣は、typeⅩ規制には反対する立場をとっています。少子化問題とtypeⅩ心中事件にはなんの関係もないですから、企業の生産活動を政府が阻害することはおかしいと主張しています。性の多様性を認めることは今や世界的な潮流であり、性の多様化はすなわちライフスタイルの多様化であり、性の多様化を推進することが少子化を促進させるというのは明らかに意図的な情報操作であり、須藤内閣の欺瞞であると断言しています」

 作家だという別の女性コメンテーターがあとを引き取って発言した。

「そういう意味では、先月起こった《typeⅩ被害者の会》原千草代表の暗殺未遂事件は象徴的だったとも言えますね。確か容疑者はtypeⅩと結婚式を挙げたばかりで《彼女》を愚弄したことが許せなかったと供述したといわれています。まさに代理戦争というか、両陣営のシンボル的な構図になってましたねぇ。もちろん犯罪を実行したという時点で問題外だったわけですが」

「そうなんです。もちろん彼のしたことは許されることではありませんが、お互いの主張だけ取り出せば、規制派vs多様性派ということになります」

「ということはつまり今度の総裁選の見どころというのは、案外、《typeⅩ被害者の会》の動向がカギを握っていたりする場合もあるやもしれませんねぇ……」

「いやあ、それはちょっと言い過ぎなんじゃないでしょうか」

 政治コメンテーターに一笑に付された女性作家コメンテーターは、一応笑顔を作ってはいたが、その顔は引きつっていた。

 先月に行われた各種の世論調査では、先の原千草暗殺未遂事件の余波をもろに被り、三選を目指す須藤陣営が圧倒的リードを築いていたが、今月に入ってからの世論調査では僅差に縮まっていた。これは、暗殺未遂事件の影響は一時的には須藤首相側に有利に働いたが、冷静に分析すれば事件はたったひとりの個人の犯行であり多様性派全てが犯人と同じ考えを持っているわけではないというごく当たり前の結論に収束していくことを考慮すれば、当然の帰結であった。

 九月九日、週刊群衆が発売された。もちろん目玉は「総裁選に暗雲! 和久徳一郎のおぞましき性癖と三十五年前のドイツ娘失踪疑惑!」という見出しが付けられた黒川淳一の記事だった。ネットの巨大掲示板は瞬く間に異常なスレッドの伸びを示した。

 橘優作は書き込みをチェックしていた。《どんだけ変態なんだよ!》《終わったな。和久徳一郎! こんな奴には日本の未来は任せられない!》《キモ過ぎ! 顔面石臼野郎!》書き込みは散々だった。

「駅のキヨスクで飛ぶように売れてましたよ、週刊群衆。私が買ったときは後一冊だけしか残ってませんでした」

 《被害者の会》事務所では、朝一番でユキが駅のキヨスクで買ってきた週刊群衆を見せると、千草も橘もすでに週刊群衆を取り出して見せた。皆は舐めるようにその記事を何度も読んだ。ところが一部のネット上では話題になっているものの、テレビや新聞では翌日になっても一向に取り上げる気配がなかった。

 橘は事務所の四十二インチのテレビのチャンネルを、さっきから頻繁にリモコンで切り替えて、各局のニュース番組やワイドショーをチェックしていた。

「なんだ、どうしたんだ。どこかの局で取り上げたか? まるでやってないじゃないか!」

「無駄ですよ、橘さん。どこもやってません。テレビも新聞も無視する方向のようです」

 ユキは忌々しそうに言った。

「唯一の例外は、ホットダイナミックヌーンだけでしたね……」

 膝の上に抱いたきにゃこの頭を撫でながら、寂し気に千草がつぶやいた。紅東洋子は自身がキャスターを務める番組の中で、「こんな政治家に私たちの未来が託せるでしょうか? 友愛党議員ならびに党員の皆さんには、冷静な選択をすることを希望します」と言ったのだった。他のワイドショーや報道番組は、黒川の書いた週刊群衆の記事はまるでなかったかのように、全く触れようともしなかった。

「おっ、やってるぞ」

 さっきからザッピングしていた橘は、ある番組で黒川の記事について話しているのを見つけた。千草もユキも注目した。だがしかし、その番組は、こんな全て憶測でしかない記事を出していいのかと思うという和久擁護の街の声を、作為的に取り上げているだけだった。誰ともなく事務所内にため息が漏れた。その雰囲気を怪訝に思ったのか、きにゃこが千草の膝の上から飛び降り、にゃあと鳴いた。

 《またしても“報道しない自由”炸裂かよ!》《腐ってんな! この国のメディアは!》《反日勢力に支持されてる和久に忖度かよぉ》ネット上はこういった声が圧倒的だったが、中には《ちゃんとしたメディアはこんな与太記事まともに扱うわけない》《また負けたのか。ネトウヨ涙目》といった揶揄する声も少なからずあり、いわゆる祭り状態になっていた。しかし同時にインターネットがこれだけ普及してもなお、旧態依然のメディアだと思っていたテレビや新聞の影響力がいまだに大きいことを、橘は思い知らされたのだった。事実、新聞やテレビが取り上げない以上、全く世論が喚起されないという恐ろしいほどの現実を突きつけられた格好だった。

「こうなると頼みの綱はホットダイナミックヌーンショーだけだな。明日だったよね? 和久の性癖動画が流れる日は……」

「紅東さんと犬養ディレクターだから、そのあたりは抜かりはないと思うけど……」

 橘と目があった千草は、唇を噛みながら不安そうに言った。

「あの動画さえ流れれば、世間は和久の気持ち悪さに嫌でも気づく。もう和久は挽回不可能だ」

 橘の言葉にユキは大きくうなずいたが、きにゃこにキャットフードを与えていた千草はどこか不安そうだった。そんな人間たちの思惑を知ってか知らずか、きにゃこは喉を鳴らしながら、夢中で餌を食べていた。



 その朝、東都テレビの会議室では、紅東洋子と犬養敏樹が今日の放送に際しての動画出しの綿密な打ち合わせをしていた。

「どんな邪魔が入らないとも限らないから、動画を挟み込むのは番組の最後。私のコメントの後に再生して終わる。いい?」

「任せてくれ。それにしても和久の記事が出ても不気味なくらい業界全体で無視してるな。一体なんだよ、こりゃあ」

「今に始まったことじゃないでしょ! 私たちが風穴を開けるのよ!」

「それはそうなんだけどよぉ、今更おれが言うことでもないけど、この業界って魑魅魍魎の世界だよな」

 そういって自嘲気味に犬養は笑った。その時、ノックの音がした。鍵はかけてあった。

「誰?」

「俺です」

 犬養が施錠を外しドアを開けると、ADの村井が入ってきた。

「遅いぞ。何時だと思ってるんだ。俺より遅いってのはどういう了見だ!」

 犬養が叱ってもどこ吹く風で、含み笑いを漏らしながら村井は言った。

「そういえば、二人を中臣プロデューサーが上で呼んでましたよ」

 洋子は嫌な予感がした。以前までは犬養にべったりだった村井が最近、反抗的なのが気になっていたが、それより中臣は何の用だろう? 犬養と二人で中臣プロデューサーの部屋に入ると、彼は気難しい表情を崩さなかった。洋子はいい話ではなさそうだと悟った。

「なんでしょうか? お話って」

 そう切り出すと、不機嫌そうに中臣は重い口を開いた。

「今度、ウチの局でね、BSで通販の番組を立ち上げるんだよ。社運を賭けた通販番組なんだ。信頼できるスタッフが欲しい。君たち二人で盛りあげていってもらえないかな」

 目が泳いでいた。嘘に決まっていた。明らかに和久の動画を流させまいという工作だった。何故漏れたのだろう。さっきのふてぶてしい態度。村井のほかに思い当たる人物ははいなかった。

 顔色が変わって怒鳴りだしそうになっている犬養を制したものの、自身も怒りを抑えきれない洋子はズバリと聞いた。

「左遷ですか? 理由を聞かせてください!」

 鋭い語気の洋子の剣幕に気圧されたのか、渋々、中臣は理由を告げた。

「昨日の番組の中で、洋子ちゃん、君、和久候補を貶める発言しただろう? 友愛党から《公正・中立》を求める通達が出てるんだ。それに反するってクレームが入った」

「和久候補を貶める発言なんてしてません! 冷静な判断を希望しますって言っただけじゃないですか! それに党内の総裁を選ぶ選挙だから公職選挙法は適用外です。和久陣営からの圧力ですか?」

 中臣は内ポケットからプラスチックケースに入った無地のブレーレイディスクを取り出すと、右手でケースを振りながら言った。

「こんなもの、流せるわけないだろ! 今日からホットダイナミックヌーンはメインキャスター奥本かおり、チーフディレクター村井健太、この体制で行く」

「冗談じゃないっ! 村井なんぞにチーフディレクターなんか務まるわけないっ! あんた、何考えんだーっ!」

 犬養が中臣に食ってかかった。左遷された挙句に、後釜が村井と聞いて犬養が怒髪天を突いたのも無理はなかった。

「上層部の判断なんだよっ!」

 売り言葉に買い言葉で、中臣はデスクをバンと叩いてそう怒鳴ると、部屋を出て行ってしまった。あとに残された洋子と犬養は茫然として顔を見合わせた。

「……なんで、中臣がブルーレイディスク持ってるわけ?」

「村井だと思う。俺が放送素材をどこに保管しているか知ってるのは村井だけだ。あいつ……、魂売り渡しやがった……」

 可愛がっていた村井の裏切りがよっぽど悔しかったのだろう、犬養は中臣のデスクを蹴り上げた。



「なにこれ~っ」

 午後二時から始まったホットダイナミックヌーンショーの冒頭を観て、ユキは素っ頓狂な声を上げた。それもそのはずで、昨日までのメインキャスター紅東洋子に代わってメインキャスターの座に座って番組を仕切っているのは、サブキャスターだったはずの奥本かおりだった。

 明確な説明もないまま番組は進み、ついに和久の性癖動画は放送されることもなく、むろん触れられることすらなく番組は終了した。番組には視聴者からの問い合わせが殺到しているらしかったが、橘は番組が始まってすぐ、連絡先を交換していた紅東に電話をかけてみたが繋がらなかった。犬養も同様だった。何度コールしても同じだった。

 ようやく番組が終わってしばらくして、紅東洋子から電話がかかってきて、橘は事情を知ることとなった。どうやら新番組の打合せという名目で缶詰にされて外部との連絡も取れなかったらしい。二の矢が継げなくて申し訳ないという洋子の謝罪を受けながら、橘は放送局への政治介入がここまで進んでいるのかと戦慄を覚えた。

 こうなると、残るのは明日の千草の記者会見しかなかった。そこに賭けるしかない。すでにマスコミ各社にはファクスを流してある。だがこの緊急事態だ。会見時間を大幅に早めたほうがいいのかもしれない。場合によっては明日ではなく今日もあるのではないか。

「そういえば、ユキさん、千草代表はどうしたんです? まだ来ていない?」

「先程、雅人さんの小学校時代の恩師から連絡があって会いに行くから今日は事務所には行かないと電話がありました」

「よりによってこんな日にですか? 会見は明日ですよ」

「千草代表もそれを気にしてましたけど、再三再四、面会を拒絶していた恩師の方から今日なら会えるという連絡が入ったから、この機会を逃したくないって言ってました。場所は熱海で、実家のクルマを借りていくって……」

 橘は、千草の携帯に電話をかけたが、運転中なのか繋がらなかった。胸騒ぎがした。

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