第七章


 桝の中に入ったコップに並々と注がれた焼酎が、電車が通るたびに揺れている。多少こぼれた焼酎もどうせ桝の中だ。なので最後に飲めばいい。犬養はそう思った。新橋のガード下の飲み屋で犬養はアシスタントディレクターの村井と飲んでいた。

「へいっ、チキンカツと銀杏の素揚げ、お待ちどお!」

 ねじり鉢巻きの大将の威勢のいい声が響き、大将はカウンター超しに皿を置いた。

「これこれ、このチキンカツ絶品だよな~。村井っ、食ってみ」

 犬養に促された村井がチキンカツに被りつく。

「うわっ、なにこれ! 犬養さん、めちゃくちゃうまいっす!」

「だろっ、局でふんぞり返ってるやつらにゃ、この味は絶対教えたくないよなぁ!」

 そう言うと犬養は村井の背中をどんっと叩いた。むせ返った村井は口に入れたばかりのチキンカツを吐き出しそうになって焦った。

「それにしても、一時期あれだけ出てた被害者の会の報道、めっきり少なくなりましたよねぇ、先輩」

「確かにな~、ぴたっと止まったもんなぁ。オリガント側がなんか仕掛けたんだろうな。あそこでかいからなぁ。スポンサード打ち切りとか匂わされると弱いよなぁ……」

「ずーっとあの事件を追っかけてるのはウチのホットダイナミックヌーンくらいですもんね~」

「あっ、このやろ、いつの間にか、オレの分までチキンカツ全部平らげやがって。大将、チキンカツもう一皿追加ね!」

 カウンターの向こうで大将が笑顔を見せた。

「一時、被害者の会に、みんなが賛同したときは、ウチの番組にもずいぶん批判が来たよなぁ。メインキャスターの紅東洋子も原千草寄りの発言繰り返していたからなぁ」

「そうそう、あのときはネットでも、ホットダイナミックヌーン、番組内部で不協和音か? とか騒がれましたもん」

「調子にのってやがるんだ。あいつは!」

 そういうと、犬養はコップの焼酎を一息で飲み干した。

 最近、犬養は紅東洋子と意見が食い違うことが多い。以前はツーカーの仲だったが、所詮テレビ局に守られて安全で強固な檻のなかで仕事をしている奴には、俺のような独立系のプロダクションの派遣ディレクターの気持ちがわかるはずはないのだと犬養は思った。高い給料をもらって手当だっていっぱいつく。それでなくともメインキャスターってだけでどこへ行ってもちやほやされる。

「番組を引っ張ってるのは自分だと錯覚してやがる。冗談じゃあない。実質的にホットダイナミックヌーンを作り上げてきたのはこの俺だ!」

「ですよね! 先輩がいなけりゃ、あんな高視聴率番組にはなってませんよぉ! そこをわかってないんですよぉ。紅東は! お高くとまりやがってぇ」

 犬養も村井もすでに出来上がっていた。連日の徹夜に近い作業がたたっているのか二人とも飲むとすぐに酔っぱらってしまう。

「なにが“報道の矜持”だ。甘いことぬかしてるんじゃねぇ! この世界は数字が全てだ。視聴率が悪ければ何を主張したって相手にゃされないんだ。板子一枚下は地獄だ。高い所にふんぞり返って、理想論ぶつのもいい加減にしろってんだ! 数字が全てだってことは、プロデューサーの中臣も認めてんだ!」

「そうだ、そうだ!」

 犬養と村井はカウンターで肩を組み合い、気勢を上げた。それをカウンターの中から大将は優しい目で見守っていた。

「ところで先輩、亡くなった原雅人の小学校時代の恩師に当時の様子を聞くっていう取材はどうなったんすかぁ?」

「ああ、あれな。卒業アルバムから小学校の時の担任の女教師に電話して取材申し込んだんだけどな。体よく断られた。だめだってもの無理強いも出来ねえしな。しょうがないから何人かの同級生に取材して、小学校時代の雅人の印象語らせてお茶濁すわぁ。来週ロケ行くぞ、熱海」

「ラジャーっす。まかしといてください。大将、煮込み追加! 焼酎もおかわり!」

 ガード下の店は仕事帰りのサラリーマンで溢れ、ますますの賑わいを見せていた。大将はねじり鉢巻きを締めなおして一層声を張り上げた。

「へいっ、らっしゃい!」



「ええ、でもやはり……。はい。お役に立てなくて申し訳ありません」 

 そういうと、石川真紀子は電話を切った。これが三度目の取材申し込みの電話だった。最初の一回は留守電だった。二回目は運よく真紀子が出た。まさか三度目の電話があるとは思わなかった。すべて家の電話なのはあの犬養というディレクターが固定電話の番号しか知らないからだった。しつこく携帯の番号も尋ねられたが、もちろん教えるつもりは全くなかった。

 原雅人の小学校時代の様子を語ってほしいというものだったが、応じられないと断った。相手はVTR取材が無理なら電話取材と言い出してこの電話を使わせてほしいと粘ったがすべて断った。真紀子の今の立場は教育委員会の指導主事である。小学校の教員籍を残したままの出向だ。周りから見れば出世なのかもしれないが、要は厄介払いされたのである。一部の保護者から石川先生はえこひいきが酷すぎると苦情が入ったのだ。そのため校長は、ほとぼりが冷めるまで教育委員会に押し込んで教鞭をとらせないようにしたのだという噂が立っていた。この状況で下手にワイドショーのインタビューなどを受けて保護者の反感を買いたくないという自己保全の意識が働いたのである。

 もちろん、原雅人の死のニュースは驚いた。関わりが浅くない元の教え子が亡くなったのだ。ショックでないはずはなかった。

 石川真紀子は雅人の母親、深雪と幼馴染であった。そして小学校、中学校、高校まで同級生だった。真紀子は深雪の美しさにずっと劣等感を抱いていた。背は低く、太っていた真紀子は自分の容姿に自信がなかった。それに比べて美しくスタイルもいい深雪は男の子にも絶大な人気を誇っていた。白人系のクォーターではないかという噂もあった。彼女の周りにはいつも男子が群がっていたが、真紀子の周りには誰一人として近寄っては来なかった。親友ではあったが、モテる深雪に対して全く男の子と縁がなかった真紀子は自分が深雪の引き立て役でしかないことを感じていた。大学はそれぞれ別になり深雪は薬学部に、真紀子は教育学部に進んだ。

 深雪は薬剤師の国家試験に合格し、製薬会社に就職してそこで出会った人と恋に落ち結婚した。一方、教員になった真紀子ではあったが、男性と親しくなることもなく小学校の教諭になっていた。結婚式に呼ばれ、ブーケトスをたまたま真紀子がキャッチしてしまったときは、座に微妙な空気が流れた。

 時が流れ、相変わらず浮いた噂ひとつない真紀子だったが、教師の仕事にはだいぶ慣れてきたころ、深雪が夫と共に交通事故で亡くなったという訃報を聞いた。身を切られるように悲しかった。美人薄命っていうのは本当なんだと思った。しかし哀しみに彩られたはずの心の奥底に少しだけうれしいようなふわふわとした沸き立つような心持がしていたのも隠し切れなかった。なんと嫌な性格なんだろうと自分自身で思ったが、時がたつにつれ、深雪との思い出はヘチマの実が腐敗していつしか余計なものが全てなくなってヘチマの繊維だけが残りたわしになるように、不純物が取り払われて、美しい思い出となっていった。そう、一年生の担任になってクラスにあの深雪の遺児がいると知るまでは……。

 雅人は両親が亡くなった後、深雪の祖父母に引き取られていたのだった。一目で深雪の息子だとわかった。それほど似ていたし、何より美貌が際立っていた。そして頭もよかった。こんなに容姿端麗でなんでも出来る子がいるなんて、なんて神様は不公平なんだろうと真紀子は思った。思春期の頃には深雪の美貌に嫉妬し、今また再び深雪の遺児の美貌に嫉妬するはめになるとは。自分は多分一生、結婚出来ないだろう。だけど、この子は大きくなったら、とてもハンサムになって女を惹きつけずにはおかないだろう。そしてたくさんの女を泣かすに違いない。そんなことはあってはならない。次から次へと女をとっかえひっかえして、騙され捨てられて不幸になる女が増えていくのだ。そんなことは決して許されるはずがない。なんとしても阻止しなければならない。そうだ、この子の自我の形成を阻害しよう。男としてのアイデンティティが確立しない前にめちゃくちゃにしてやろう……。

 突如として浮かんだこの悪魔的なアイディアに、真紀子は魅了されていった。そしてのめり込んだ。



 そういう意味では小学一年生から担任出来るというのはラッキーだと言えた。まだ何色にも染まっていないからである。これがなまじ四年生くらいになってしまうとある程度の自我が固まり、男子の自覚も生まれ第二次性徴も始まっているかもしれないから、いろいろとやりにくいことが多いに違いなかった。それを小学一年生から導いていけるのは幸せだと、真紀子は感じていた。

 通常の教育課程では保健体育のいわゆる性教育は四年生から学習することになっている。だが昨今では女子の第二次性徴も早く、三年生あたりで生理になる例も報告されている。ゆえに教育課程に縛られることなく各学校独自の判断で保健体育の授業を行っても構わないという通達が出されていた。もちろん、真紀子はかしこまった「授業」という括りではなくても、随時、ことあるごとにフェミニズムを浸透させていった。

 具体的には、みっちりジェンダーフリー教育を施していった。男の子は男らしく、女の子は女らしくといった伝統的な男らしさ、女らしさを破壊していった。当時すでにランドセルの色はいろんな色が出回ってはいたが、まだ一般的には男子の色、女子の色というのが決まっていた。男子なら黒、青。女子なら赤やピンクといった色分けである。こういったものを真紀子は次々と否定していった。

 出席名簿も男女別だったが、男子が先で女子が後に名前を呼ばれるのはおかしいとして、男女混合の生年月日順に変更した。男子が常に先というのは男女差別、男尊女卑につながるというのが理由だ。

 その一環として、男子を「~くん」、女子を「~さん」と呼ぶことも差別を助長するという理由で全部「~さん」と呼ぶことに統一した。加えて真紀子はお父さん、お母さんと両親を呼ぶことをよしとしなかった。保護者、あるいは家族のひとと呼ぶことを徹底させた。シングルマザー等が増えて両親が揃っていない家庭も多いからというのが表向きの理由だったが、同性愛カップルを念頭に置いているのは明らかだった。

 学校では、真紀子はずっと雅人の行動に目を光らせていた。毎日毎日、雅人に、あなたは本当は女の子として生まれるべきだったのよと繰り返し諭した。元来雅人は活発な性格で、休み時間は真っ先に校庭に飛び出して友達と走り回ったり、ドッジボールをして体を動かすことが大好きな少年だった。そんなとき真紀子はそっと雅人に近づき、あなたは、本当は心の中は女の子なのよと囁いた。

 そういわれて、最初はきょとんとしていた雅人だったが、あまりにも毎日、担任の女教師から繰り返し繰り返し、あなたの中身は女の子なんだと言われ続けると、最初は取り合わなかったものがだんだんと自分でも不安になってきたのか、入学当初の天真爛漫な明るさが消えうせつつあった。それでもまだ男の子の友達、クラスのガキ大将的存在の勝に誘われると校庭でドッジボールに興じた。そんなときは必ず真紀子は、あなたは女の子なんだからと言って女子の輪に加わらせた。

 もちろん嫌な顔をする女の子なんて誰もいなかった。奇麗な顔をしている雅人は女子から大歓迎された。小学校一年といえど、女子はやっぱり女子で奇麗な雅人に色目を使ってくる子はいる。目ざとくそういう女子を真紀子は排除していった。

 あまりにもひとりの児童にたいして関わりすぎるのではないかと、他の教師からやんわりと批判が出た。職員会議の議題にも上り、吊るし上げの恰好になった。だが真紀子は、親友の遺児を厚遇することの何がいけないんでしょうかと大勢の教師仲間たちの前で涙を流した。もちろんこの芝居がかった仕草に閉口する教師もいたが、なかには情にほだされる校長のような人物もいていつの間にか、うやむやになっていったのだった。



 真紀子の干渉は学校だけではなかった。雅人の母親、深雪と仲のよかった真紀子は、深雪の家にもよく遊びに行っていたので、深雪の両親、すなわち雅人の祖父母とも面識があった。真紀子が、今現在雅人が住んでいる祖父母の家にあいさつに行くことは不思議でもなんでもなかった。むしろ、祖父母は雅人が深雪の親友であった真紀子に担任してもらえると喜んだ。

 だが一度のあいさつでは済まず、ことあるごとに真紀子は祖父母の家を訪れ、雅人の放課後の私生活に干渉した。土日はいうに及ばず、時には平日の夜ですら訪問した。勉強を見てやるという名目で、夕食後は雅人の部屋で一緒に宿題をやったりした。そして、絶えず雅人に「あなたはトランスジェンダーなの。出生時の身体は男だけど、心は女性なのよ。だから、心の性にあった服装や言葉使いや行動をこころがけないといけないのよ」と毎日毎日、呪文のようにくりかえしたのだった。

 それに対して、雅人は当初こそ、「ボクは男だよ。心の中も男だ」と反論していた。真紀子にボクじゃなく私といいなさいと言われてもなかなか首をたてにふらなかった。ボクはおままごとやリカちゃん遊びや折り紙じゃなくて、野球やサッカーがしたいんだよと食い下がった。野球? サッカー? もってのほかよ、あなたは、こころは女の子なのよ! もっと女の子らしい遊びをしなさい! 口答えすると容赦なく平手打ちという体罰を与えた。だが、もともと健全な男子である雅人は、自分が女の子だと思うことは苦しかった。次第に体調を崩して学校を休みがちになっていった。

 当初は、親身になって雅人の面倒を見てくれていると思っていた祖父母は、この頃になるとさすがにちょっとおかしいのではないかと気づき始めていた。雅人は出来るだけ祖父母に心配をかけまいと真紀子から始終、あなたは女の子だとプレッシャーをかけられていることは隠し通していた。だが雅人といっしょに寝ていた祖父の弥助は、夜中に雅人の“ボクは女じゃないよう”といううわごとを聞いてしまった。弥助は、孫の胸中を想うと胸が苦しくなった。弥助は狭心症で薬をのんでいるのだが、このときも慌てて薬を飲んだ。

 その週末も真紀子は、やってきた。手にはデパートの手提げ袋をさげていた。勉強を見るという名目で雅人の部屋にこもった真紀子は、より強力に雅人の女の子化計画を遂行しようとしていた。デパートで購入した雅人に似合いそうなブラウスとスカートの着用を強要した。真紀子は渋る雅人を説得してブラウスとスカートを身に着けさせた。

「ほら、とっても似合うじゃないの!」

 鏡の中には仏頂面で半分、べそをかいている雅人がいた。

「そんな顔をしたらだめよ。雅子さん、女の子はいつも笑顔でいなくちゃねぇ」真紀子はわざと雅人を雅子と呼んだのだった。

「ほら笑ってごらんなさい、雅子さん」

 雅人は半笑いを浮かべた。

 そのとき襖が開いて、祖父の弥助が入って来た。

「なにをやっているんだ! 雅人に女の洋服を着せてなにをしておるのだ!」

一瞬、真紀子は慌てたが、ひるまずに弥助に言い返した。

「おじいちゃん、まーちゃんは、外見は男の子なんですが、中身は女の子なんですよ。そうよね、まーちゃん」

 無理やり同意を求められた雅人は答えなかった。それよりも女の恰好をしているのを大好きな祖父に見られたことの恥ずかしさで、部屋を飛び出した雅人はトイレに籠ってしまった。

「雅人に女の洋服を着せるのはやめてもらおう!」

 弥助は、真紀子の前に仁王立ちになって怒気を孕んだ声できっぱりと言った。その声の調子に、怯んだ様子もなく、真紀子は平然とうそぶいた。

「まーちゃんは性同一性障害という心の病気なんです!」

「嘘をつくな! 雅人は普通の男の子だ!」

 弥助は突然、心臓を押さえてその場に倒れこんだ。

「く、苦しいっ。頼む、救急車を呼んでくれっ!」

弥助は左手で胸を押さえ、懇願するように真紀子に右手を伸ばした。

「た、頼む。はやく救急車を…」

 真紀子は、聞こえなかったかのようにその声を無視し、弥助に背を向けた。そして銀のシガレットケースを取り出すと、ゆっくりとメンソールのたばこに火をつけた。なおも苦しがる弥助を一瞥すると、深くたばこをふかして天を仰ぎ紫色の煙を吐き出した。

 トイレで頭をかかえていた雅人が、なにやら異変に気付き、二階の部屋に駆け戻ると弥助が倒れていた。

「じいちゃん、じいちゃん!」

 大声で叫び、弥助を揺り動かすが、すでに弥助は呼吸をしていなかった。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。

頭上で真紀子の声がした。

「まーちゃん、おじい様、心臓が悪かったのね。早く教えてくれればよかったのに。そうすれば救急車も間に合ったかもしれないのにねぇ。残念だわぁ」

感情のこもっていない声でそう言うと、灰皿がないのでペットボトルの中に吸いさしのたばこを入れてキャップを締めながら真紀子はそうつぶやいた。

 救急搬送された病院で心臓マッサージを受けた弥助だったが、その日の夕方五時にかえらぬ人となった。知らせをうけて老人会の日帰りバス旅行からタクシーを飛ばして病院にかけつけた祖母道子は泣き崩れた。



 祖父の葬儀以来、真紀子は雅人が反抗することが目に見えて減っていることを感じていた。毎日のように言い聞かせている、あなたは心は女の子だという暗示がだんだん効き始めてきているのだろう。それとも私に反抗することは得策ではないと観念したかだった。真紀子はこの壮大な計画が軌道に乗りつつあることにある種の達成感を感じつつあった。自分の手で新しい人格を雅人に授けているような感覚に陥っていた。従来の普通の男の子の人格を捨てさせて全く新しいセクシャリティのまーちゃんを創ることは真紀子にとって大きなチャレンジだった。トランスジェンダー(性同一性障害)のMtF、メール トゥ フィーメール、つまり体の性が男性でこころの性は女性、好きになる性は男性という新しいセクシャリティを創り出す、このことに興奮を感じていた。

 真紀子は国語の授業で教科書に載っている「ごんぎつね」を生徒たちに朗読させた。順番にあてていったが、すらすら読める子、つっかえつっかえなんとか読める子、いろいろだったが、最後の部分は雅人を指名した。もちろん雅人はすらすらと、それも感情をこめて朗読した。クラス全員が聴き入った。何をやらせてもそつのない子だと改めて真紀子は思った。


「兵十は立ち上がって、なやにかけてある火なわじゅうをとって、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて近よって、今、戸口をでようとするごんを、ドンとうちました。

ごんは、ばたりとたおれました。

兵十はかけよってきました。うちの中を見ると、土間にくりが固めて置いてあるのが、目につきました。

「おや。」

と兵十はびっくりして、ごんに目を落としました。

「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」

ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。

兵十は、火なわじゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。」


 実際、雅人の朗読は素晴らしかった。兵十がぐったりしたごんぎつねに話しかける場面ではクラスにすすり泣く声があちこちで聞こえてきた。そのあとに生徒たちに感想を言わせた。口々に「ごんぎつねが可哀そう」「ごんを生き返らせたい」「いやごんは死んだとは限らないじゃない?」とか「ゴンの魂は天に昇ったんだ」とか様々な意見が出た。さんざんいろんな意見を出させたあとで真紀子はこう言った。

「作者の新見南吉は、どうして最後にごんぎつねを兵十に撃たせてしまったのでしょう?」

 さっと手を挙げたのは雅人だった。

「仲良く暮らそうっていうことを伝えたかったんだと思います」

 さすがだわ。読解力もある。真紀子は感心した。しかしそれは真紀子の導きたい世界とは相いれなかった。

「先生はね、この物語で作者が言いたかったことは、『本当の自分をわかってもらえない哀しみ』だと思っているの。今の姿は本当の自分じゃないんだって思う人がいてもなかなか周囲にはそれが理解されない……そういう哀しみがひしひしと伝わってきます。この世界には分かり合えない壁があるのね。こうして兵十とごんぎつねが分かり合えなかったように……」

 雅人は机に視線を落としてうつむいていた。私のいうことが敏感に伝わったのだろうと真紀子は感じていた。



 川辺薫は父弥助が亡くなってから、母である道子が日に日に弱っていっている事を感じ取っていた。姉、深雪の子である雅人は甥にあたる。薫は、同じ熱海市内に嫁いでいた。夫は市会議員。母、道子はなんとかまだ雅人と暮らしていたが、近頃変なことを口走ることが多くなったと感じていた。薫は姉の親友であった石川真紀子さんが雅人を公私にわたってみてくれていることを感謝もしていた。小さな頃はいっしょに遊んだこともあった。

 それなのに、道子は、あの女には気をつけろとか言うのだ。少しボケてきた母が心配で薫は二日に一度は実家に様子を見に行っていた。すると母は縁側でボーッと空を見ていたりする。

「なにを見ているの? お母さん」

 そう尋ねると、誰につぶやくともなく母は言うのだ。

「おじいさんが、朝つばめに乗って出て行ったきり、帰って来ないんだよ」

 これはいよいよヤバいかもしれないと思ったのは、ある日こう言ったのだ。

「薫、あの女には気をつけるんだよ。おじいさんが言ってた。雅人を入れ替えてるんだよ。そんなことは絶対に許しちゃいけないよ。あれは悪い女だ! お前からも言っておくれよ」

「あの女って?」

「石川真紀子だよっ」

 吐き捨てるように母は言うのだった。

「だって、雅人の担任の先生じゃない。よくしてくれてるじゃない」

「お前は本当になんにもわかってないねぇ……」

 と言って悲しい顔をするのだった。いよいよもってこれは危ないと薫は思った。病院に連れて行くと案の定、認知症の診断が下された。それからは認知症でも入所可能な施設選びが始まった。出来るだけ早いほうがいいと思ったのだった。そして半年後、薫は母道子を特別養護老人ホームに入居させることが出来た。ホッとした。そして必然的に雅人は薫が引き取ることになった。雅人は道子が施設に入っても毎週末に会いに行った。薫も同行した。最初は雅人が来ることをとても喜んでいた道子だったが、そのうちに認知症が進んで、雅人が会いにいっても誰だかわからなくなっていった。

「おばあちゃん、会いに来たよ!」

 努めて明るく笑顔を作って雅人が言っても、ついに道子は反応しなくなってしまった。その日は肌寒い秋の終わりの日だった。施設の二階の窓から見える稲刈りの終わった田んぼに晩秋の冷たい霞がたなびいていた。薫の運転する帰りのクルマの中で、雅人は泣いていた。泣きたい気持ちは薫も同じだったが、運転出来なくなるので必死に涙をこらえていた。

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