第四章


 多岐川豊は実に気が重かった。常務の下川のあとについて衆議院第一議員会館六階の和久徳一郎の議員事務室に向かっていたが、出来ればこのまま踵を返して帰ってしまいたい衝動に駆られた。ラボに侵入されてtypeⅩ和久スペシャルモデルを窃盗されてしまったのはどう考えてもこちらの落度でしかなかった。しかもそれは多岐川の指紋と光彩を偽造されたものだったのだから言い訳のしようもない。

 早い段階で、犯人は捕まった。一人息子の弘樹の学校の関係者だったことは忸怩たる思いだったが、それよりなによりもまだ肝心のtypeⅩタマラが発見に至らないのだった。逐一、状況は和久の秘書、中村正春を通して和久前経産大臣には伝わっているはずだったが、直接の謝罪をしないことには収まらないだろうということで常務の下川ともども議員会館の和久事務所まで出向いてきたのだった。

 ドアをノックすると中から、女性秘書の声がした。恭しく下川と多岐川が入室すると女性秘書が待合室の先の事務所兼応接室へ案内してくれた。中には第一秘書の中村と和久徳一郎がいた。和久は巨大なデスクに座って電話中だった。和久は二言三言しゃべってから電話を切った。そのタイミングを見計らって、下川と多岐川は事務所の床の毛足の短い灰色のタイルカーペットに這いつくばり額を擦りつけるように土下座した。本意ではなかったが、常務の下川と相談の上、それくらいはやらないと和久の怒りは収まらないのではないかと考えた上でのパフォーマンスだった。

「大変に申し訳ありません。この度は和久先生に多大なるご迷惑をおかけしてしまい全く弁解の余地もございません。深く深くお詫び申し上げます」

「そういう大仰なパフォーマンスはいい。立ってください。それで、typeⅩはまだ見つからないんですか?」

 言下に苛立ちを含ませた声で秘書の中村が言った。自分で自分のことを切れ者だと見せたいという欲求が如実に現れていて多岐川はなんとなくこの男が好きになれなかった。

「中村君、そうカリカリせんでもいいじゃないか。ちょっとこの二人と内密に話したいから君は外してくれ」

 中村は、すこし目を見開いて、ワタシが外れるんですか? という顔をしたが、不満を表したのはほんの一瞬で、何も言わずに部屋を出て行った。

 和久は閉まったドアをしばらく見つめていたが、やがて振り返るとソファに腰掛け直した二人を振り返ってゆっくりと言った。

「さて、こうなると困ったね。確かに私は、typeⅩタマラの無償供与を受ける代わりに君たちがデータをとりたいというので、そういう契約書にサインはした。だがそれは、データは特定の研究者以外には絶対に見せないという機密保持を君らが確約したからこそだ。こんなにセキュリティが緩いとはまさに青天の霹靂だよ」

 口調は穏やかだったが、声は怒りを押し殺しているのが伝わってきたし、明らかに目には失望の色が浮かんでいた。

下川常務が消え入るような声で答えた。

「弊社の不手際でこのような事態を招き、心から反省しております。今後は弊社のセキュリティには万全を期し、二度とこのようなことが起こらないように徹底した管理体制を敷く所存でございます」

 和久の怒りは今後のことではなく、これからをどうするかにかかっているのに下川常務は見当違いのことをしゃべっていると感じた多岐川は割って入った。

「大臣には、その点まことにご心配をいただき、ハッキングの可能性を排除するためにWi-Fiを外したスタンドアローン仕様のご提案すらしてくださったのにこんなことになってしまい言葉もございません」

 そういって多岐川は平身低頭した。

「わはははははっ」

 和久はいきなり笑い出した。これには多岐川も下川もあっけにとられて和久を見た。

「とはいうものの、起こってしまったことは仕方がない。政治家っていうのは夢想家ではやっていられないものだ。最悪のことも予想しておかないとな、多岐川くん」

 そういうと和久はソファから身を乗り出し、多岐川の肩をポンと叩いた。そして隣で呆けたような顔をしている下川に顔を向けるとこう言った。

「或る程度は、予想はしていたよ。下川くん。こうなると次の事態を考えた上で手を打っておかないとな。最悪マスコミに流れることも想定しておかねばなるまいな」

「そんな有効なマスコミ対策があるんですか?」

 思わずそう尋ねた下川に対して和久は答えた。

「先の先まで読むのが政治家だよ」

 そういって和久は、四角い顔の腫れぼったい三角眼をなお細くして不敵ににやりと笑った。

 和久との面談を終えて、多岐川と下川は議員会館六階の廊下でエレベーターを待っていた。多岐川は最後の和久の言葉を思い出して身震いした。

「政治家っていうのは凄い腹芸を使うものですねぇ。やはりあれくらいでないと生き馬の目を抜くような政治の世界では生きていけないんでしょうねぇ」

 そう下川常務に話しかけたつもりだったが、下川は答えず黙って爪を噛んでいた。彼がそうしているときは機嫌がよくない。やむを得なかったとは言え、土下座パフォーマンスが相当、下川のブライドを傷つけたのだなと多岐川は思った。



 特急が止まるくらいだからもう少し大きな駅だと思っていたが、予想外にこぢんまりとした駅舎に、黒川淳一は面食らった。それが最初の印象だった。

 常磐線、勿来(なこそ)駅。勿来とは変わった名前だ。由来はこうだ。古語で「禁止」を意味する「な」に「来そ」がついて「な来そ」。現代語では「来るな」という意味になる。勿来関(なこそのせき)というのがあって江戸時代には奥州三関のひとつに数えられていた。ところが所在地が諸説あってはっきりしない。それどころか関があったのかどうかすら疑わしいとする説があるそうだ。

 自動改札を抜け駅舎を出ると、真正面に馬に乗って弓を持った源義家の銅像が迎えてくれる。淳一は駅のベンチに取材バッグを置くとどっしりと腰を下ろした。腕時計を見る。午前十一時過ぎ。駐車場を見やってもそれらしいクルマは見当たらない。淳一はここ勿来駅で原雅人と待ち合わせているのだった。

 昨日、雅人に電話したときのことを思い出していた。あの後いろいろと和久のドイツ留学時代の恋人であるタマラという女性について調べてみた。もちろんその話題を切り出したテレビ局にも聞いてみたが、期待したほどの情報は持ち合わせていなかった。番組では少ない情報からカマをかけてみたという程度だったようだ。なにしろ三十年以上昔の事だから、断片的なことしかわからない。そしてそれもまた推測とか憶測等が多くはっきりと事実認定できるものは数えるほどしかない。和久の旧知の友人、知人にあたっても確固たる事実としては断定できないでいた。あくまでも推測と憶測の域を出ないものであったがそれらをまとめるとどうやら次のようなことである。

 一九八三年、ドイツに留学していた和久徳一郎は、ドレスデンの教会の前でタマラ・マトゥシュチクというポーランド系ドイツ人の娘と出会った。彼女は十八歳で一か月前に父を亡くしたばかりだった。そして生活のためダンサーをしていた。ストリッパーだったという情報もある。

 とにかく友人の勧めで、和久が初めて行った教会の日曜礼拝で出会った二人は瞬く間に恋に落ちた。やがて和久の留学期間が終わると離れがたい二人は結婚を誓った。身寄りのない彼女は和久を追いかけて来日する。それほどまでに自分を慕ってくれる彼女の情熱にほだされた和久は、北茨城の実家に彼女を連れて行き、結婚したいと両親に紹介したらしい。

 しかし和久の実家は官僚を務めたほどの北茨城の名家。将来を嘱望されていた和久と身寄りのないストリッパーのドイツ娘……、そんな身分違いの結婚が許されるはずもない。実際和久は財閥系のお嬢様と結婚した。タマラがどうなったのかはわからない……。だが、和久はタマラという名前をtypeⅩのウェイクワードにしている……。

 これは取材する価値は間違いなくある。そう思った淳一は雅人にもタマラの件を電話で伝えた。すると雅人はもし取材に行くのなら自分も同行したいと言ってきた。そして驚くべきことにtypeⅩタマラも連れて行くというではないか! 正直淳一は内心ドン引きしたのであるが、待てよと思いなおした。考えてみたら淳一はまだtypeⅩタマラの実物を見たことがなかったし、和久の実家を訪れる以上、タマラを連れて行くのはこけおどしのインパクトを与えるという意味では面白いのではないかと考えついたのである。

 苦労して幾人かの和久の友人たちを渡り歩いて、ようやく手に入れた若き日の和久とタマラのツーショット写真を淳一は取り出した。和久がtypeXにタマラという名前を付けている以上、タマラの外見はこの写真に写っているタマラに近いに違いない。写真の中では芳紀十八歳のタマラ・マトゥシュチクが黄金色に輝く金髪を揺らしながら恥ずかし気にはにかんでいた。たまらなく美しいと淳一は思った。

 クラクションが鳴った。顔をあげると目の前にオレンジ色のアクアが停まっていた。ドアを開けて原雅人が降りてきた。

「待ちましたか? 時間通りに着く予定だったんですが、久しぶりの運転だったんでなれなくて……」

 言い訳にもならない言い訳をしながら、淳一に助手席側に乗るように促してきた。淳一は手にしていた写真をバッグにしまうとアクアの後部座席を覗き込んだ。果たしてそこにはさっき見た写真と、うり二つの美しい金髪碧眼の美少女が乗っていた。

「これが、typeⅩなのか……」

 初めて見るtypeⅩタマラに淳一は興味津々だった。確かにパッと見る限り人間と見分けがつかなかった。よくよく目を凝らして見ると肌の質感とかに違和感があるけれど、それは淳一がtypeⅩだという先入観があるからわかるのであって、なんの予備知識もなければ気づかない人間が大多数だろうと思われた。白のタートルネックのセーターにタータンチェックのロングスカート、皮のライダーズジャケットといういで立ちはどうみても普通の若いお嬢さんとしか見えなかった。

「私の顔、なにかついていますか?」

 いきなりtypeⅩタマラに話しかけられて、淳一は狼狽した。なんとか内心の動揺を雅人に悟られまいと平静を装ったが、ドキッとしたのは確かだ。そうか、AIを搭載しているので当然だが喋れるんだった。和久の虐待によってシリコンの肌を切り裂かれたタマラは顔にも深い傷跡があった。それを雅人が接着剤でリペアしたというのは聞いていたが、やはり完璧というわけにはいかずタマラの頬には、修復痕がはっきりと残っていた。それにしてもAIはその傷跡を気にしているというのだろうか。最近のAIの進化というのは空恐ろしいなと淳一は思ったのだった。

 純一を乗せたアクアは和久の実家へ向けて走り出した。国道六号線を南下して北茨城方面へひた走る。勿来駅があるのは福島県いわき市だが、五分も走ると県境を超えて茨城県北茨城市に入る。やがて北茨城の高台の松林にクルマは差し掛かった。海が近いのか耳を澄ますと波の音が聞こえてきた。松林はいつしか黒漆喰の塀がどこまでも続く家の前に出た。とてつもなく広い敷地の屋敷、これが和久徳一郎の実家であった。

 威風堂々とした見るからに立派な門構えの前でインターホン越しに来訪を告げるとアポはとってあったので、重厚な木戸が重々しく自動で開いた。ハンドルを握る雅人は慎重にゆっくりとアクアを広大な邸内に滑り込ませた。まるで公園のような手入れの行き届いた日本庭園を抜けるとようやく屋敷の玄関にたどり着いた。客用のクルマ止めにクルマを停めると明らかに家人ではない使用人らしき中年の女の人が玄関に案内してくれた。その中年の家政婦さんはクルマから降りてきた広いつば付き帽子をかぶった女が金髪なのを見て少し面食らったようだったが、もちろん彼女がtypeⅩというラブドールであるということは知る由もなかった。

 淳一たち一行は三十畳もある客間に通されしばしの間待たされた。家政婦さんらしき人は言った。

「奥様がお会いになります。少々お待ちくださいませ」

 座布団もなかった。やがて一段高い上座に、齢八十近い老婦人が座った。身体は大義そうだが、その目には強い光が宿っていた。これじゃあ、まるで時代劇に出てくる殿様との謁見だなと淳一は思った。一同、苦しゅうない、面をあげいっ! とか言われるんじゃないかと淳一が考えていると、果たして老婦人が口を開いた。

「遠いところから、よう来なさった。私が徳一郎の母の菊乃ですじゃ。そいで記者さんとやら、何が聞きたいのじゃ?」

 菊乃は事前に渡しておいた淳一の名刺をしげしげとひっくり返しながら尋ねた。

「単刀直入にお伺いします。一九八三年、ドイツ留学から帰られた徳一郎氏を追っかけてドイツ人女性が来日していますよね。徳一郎氏はその彼女を連れて結婚の許しを得るためにご両親に合わせたという話を聞いているのですが、これは事実ですか? なにしろ三十年以上前のことなので記録らしい記録がどこにも残っていないのです。それで直接、お母様に伺う他はないと訪ねて来たというわけです」

 淳一の話を聞き終わった菊乃は体勢が苦しいのか、脇息(きょうそく)の上の右手を少しずらして体の位置を直しながら嘆息した。

「なにを言い出すのかと思えば、そんなことかえ……。確かに徳一郎はドイツ留学をしとったわい。じゃがそれは勉学の為であって決してドイツ娘の尻を追っかけに行ったのではないわ。そんな暇はありはせんわ。徳一郎が外国の娘を和久家に連れてきたなどと、そんなことがあろうはずはない!」

 口調は穏やかであったが、言葉の中に明白な不快さを滲ませて、菊乃ははっきりと否定した。だが、淳一はなおも食い下がった。

「この娘の顔を見ても、何も思い出しませんか?」

 そういうと、淳一は雅人に目配せした。雅人は目深に被らせていたtypeⅩタマラの広いつばの帽子を取ってみせた。座の空気を一変させるような豊かな金髪と碧い目があらわれた。タマラは、およそ三メートル離れて正面の上座に座っている菊乃と視線を合わせると、ゆっくりと口角をあげて笑ってみせた。ぎこちない不自然な笑みだった。淳一は内心驚いていた。事前に雅人と少しは打ち合わせていたものの、ここまで不気味な微笑みをAIが作り出せるとは思わなかった。AIを搭載しているタマラはもっと自然な笑いが出来るにもかかわらず、わざとぎこちない不自然な笑いを作り、自ら《不気味の谷》を演出しているのである。

 菊乃の反応は見ものだった。大きく目を見開いて半分口を開けあっけにとられ、いわゆる“驚愕の表情”をしていた。たっぷり五秒は沈黙がその場を支配した。やがて菊乃はかすれたような声を絞り出した。

「なんじゃ、その女は! 生きているのかえ?」

「いえ、人形にございます」

 淳一は落ち着き払って答えた。

「き、き……、機械仕掛けのマネキンをこの年老いた婆に見せてどうする魂胆じゃ! 寿命が十年縮まったわ! とにかく今も昔もこの家に異国の娘を徳一郎が連れてきた事実はないっ。おかえり願おう!」

 けんもほろろだった。そういうと和久菊乃は、家政婦たちを呼んで淳一たちを追い出しにかかった。

 客間を出る淳一たちの背後で、菊乃が家政婦たちに塩を捲けとヒステリックに叫んでいる声が聞こえた。



 淳一と雅人は、ファミレスで遅い昼食をとっていた。さすがにタマラは人目をひいてしまうので駐車場のアクアの中に残してきていた。

「カマかけたんだけど、やっぱりあの婆さん、引っかからなかったなぁ」

 淳一がハンバーグ定食の付け合わせの野菜をもりもり食べながら言っているのは、菊乃が最後までタマラの名前を出さなかったということだった。菊乃の口から、こっちからひと言も言っていないタマラという名前が出ればしめたものだと考えたのだった。

「そう簡単に尻尾を出すとは思えませんでしたよ」

 雅人はきのこ雑炊を木の蓮華(れんげ)ですすりながら答えた。

「でもタマラの帽子を取ったときの表情からすると、明らかに何かを知っているな。ありゃあ」

「そうですか? 僕にはよくわかりませんでした。単純にtypeⅩを初めて見た人の反応のようにも思えたし……」

 淳一はこの雅人の返答には不満を覚えた。実際のところ、淳一もあの菊乃のリアクションではタマラと会ったことがあるのかどうかの確信は持てなかったというのが正直なところだった。ゆえに雅人に、あれは絶対何か隠していますよね~という相槌で、背中を押してもらいたかったのだ。

「いずれにせよ、古すぎるんだ。法務省の出入国管理記録も当たってみた。他人の出入国の照会は、当たり前だが機密事項なのでおいそれとは教えてくれない。特に昨今は個人情報の取り扱いには神経質になっているからな~。本人の出入国記録なら開示請求っていうのが出来るんだが、そのためには身分証やらパスポートやらがいる。タマラに成りすまそうとしたけど、到底無理だった。航空会社の搭乗記録だって残っていない。そういう記録が追えない以上、あとは足で取材するしかない。実は、俺は先週もこっちに来てるんだ。知らない土地で情報集めるのは飲み屋しかない。当時のことを知ってる人がいないかいろいろと聞いて回った」

「あまりに昔のことなので、誰も知ってる人が見つからなかったということですか」

 雅人はそう言って目を伏せ眉根を寄せた。淳一にはそれがドリンクバーの温(ぬる)くて薄いコーヒーを飲んだせいなのか、情報が少なすぎることを嘆いてかだったのか判断がつかなかった。手詰まりだな、徒労感ばかりが残る。そう淳一は感じていた。首をぐるりと回すとぽきぽきと肩の周辺が鳴った。それがあまりに大きな音だったので、淳一は思わず他の客に聞こえはしなかったかと周囲を見回した。幸い誰も聞いていなかったようでホッとした。尤も昼を大きく過ぎたこんな中途半端な時間帯では、客もまばらでなにやら夢中で話しこんでいる中年のオバサン二人連れのほかには、客は淳一と雅人しかいなかった。

 ファミレスのBGMに「コーヒー・ルンバ」がかかった。

「おっ! 懐かしいなぁ。この曲! 荻野目ちゃんのコーヒー・ルンバだ。オレ、小学生の頃、荻野目ちゃん好きだったんだよねー」

 煮詰まっている状態から脱したかったのか、黒川はつぶやいた。

「そうなんですか。僕もこの曲好きですよ」

「あー、そういえばコーヒー好きだものねぇ。最初に会ったときから、ずっとコーヒーばかり飲んでるよねぇ」

「タマラが目覚めたとき、コーヒー入れてたんですよ。そしたらタマラはいきなりコーヒーの蘊蓄(うんちく)語りだした後に、なんとコーヒー・ルンバ歌いだしたんです! あのとき、私……僕、ちょっとあっけにとられて、AIあなどれないなぁ……って思いました」

 そう言うと、雅人は何とも言えない表情をして笑った。

「へえっ、それってもともとプログラムされてたって事?」

「そうなんでしょうねぇ。だってタマラのAIはスタンドアローンですから」

「開発者の“遊び心”ってヤツかなぁ。もしかしたらタマラってスペシャルモデルだから、なんかの裏設定とかあるかもしれないよな」

 黒川がそう言うと、雅人は鼻白んだような表情を浮かべた。テーブルの上に無造作に置かれた淳一のスマホが振動した。淳一はそそくさと席を立つと店外に出た。先週立ち寄った飲み屋のマスターからだった。なにか有力な情報があれば提供してくれるようにと、スマホの番号を教えていたのだった。

「えっ、ほんとに? 助かるよ、マスター。うんうん、住所は……」

 席に戻った淳一の顔には先ほどとは違って赤みがさしていた。紅潮した頬が期待と興奮の入り混じった心境をあらわしていた。そしていまだにゆっくりとコーヒーを飲んでいた雅人に早口で興奮気味にまくしたてた。

「タマラのことを知ってるかもしれない人物が見つかった。昔に和久家で働いていた家政婦だったそうだ。これから会いにいくぞ!」



 マスターから聞いた住所をナビに入れると、苦も無く以前和久家に仕えていたという老女の住むアパートに着いた。マスターが気を利かして連絡を入れてくれていたらしく、老女はまるで日向ぼっこでもするかのようにアパートの前に佇んで待っていてくれた。

「待っていてくれたんですか。ありがとうございます。私はこういうものです」

 クルマを降りた黒川淳一は、名刺を渡した。

「水木トキ、と申します。よろしくお願いします」

 老女はそう言って頭を下げると、次の瞬間、後部座席を見て目を見開き、心底驚いたようにつぶやいた。

「あなたは、タマラさんじゃないの! どうして……?」

 淳一は、タマラを知っている! ということに色めき立った。


 「そうなんですか。人形なんですか……。私はあのときのタマラさんそのものなんで腰が抜けるかと思いました……」

 そういいながら、水木トキはアパートの部屋で、淳一と雅人とtypeXタマラにお茶を入れてくれた。

「人形というか、まぁロボットみたいなものです。あ、タマラはロボットなのでお茶は飲みませんから」

 雅人はそういった。トキに細かく説明するのが面倒で、ざっくりタマラのことをロボットだと雅人が言ったのは明白だったので、淳一は心の中で苦笑していた。

「それにしても本当によく似てるわ。あら、お顔に傷があるのねぇ。どうしたのからしら?」

 しげしげと、トキは、ちゃぶ台の前に座っているタマラの顔を覗き込んだ。

「私の顔になにか、ついてますか?」

 タマラは、すこし口角をあげて笑みを作りながら、そう答えた。これにはトキも不気味さを感じたようで押し黙ってしまった。淳一は、自分の時と同じことをタマラが言ったので既視感を感じていた。あのときはいきなり話しかけられて焦ったのだが、結局AIは誰に対しても同じことしか言わないということなのか? それほど進化しているわけではないのかもしれないと思った。

 トキの話は、いきなり核心には入らず、まず自分がいかに和久家で家政婦長として重責を担って、和久家の切り盛りをしていたかという話から始まった。そして当時の自分は若く美しく、和久家に出入りする誰もが、トキに対して一目置いており、出入りの商人や御用聞きの男どもがみんな自分に付文をするのでその処理に困ったという自慢話、果ては自分の美貌に嫉妬した和久家の菊乃奥様が夫である和久徳造とトキの仲を疑い、辛く当たられたことなどを延々と話し続けるのであった。おかげでアタシは亭主にまで疑われて離婚までされてとんでもない目にあったんだからと言い出して延々、菊乃奥様への繰り言が続くのであった。

「水木さんは、タマラと会ったことがあるんですね!」

 たまらず、雅人がトキに尋ねた。

「ええ、あれはもう三十年以上前になりますかしら? ドイツから帰られた徳一郎坊ちゃまをタマラさんが追っかけてきなさったんですよ。空港まで迎えに行った坊ちゃまは、もうタマラさんをご両親に会わせて結婚の承諾を得ようとやっきになっておいででした。当時私は和久家の敷地の中にあった使用人の住居にすんでましてね、そこへ坊ちゃまがタマラさんを連れてきて、しばらく面倒みてやってくれないかっておっしゃるんですよ、私に」

 ようやく話は、核心に入ってきた。淳一も雅人も一言も聞き漏らすまいと食い入るようにトキの口元を凝視した。

「それはきれいなお嬢さんで私はびっくりしましたよ~。だって金髪で青い目のお嬢さんでしょう! それに日本語はほんの片言、アタシだってもちろんドイツ語は話せないし英語だってあいさつ程度。どうしようかと思ったけど、案外意思の疎通ってなんとかなるもんなんだって思ったわ。真心で接すればなんとなく通じ合えるんだってわかった。二、三日タマラさんを預かって思ったのは、とても性格のいい娘さんだと思いましたよ。慣れない日本の生活、畳だってお布団で寝るのだって初めてだったんじゃないかしら? お箸の使い方だってすぐに覚えちゃったし、みそ汁もおいしそうに飲んでいたし、果敢に納豆にも挑戦していたのを覚えていますよ。でもね、決して自分から言わなかったけどアタシはすぐに気づいていました。彼女がね、お腹に赤ちゃんを宿していることを」

 これは衝撃的な情報だった。当時タマラが妊娠していた? 淳一と雅人は思わず顔を見合わせた。水木トキの告白はまだ続く。

「徳一郎坊ちゃまは、意気込んでタマラさんと結婚させてくれってご両親の前で訴えたんですけど、結果は、はかばかしくありませんでした。それはそうでしょう、末は坊ちゃまの政界入りもにらんでいた旦那様がそう簡単に許してくれるはずはありません。でも一番強硬に反対なさったのは誰あろう、菊乃奥様でした。旦那様はもしかしたら説得できるかもしれないと思っていたけど、菊乃奥様の激昂ぶりはもう目も当てられないくらいで、本当に冷たくあしらわれたようでした。

 奥様に大反対されて帰ってきた徳一郎坊ちゃまの落ち込み様といったらなかったですよ。それはしょげ返っていました。タマラさんなんて蒼ざめていましたからね。ちょっと目を離したすきに居なくなってしまったんですよ。突然消えてしまったタマラさんの名前を呼んで探している坊っちゃんに、アタシ、はっきり言ったんです。菊乃奥様や旦那様にタマラさんが妊娠していることを申し上げたんですかって。坊っちゃんは驚いて、知っていたのかといいました。

アタシを誰だと思っているんですか! 徳一郎坊ちゃま。すぐにわかりましたよ! と申し上げると、坊ちゃまは、結婚のけの字をだすのも清水の舞台から飛び降りる位の覚悟がいるんだ。ましてやタマラのお腹の中に僕の子がいるなんてどうしていえるものか! と今でいう逆切れっていうんですか? なさいましてね。

 坊っちゃんは気が小さいひとなんでございますよ。とにかくおろおろなさってタマラさんの名を呼びながら部屋を出て行ってしまったんでございます。アタシだってたった二、三日とはいえ、一緒に過ごしたタマラさんにはもう親近感がわいてますでしょう? 同情してしまいましてね、思わず涙が出てしまうのを抑えることが出来ませんでした。そう、そして小一時間も経った頃だったでしょうか。真っ青な顔をして坊ちゃまが戻ってらっしゃったんです」

 淳一は隣の雅人が固唾(かたず)を呑んで聴き入っているのが手に取るようにわかった。何故ならそれは淳一も同じだったからだ。


 徳一郎坊ちゃまは飛び込んでくるなり、玄関の三和土(たたき)に座り込み、ガタガタと震え出しました。

「どうなさったんですか? 坊っちゃん」

 走ってきたのか、息を切らしているので、私はコップに水を汲んで差し上げました。その水を一気に飲み干すと、坊っちゃんは私を見つめて、絞り出すように言いました。

「たいへんだ! トキさん! タマラが崖から海に飛び込んだ!」

 徳一郎坊ちゃまは、それは興奮なさっていました。私は訳が分からず、坊っちゃまにどういうことなのか尋ねました。坊ちゃまは極度の興奮と動揺で時々意味不明なことを口走ったりしましたが、要するに、結婚が認められなかったことでタマラは絶望して、錯乱状態になったというのです。追いかけていった坊ちゃまは、五浦海岸でようやくタマラに追いつきました。錯乱して興奮状態のタマラは坊っちゃまが何を言っても聴き入れようとはしませんでした。激しく坊ちゃまを罵倒して暴れてそれは酷かったそうです。そしてタマラに乱暴されて坊ちゃまがひるんだ隙をみて、タマラは崖の上から身を投げてしまったのです。

 それからは大騒ぎになりました。みんなで捜索にあたりましたが、結局遺体は上がりませんでした。この事をあまり大っぴらにしたくない和久家は捜索に協力した人たちに箝口令(かんこうれい)を敷きましたが、人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、皆は「あの外人女は自殺だって坊っちゃんは言ってるが、本当は、邪魔になったんで坊っちゃんが海に突き落としたんでねーべか」なんて口さがない連中は言ってたんですよ。でもねぇ、坊ちゃまが海に突き落としたなんてとんでもない言いがかりでね、当時アタシは憤慨したもんですよ。だってそんならなんでアタシに言いますか? 黙っていたらわからないことでしょうが。

 結局人の噂も七十五日、あれからもう三十年以上経ちました。誰も当時のことを知る人はいないでしょうねぇ。もともとそんな皆が関心もつようなことじゃなかったし、坊ちゃまは厚生省の官僚だからすぐに東京に帰ってしまいました。きっと大奥様が早く帰れっていったんじゃないかしら? アタシは思うんですけどね、すべてはあの大奥様が悪いんですよ。アタシが夫とぎくしゃくして挙句に離婚して一人でこんなアパート住まいしているのも、元はといえば大奥様の誤解が原因なんですから! でもね、徳一郎坊ちゃま……やだわ、今でもワタシ、昔の癖が抜けなくて……今じゃ歴とした友愛党総裁候補でしたわね。今でも毎年、五浦海岸に来てらっしゃるんですよ。ええ、崖の上に小さな石で出来たお墓が作ってあるんです。遺体がないので正式にはお墓ではありません。もちろん名前も刻まれていないんですけど、徳一郎さんは毎年夏になるとやって来て、その石の前で手を合わせて行くんですよ。これは知ってる人はほとんどいませんよ。多分菊乃大奥様だって知らないんじゃないかしら……。えっ、場所? もちろん知ってますよ。お屋敷からそう遠くないところの五浦海岸の展望慰霊塔の外れですから。ええ、当時はもちろん展望台も慰霊塔もありませんでしたよ。だって三十年以上前ですからね。



 淳一と雅人は、トキに教えてもらった五浦海岸に来た。眼下には太平洋がひろがっている。淳一は大きな体躯を揺らして恐る恐る崖から下を覗き込んだ。ゆうに五十メートルはあった。淳一は目眩を覚えた。高いところは得意ではないのだ。徳一郎が作ったという石碑はすぐに見つかった。もっと荒れ放題なのかと思ったが、周辺には雑草一本生えていない。徳一郎に言われて誰かが手入れをしているに違いなかった。確かに名前もない小さな石碑だった。夕日が山側に落ちようとしていた。太平洋を前にして立っている雅人と隣のtypeⅩタマラを夕日がシルエットにしていた。ぼんやりと淳一はなんか映画のポスターのようだなと感じていた。そのとき不意に、吹きっさらしの崖の上の砂を捲き上げて一陣の風が吹いた。砂粒が淳一の目に入った。涙が出てきた。

 雅人は石碑の前にしゃがみ込むと手を合わせた。そしてそっとつぶやいた。

「タマラ、多分ここが君のルーツなんだ……」

「ルーツ……根源、祖先。アメリカの黒人作家ヘイリーの著書とそれを原作としたテレビドラマ化から一九九七年に広まった言葉……」

「いや、そういうことじゃなくてさ……」

 タマラがルーツについての蘊蓄(うんちく)を喋りだしたので、雅人は力なく苦笑して淳一と目を合わせると両手でお手上げのポースをした。

 黒川淳一は、自身の内側から湧き上がってくる興奮を抑えきれなかった。和久徳一郎が若き日に留学先で知り合った恋人を妊娠させて、あろうことか来日したその恋人が行方不明になっている! 先の和久徳一郎の変態じみた性癖と合わせれば相当の破壊力を持つ記事になると確信していた。

 ただ現状では、あの水木トキという和久家に以前仕えていたという婆さんの証言しか得られていないというのが、弱点ではある。事実確認が出来ないのだ。だが一旦、記事にしてしまって世間の耳目を集めれば、自然と周囲を巻き込んで大騒ぎになるうちに、いくつか確証めいたものは出てくるだろうという腹積もりもあった。

 すぐに東京に帰って記事に取り掛からなければと淳一は気がせいていた。木曜日の編集プラン会議のネタ出しは、このネタなら一発で通るだろうことはまちがいない。他社と違い、週刊群衆では専属記者が取材して社員記者が記事を書くというような、いわゆるデータマン、アンカーマンというような分業制度はとっていない。黒川自身も他社から引き抜かれた専属記者だが、海千山千の現場をいくつも経ているので自身で記事が書けることが強みだった。ここしばらくはいいネタ出しが出来なくて、正直に言うとちょっと焦っていて神経がピリピリしていた時期もあったのであるが、今回はイケそうな気が早くもしているのだった。

「原さん、これなら記事イケるかもしれません! これと前の件の二つの合わせ技なら和久を追い詰めることが出来ると思います。喜んでください」

 ところがそういっても雅人はさほど嬉しそうな表情も見せなかったので淳一は拍子抜けした。あれほど記事にすることを熱望していたのではなかったのか。

「どうしたんですか? 記事になるんですよ。うれしくないんですか?」

 原雅人はしばしの沈黙の後、こう切り出した。

「ここに来て石碑を見てしまったら、なんというか……どうでもよくなってしまったんですよね。正直自分でも何をしたいのかよくわからなくなってきました。ただ言えることは、もう終わりにするべきなんだろうなって思います」

 黙って淳一は聞いていた。

「タマラ、もうこれで旅は終わりだ」

「すいません、よくわかりません」

 タマラは無機質な表情でそう答えた。

「私はこれから東京に戻って、編集プラン会議に備えようと思うんですが、原さんあなたはどうなさるんですか?」

「じゃあ、駅までお送りします。私も終わりにしようと思います。タマラをラボに返還するいい潮時です。パーツサプライを購入したこともあり再三オリガント・インダストリーから問い合わせメール等も来ていたのですが、なんかタマラの件で納得できなかったこともあり無視していました。いつまでも正規ルートで入手したわけでもないtypeⅩにかかずらってもいられません。オリガント・インダストリーのラボにタマラを返しに行って、妻にすべてを話して、私も日常の生活に戻ろうと思います……」

 一気にそういうと、肩の荷を下ろしたように原雅人はため息をひとつついた。すっかり夕日が落ちてあたりは暗闇が忍び寄り、そう言った雅人の表情を、淳一ははっきり確認することが出来なかった。



 黒川淳一を勿来駅に送った頃には、周辺はすっかり暗くなってしまっていた。手を振る黒川と別れると、雅人はナビの行き先を東京のオリガント・インダストリーのラボに設定した。

「さぁ、タマラ。私たち…いや僕たちも東京に帰るとするかぁ!」

 助手席のタマラは、それには答えず暗くなりチラホラ灯りが点きだした窓の外の風景を眺めていた。それまで普通に走っていたアクアの推進力が突然失われた。アクセルを踏んでも全く前に進んでいかない。

「あらっ、どうしちゃったんだ?」

 焦りまくった雅人は、パワーを失ったアクアを後続車の迷惑にならないように気にしながら、ゆるゆると路肩に寄せて停めた。

「あ~、やらかしちまった!」

 雅人が小さく叫ぶと、タマラが余計な反応をした。

「ちょっと難しいです。ごめんなさい」

 ペーパードライバーで長らくクルマを運転したことがなかった雅人は、レンタルした当初はハイブリッドカーのガソリン消費の少なさに感激していたが、燃料計がほとんど動かないことに慣れてしまい、ある時点から全く燃料計を気にしなくなっていた。気づくと燃料計のディスプレイは、一本のバーも残っていなかった。ガス欠だった。雅人は自分の馬鹿さ加減に頭を抱えた。ハンドルに頭をぶつけて死にたいくらいに恥ずかしかった。

「ほんと、我ながらなんて情けない。タマラ、笑ってくれ」

 タマラはそういうときだけ素直に反応して、あっはははははと笑い出した。余計雅人は落ち込んだ。ふと顔を上げると前方数百メートル先にガソリンスタンドの巨大な看板が見えた。


「えっ、ガソリン? 何に使うの? まぁ、いいや。だけどポリタンクでは売れないよ。この携行缶でないとね。しょうがないよ、消防法でそう決まってるんだから。いじわるで言ってるわけじゃないよ。何リットル欲しいの? 十リットル? 携行缶と込みで五千円ね」

 ガソリンスタンドのオヤジは鼻眼鏡の奥からその小さな目をしょぼつかせていろいろ聞いてきたが、まさかガス欠とは恥ずかしくて言えなかったので雅人はなにも答えなかった。

「毎度あり」

 皮肉にも聞こえる鼻眼鏡オヤジの声を背中に聞いて、片手に携行缶を持ちながらトボトボ歩く。行き交うクルマのヘッドライトに照らされるたびに、携行缶を片手に肩を落として歩く自分の姿を行き過ぎるドライバーたちはどういう気持ちで見ているんだろうなぁと思ったら、雅人はなんだか惨めな気持ちになった。路肩に停めたアクアまで戻り、給油口を開けてガソリンを注ぎ入れる。何しろ初めての経験なので、買ってきた十リットルを全部入れていいのかわからない。半分ほど入れてみてから試しにエンジン始動ボタンを押してみる。エンジンは始動した。雅人は運転席でようやく安堵のため息をついた。助手席でタマラがじっと雅人の顔を覗き込んでいた。

「雅人、お腹減っているのか?」

「いいや、お腹が減って動けなくなっていたのはこのクルマだよ」

「そういえば、タマラもお腹すいた。充電しないと残り二十分で動けなくなる」

「そうか。参ったなぁ。充電器は持ってきたけど、このクルマには百ボルトついてないしなぁ。ネットカフェかどこかで充電するかなぁ……」

 その時突然アクアの後部ドアが開いて、見知らぬチンピラ風の男が二人乱暴に車内に乗り込んできた。

「誰だ、お前たちは!」

「誰でもいいっ。これはtypeⅩだな。クルマ出せ!」

 そう言うと男は雅人の首筋にナイフを押し付けてきた。そのひんやりとした感触に思わず雅人は首をすくめた。

「ガス欠でたった今、少しガソリンを入れただけなんだ。給油しないとそんなに走れない」

「ガタガタ言わずに発進させろ! そう遠くまでは行かねぇ」

 仕方なく雅人はクルマを発進させた。男たちの指示によりしばらく走ると国道六号線から県道三四五号線に入り、五浦観光ホテル別館近くの人気のない駐車場の奥に停めさせられた。

 時刻は午後八時を回っていた。春とはいえ、北茨城の夜はそれなりに冷える。こんな時刻では観光客もとっくに帰ってしまって駐車場には全く人の気配はなかった。

「随分、派手に嗅ぎまわってくれたみたいじゃね~か。ご丁寧にこんなtypeⅩまで持ち出して和久家にまで乗り込んでいってよぉ!」

 そういうことなのかと雅人は理解した。

「お前ら、和久徳一郎の指示で動いているのか……?」

「どうでもいいんだよ。そんなことは。これ以上typeⅩと一緒にウロウロされちゃあかなわねぇんだよ。目障りなんだよ!」

 雅人は初めて身の危険を感じた。こいつらは和久徳一郎に雇われた殺し屋に違いなかった。和久は酸いも甘いも全て経験している根っからの政治屋だった。汚いことでも平気でするということを忘れていた。甘かった。目の前が真っ暗になり膝がガクガクと震え出していた。

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