第31話 記憶の残滓
「———危ない!!」
女性を狙う、ゴールドスミスの銃弾。
メアリーは本能的に——咄嗟に飛び出して、女性に飛びついた。
間一髪の所、銃弾は女性に当たらず。
女性を庇ったメアリーは、二人一緒に床へ転がる。
「…あなた。銃はさすがにまずいわよ…」
ゴールドスミスの妻が、逆上し我を失っていた夫を宥める。
「黙れ!あの女は私を侮辱したのだ!」
ゴールドスミスは顔を赤くしながら、なおも語気荒く怒り狂う。
「…あら?私はただ、疑問を口にしただけですよ?ねえゴールドスミスさん。まだ私の質問にも答えていませんよ。…私の質問に答えられないのは、やましいことがあるからです。難民労働者の件も、″養子″として迎える女の子達のことも…」
眼鏡の女は、更に煽り立てるようにゴールドスミスを刺激する。
「…貴様。どこまで私をこけにすれば…
もう許さんぞ。」
堪忍袋の緒が切れたゴールドスミスは、ついぞ衛兵達に合図を送る。すると衛兵達は、銃を取り出して、眼鏡の女性を取り囲むようにし銃を構えた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
メアリーは女性の間に立って、彼女を守ろうとする。
誰かもわからないこの眼鏡の女性に、メアリーがそこまでする義理はない。
義理はない、が…
僅かながらにメアリーは、あの横暴なゴールドスミスに食ってかかるこの女性に対して——ある種の清々しさも感じていたのだ。
だからと言って、今の状況は非常にまずいわけだが…
「…あなた、誰?」
眼鏡の女性は、小声でメアリーに話しかけてきた。ゴールドスミスの衛兵達に銃を向けられている状況下でも、彼女はひどく冷静だった。死を恐れていないのか、あるいは生き延びる自信があるのか…
「…そんなことより。このままじゃ、蜂の巣ですよ。何とかしてここから逃れないと…」
メアリーは、眼鏡の女性からの質問には答えず、今この場を逃れることで頭が一杯だった。
「…お前は、メアリー・ヒルか。なぜその女を救おうとするのだ?
…そこをどくのだ、メアリー。でなければ、お前ごとその女を撃ち殺すぞ。」
ゴールドスミスが、眼鏡の女性の前に立つメアリーに警告する。しかしメアリーは怯むことなく、ゴールドスミスを説得するように言う。
「…ゴールドスミスさん。あなたこそ、衛兵に銃を下ろすよう言ってください。
…このパーティ会場を、血で染め上げた惨劇の場にしたいのですか?」
「…これは、私のパーティだ。私を侮辱する者が死ぬことに、何の問題もない。
…むしろ、みなもそれを望んでいるはずだ。その女の、死をな。」
メアリーの呼びかけに、しかしゴールドスミスは鼻で笑って返した。
「無駄よ。ゴールドスミスは私を殺すつもり。説得なんて無意味」
銃を向けられている当の本人は、その絶対絶命の状況にも関わらず、やはり余裕綽々の様子だった。その余裕っぷりに、メアリーは呆れたような声を出す。
「…あなた、今の状況がわかってるんですか?このままじゃ、本当に2人とも死んでしまいます。」
「…それも、そうだけどね。でも私、逃げ切れる自信はあるわよ?」
逃げ切れる自信がある…
先程衛士の一人を″投げ飛ばした″始終から察するに…それは確かに自信過剰、というわけでもないのかもしれない。だからこそこの眼鏡の女性は、終始余裕の表情なのだ。しかし…
「…でも。どうやって逃げるんです?」
四方から銃を向けられているこの状況。メアリーは、単純な疑問を口にする。メアリーからの疑問に、女性は笑って言葉を返す。
「…どうやってか、って?
…そんなの、決まってるじゃない。」
そう言ったと同時に——彼女は、前方に駆け出していた。
「————っ!!」
それは、あまりに突然だった。
女性が駆け出していた方向の先…
それは、ゴールドスミスがいる方向だったのだ。
「う、撃てぇ!!」
衛兵が女性目掛けて一斉に射撃する。
しかし女性は、体を前転させて銃弾を回避する。…よほどの手練れでもない限り、″疾走して動いている″的に銃を命中させるのは、それほど簡単なことではない。
銃撃を躱した女性は間髪入れず、テーブルクロスを掴んで、それを宙に放り投げていた。
そのだだっ広いテーブルクロスで、女性の体が隠れた。衛兵はテーブルクロス目掛けて銃撃する。しかしテーブルクロスが床に落下した時、そこに女性の姿はなかった。
テーブルクロスを放り投げたのは、単純な視界の撹乱。そして女性は機敏な動きで跳躍。テーブルの上に乗って、まるで八艘飛びのごとく——テーブルからテーブルへと跳躍していた。
向かう先は、ゴールドスミス。
「…やめろ!こっちに来るな——」
僅か数秒の間——
衛兵達の攻撃を退けて、ゴールドスミスの元へ辿り着いた女性。
しかしゴールドスミスの横には、やはり衛兵が控えていた。
衛兵が剣を抜いて、女性に振りかぶる。
女性は上体を反らして、剣をかわす。
その長い黒髪がはためき、僅かに剣が髪をかすめる。
剣をかわした女性は、反撃に転じる。
女性は、その右手で強烈な掌底を衛兵の顎にお見舞いした。
激しい衝撃で脳が″揺れて″、衛兵はそのまま床に崩れ落ちた。
「…衛兵!衛兵!
早くあの女を殺せぇ!!」
ゴールドスミスはひどく情けない声をあげて、パーティ会場の出口へ逃走していた。
ゴールドスミスは、メアリーの横を通り抜けようとしたが、メアリーがゴールドスミスに足を引っ掛けて…ゴールドスミスは転がるように床に転倒した。
「ぐわあ!!」
「…あら、ごめんなさい。足が引っ掛かってしまいましたね」
まるで″仕返し″とばかりに…メアリーはわざとらしくゴールドスミスに声をかける。
「貴様、わざと…」
ゴールドスミスは立ち上がり、メアリーを睨みつける。しかし彼は転倒した拍子に、テーブルに激突し、頭からワインを被っていた。ゴールドスミスの顔から体までが、ワインの液体でびしょ濡れになっていた。
メアリーは、ゴールドスミスのそんな″無様″な姿を見て、嘲るように声をかける。
「…あら、ゴールドスミス様。せっかくの立派なお洋服が、ワインでびっしょりですよ?…着替えたほうがよろしいのでは?」
挑発的な言葉を、ゴールドスミスにかけるメアリー。自身への侮辱を許さないゴールドスミスは、「逃げること」を忘れて、やはりメアリーの挑発に乗ってしまった。
「貴様…!それ以上私を侮辱すると…」
「ゴールドスミス様!お逃げ下さい!!」
衛兵の言葉もむなしく、ゴールドスミスには、自らが殺そうとした眼鏡の女性が迫った。
女性はゴールドスミスを羽交い締めにした。
そして彼を拘束したまま、会場内の出口へと向かう。ゴールドスミスが羽交い絞めにされているため、衛兵達は女性を撃つことができない。彼にも当たってしまう。
女性はゴールドスミスを″人質″にしながら、そのまま建物の外へと向かった。
「貴様…私を離せ…!」
ゴールドスミスは抵抗しようにも、彼女の力が想像以上に強く、また腕で首を締め上げられているため、苦しくてどうにもならなかった。
「…そうね。建物から出たら、あなたを解放してあげる。」
女性は、彼をとらえて離さず、建物の外へと出る。
「…はあ、はあ。こんなことをして、ただで済むと思っているのか?」
ゴールドスミスの言葉に、女性は鼻で笑って返す。
「…あなたなんて、怖くはないわ。
私は、私のやるべきことをする。
それが、″ブン屋″としての私の使命ですもの。」
女性は、建物の外壁まで到達すると、ようやくゴールドスミスを解放する。
「…じゃあね、ミスター・ゴールドスミス。
パーティを台無しにして、御免なさい。」
眼鏡の女性は、思ってもいないような言葉をゴールドスミスに言い放ち、ひどく身軽な動きで、外壁を昇って建物の敷地外へと出た。
「やつを捕らえろ!!」
ゴールドスミスの叫びも虚しく、衛兵達は完全に…女性を取り逃してしまった。
ゴールドスミスのパーティ会場から逃れて、走り続ける彼女。
衛兵達は彼女を追跡することを諦めたが、ただ一人…彼女に声をかける人物がいた。
「あの!ちょっと!ちょっと待ってください!!」
女性を追いかけて、彼女を止めたのは、他でもないメアリー・ヒルだった。
「…あら、あなたはさっきの…
… 一応、礼は言っとくわ。手助けしてくれて、ありがとう。」
至極余裕な表情たる眼鏡の女性とは対象的にメアリーは、必死に女性を追ってきたため、ぜえぜえと息を荒くさせていた。
「はあ、はあ…あなた、一体何者なんです?」
メアリーからの質問に、女性は躊躇うことなく、自らを名乗る。
「何者かって言われたら…そうね、まずは名を名乗りましょうか。私はペネロペよ。ペネロペ・サラマンカ……
街にある小さな新聞社で記者をしているの。新聞社と言っても…私一人だけ、だけどね。」
「新聞社?」
メアリーは若干、物珍しげに彼女を見つめたが、妙に納得がいった。記者だと言うのならば、ゴールドスミスにあのような追求的な質問をしていたのは、合点がいく。
「…じゃあ、ゴールドスミスへの追及も、取材活動の一環なんですか?」
「…そうよ。最近はもっぱら、この国で急速に増えてる、難民関係の事であったり、国境付近で起きてる違法行為等について、いろいろ調べてるんだけど…」
「へえ… でも、どうやって彼のパーティー会場に入れたんです?招待券が必要じゃ…」
メアリーの単純な疑問に、やはりペネロペは臆することなく、答える。
「ああ、招待券は、パーティ出席者から奪ったのよ。…衛兵達は馬鹿だから、招待券を持っているのが誰かなんて、知りはしない。だから、パーティー会場に入るのも簡単だった。」
「奪った…」
「…そうよ。そうでもしないと、ゴールドスミスに近づくことはできないからね。」
どうやったのかは知らないが、招待券を奪うという至極強引な方法をとるこの女性は、ただ者ではなさそうだ。良くも、悪くも…
「…それで、目的は果たせたんですか?」
メアリーがペネロペに尋ねた。
「…そうね。半分ぐらい、かな。
もっとゴールドスミスにいろいろ聞きたいことがあったのだけれど… 彼、逆上して私を殺そうとしてきたし。さすがに、逃げざるを得なかったわね。」
淡々と語るペネロペにメアリーは、この女性はかなり肝の強い人間であると感じた。…そもそも、一人で新聞社をやっているほどだから、並大抵の胆力ではないのだろうが…
しかし、メアリーはこの女性に、一つの可能性を見出していた。
「あ、あの…国境付近の違法行為について、取材してるんですか…?」
「…そうよ。国境付近では、難民誘拐やら違法薬物の売買やら、犯罪が蔓延してる。私はそのことについても、いろいろ調べてるの。」
「…違法薬物…それは、ガンビラの葉のことですか?」
「…そうよ。よく知ってるわね」
メアリーの問いかけに、ペネロペは驚いたような表情をする。しかし、メアリー当人は、まるで光明を得たとばかり、眼を見開いて揚々としていた。
「あ、あの…サラマンカ、さん?
私、あなたに協力できるかもしれない。」
「…協力?何、あなたも記者をしているの?」
「…いいえ。私は記者ではありません。…青の教団に所属する、薬剤調合師です。
…実は私も、調べているんです。国境地帯で蔓延している、″ガンビラ″の葉について…」
このペネロペ・サラマンカのことを、まだよくは知らないし、信用できる人物かどうかもわからない。それでもメアリーは、一つ彼女に懸けようと思っていた。…国境地帯の町で入手した″ガンビラ″のリスト… 奇怪な暗号文字で書かれたそのリストを解読できないメアリーは、八方塞がりに陥っていたからだ。
「私は…以前国境付近の町で、ある″リスト″を手に入れたんです。そのリストはいわば、違法薬物草たる″ガンビラ″の取引について、記載されたもの。」
ペネロペはやや警戒しながらも、メアリーの話を遮ることなく聞いている。
「…ですがこのリストは、解読不能な謎の暗号化された文字で記されているようです。…私では、解読が出来ませんでした。…だから…」
「だから、私に解読を協力してほしい、と?」
メアリーが話し終えるより前に、ペネロペが結論を先取りする。
「…はい。」
メアリーの率直な返答に、ペネロペはため息をついた。
「…なるほどね。でも、私とあなたは初対面よ?初めて会ったばかりの人物に、そんな″大事そうな″リストとやらを、託せる?」
ペネロペの言っていることは、最もだ。最もだが、今のメアリーには、他に選択肢がない。リストの解読を、頼むツテがどこにもない。…だから、藁にもすがる心境なのだ。
「サラマンカさん。あなたの言ってることは、その通りだと思います。
でも私は、他に頼るアテもないんです。…あなたが新聞記者で、″違法薬物″ガンビラについて調べてるのなら…私は、あなたに可能性を見出そうと…そう、思ったんです。」
我ながら実に強引な口上だと、メアリーは思ったが、語っている言葉自体は、紛れもなく事実だ。
「…そう。そこまで言うのなら、協力してもいい。ただし、私が″興味″をそそられたら、ね。…あなた、名前は?」
ペネロペに言われて初めてメアリーは、自分がまだ名を名乗っていないことに気付いた。
「あ… 私は、メアリーです。メアリー・ヒル」
「…そう、メアリー。…仕事の依頼があるなら、後日また私の事務所に来てちょうだい。」
そう言うとペネロペはメアリーに、彼女の事務所の所在地が記載された、紙を手渡す。
「…じゃあ、協力してくれるんですか?」
「だから、言ったでしょうメアリー。
私が″興味″を持ったら…ってね。とにかく、その″リスト″とやらは、後日また私の事務所に持ってきて。こんなところで仕事の依頼は受けられないから。」
「あ…はい。ありがとうございます。よろしく、お願いします」
感謝の意を述べたメアリーに、ペネロペは苦笑する。
(…だから、まだOKはしてないんだけどな。言葉違いは丁寧だけど、押しの強そうな娘ね… メアリー。″絶対″に私に協力させる気ね、これは…)
「…じゃあね、メアリー」
そう言うとペネロペは、長い黒髪を靡かせて
、颯爽と歩いていった。
ペネロペは歩きながら、突然現れたメアリーという女性について、思案していた。
(メアリー・ヒル。何者かしら?急に現れて、私に頼み事だなんて…)
そもそも、「青の教団」に所属する薬剤調合師が、なぜ国境付近という危険地帯にいたのだろう?違法薬物の取引″リスト″などという重要な代物を、なぜ彼女が持っているのか?
考えれば考えほど、彼女は怪しい。しかし怪しいからと言って、それで排除するほどペネロペは怯弱な人間でもない。
(でも、面白そうな娘ね…)
僅かばかり、彼女に興味を持っていたのも事実だった。
————
「…守護者様」
″大神院″のお膝元、アルファモリス。
首都に次ぐ″第二都市″として位置づけられるこの街には、″守護者″を擁する宮殿がある。
「…いよいよ、明日になります」
守護者の宮殿の最奥部。
そこは、″守護者の間″。
エストリア王国の「最高権威」たる″守護者″。
この守護者に直接顔合わせできるのは、大神院の最高幹部達だけだ。
「…守護者様。夕刻に、ここアルファモリスを発ち、首都アルベールへと向かいます故…どうかご準備のほどを。」
大神院の長官、″アルモウデス″が呼びかける声の先…そこは、白銀のベールで覆われている。ベールの先に見える、一人の人物。
…その人物こそが、″守護者″であった。
「…そうか。いよいよ明日、なのだな…」
″守護者″は、独り言なのか返答なのかわからないほどのか細い声で、呟く。
「…左様でございます。″守護者″様がこの世に生を授かって、明日で20年。
…全てのエストリア王国民が、守護者様を祝福致します。」
″守護者″生誕20年の、祝賀式典が、首都アルベールで執り行われる。
「…アルモウデス。父が死んでから私は…ずっと考えていたのだ…
私は、″守護者″に足る相応しい存在であるのかと… この国の″最高権威″として、相応しい存在なのかと…ずっとな…」
ベールの向こうで、そう静かに語る守護者。
アルモウデスは、諭すように守護者へと語りかける。
「…守護者様。あなたが″守護者″たり得るのは、紛れもなく…高潔なるあなたの″血″のおかげなのです。古来より脈々と受け継がれる…
″唯一無二″の血脈。
神の″化身″たる″守護者″と、その血統。
我々″大神院″が守り続けてきた…
貴方の″血筋″…
それこそが、特別なものです。
それだけで…じゅうぶんなのです。
″血″こそが、あなたが守護者様であることの証…」
「私の″血″こそが、特別…か。
アルモウデス。父上は… これまでの″守護者″達は、それで納得していたのか?
私は…それで納得″すべき″なのか?
自分が″特別な存在″であるという理由を…」
「…あなたは、神の″化身″たる守護者の血を受け継ぐ者…
それはつまり、神と同等の存在。
″神″に迷いは許されませんぞ。」
アルモウデスの言葉に、守護者は少し間を置いて…言葉を返す。
「迷っているわけではない。ただ…
私は、考えているだけだ。自分自身の存在意義を。″守護者″である自分とは、一体何者なのかを…」
「…守護者様。思考することは心を″曇らせ″、
″迷い″を生みます。
あなたは、″何も″考えるべきではない。神に余計な″思考″は不要です。
あなたはただ、″守護者″としてその存在を民に示すだけでいいのです。それだけで、民に力を与えます。
″神″が迷えば、民も迷う。
…余計なことは、何も考えなくていい。
ただそこに″居る″だけでいい…
それこそが、あなたの″価値″であり、″存在意義″です。
そしてあらゆる政(まつりごと)は、″私達″にまかせておけばいい…」
「……………」
アルモウデスにそう言われて尚、守護者は思考する。
「考えること」。それは、人が神から授かった贈り物。
あらゆる″自由″が奪われても、人の「思考」までは、誰にも奪うことは出来ない。
考えることをやめたら、それはただの″人形″でしかないからだ。
——————
ルーク・パーシヴァルは、中庭を歩いていた。
「……………」
任務が通知されるまでの間、連日エストリア城に留まっているルーク。
″司法院″から狙われている身でもある彼は、城の敷地内から出ることも、できない。
しかし、部屋の外に見える中庭は、優美で優雅。清涼な自然の色を醸す木々。色とりどりの花々が並ぶ庭は魅力的で、ルークはこのところ毎日、日中を中庭で過ごしていたのだ。
(懐かしいにおいがする…)
中庭の椅子に腰掛けながら、不思議な郷愁に駆られるルーク。
昼過ぎからこの庭で過ごしていたが、周囲はもう夕方の様相を呈して、次第に薄暗くなっていった。
「…………ん」
自分でも気づかない内にルークは、うとうとしていたようだ。完全に寝落ちする前に覚醒したが、周囲はすでに暗く、夜となっていた。
「もう、夜か…」
ルークは立ち上がり、まだ残る眠気に足元を取られながら、とぼとぼと歩き出す。
そしてふと——
だだっ広い中庭の中心部のほうから、光のようなものが見えた。
「あれは、何だろう…」
ルークは興味本位で、その光のところへと歩を進める。
闇を照らすように、煌々と輝く謎の光。
その光の正体は、花だった。
無数に置かれた花の数々から、まるで蛍のように—— ひとつひとつの光は小さいが、しかし力強い光が無数に照らされていたのだ。
「綺麗……」
ルークはその幻想的な風景に、思わず感嘆の声を漏らす…
昼間はなりを潜めていた花々が、夜になってこのような異彩を放つとは。
「……あれは?」
そしてルークは、その光照らす花々の先に、人影を見つけた。
「……誰だろう?」
ルークは特に警戒することもなく、その人影へと近付いた。
その人影の正体——
それは、シャーロット王女だった。
「王女……?」
しかし王女は、ルークの声には気付かずに、物思いに耽った様子で、周囲を照らす光の花々を眺めていたのだ。
「……ああ、ルークさん。来ていたの、ですね…」
ルークがいたことに気づいた王女は、彼の元へと振り向く。
闇夜の中、花々が照らす光に映された王女の姿は、どこか神秘的な美しさを感じさせた。
「…シャーロット王女。ここで、何を…?」
思わぬ人物の登場に、ルークは本音を漏らす。
まさか王女がここにいるとは、つゆとも思わなかったのだ。
「…時折り、夜にここへ来るんです。
この花々を見てください。
…綺麗でしょう?」
シャーロット王女とルークの周囲で、煌びやかに輝く″光″の花たち。
それは自らの存在感を誇示するわけではないが、しかしその姿を見る者に——無条件で感動を与える。
「…そう、ですね…
とても、綺麗です…… まるで…」
まるで、貴方のように。
ルークはなぜか、自然とそう言いかけた。言いかけて、あまりに不躾だと思い、言葉を押しとどめた。
「…この花は、アンテロスの花です。昼間は控えめな色ですが、夜になると、その全身から美しい光を放ち、自らの存在を誇示するのです。」
「アンテロスの花……」
ルークは、その美しい花の名称を呟く。
「…ルークさん。あなたもよく、ここに来るのですか?」
「…僕も…そうですね。この数日間、ここの美しい庭園に魅了されて…
なんだかここは、懐かしいかんじがして…」
「そう、ですか…」
ルークの言葉に、王女は少しばかり寂しそうな表情を見せた。
「でも、夜に来るのは初めてなんです。
…まさかこの花が、こんなに美しいなんて…」
ルークは、なぜだか胸が苦しくなった。
「…ルークさん。このアンテロスの花は、私の大切な思い出。
…昔、父が私にプレゼントしてくれた花なんですよ…」
「プレゼント……王女の、お父さんが…」
ルークは、胸の中に妙な″つっかえ″を感じた。
「…この美しい花が好きで…
私はエストリア城内に、この花を植えさせたのです。…いつでも、死んだ父を思い出せるように… いつでも、大切な人の″記憶″を留めていられるように…」
シャーロット王女の父君は自殺したと、以前聞かされた。
(王女は父を忘れないように、この花を植えた…?)
ルークの胸の苦しさは、痛みに変わる。
…なぜかは、わからない。
王女の感情に触れたようで、自分も感傷的になっているのだろうか…
「僕も、この花が好きです」
ルークは、自分でも驚くほど自然と、この言葉が出ていた。この花が美しいから、だけではない。
このアンテロスの花には、表現し難いような…不思議な魅力を感じた。
…胸の痛みは、おさまりはしていなかったが。
「…ルークさん…私は…」
王女がそう言いかけた時——
彼女の頬には、涙が伝わっていた。
同時に、膝から崩れ落ちていた。
僕は咄嗟に、シャーロット王女の元へ駆け寄り、崩れる彼女を抱きとめていた。
「王女…?大丈夫ですか…?」
「……ごめんなさい。いろいろなことを、思い出してしまって…」
彼女の瞳は、涙で濡れていた。
…思い出していた。
それは、死んだ彼女の父のことだろうか。
「王女……」
涙を流す王女を、僕は自然と——
抱きしめていた。
それが無礼な行為であると、わかっていた。
わかっていたけど僕は…
そうせずには、いられなかった。
「ごめんなさい……」
王女はなおも、涙を枯らすことなく、その瞳から無数の水滴をこぼしながら、僕に謝罪する。
僕は彼女を離さず、ずっと抱きしめていた。
「…大丈夫」
王女を安心させようと…彼女の耳元で、僕は優しく囁いた。
彼女の苦しみも、苦悩も全て、受け入れるつもりで…
「…大丈夫だから……」
そう言いながら僕は、王女の頭を軽く撫でる。
王女は、自らの体をルークに預ける。
密着する二人。彼女から発せられる、甘く優しい匂い…
それは、ルークにとって不思議な安心感を与えていた。
まるで頭の中を駆け巡る… 不明瞭だが、たしかにはっきりとした″色″を残す、記憶の残滓のように。
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