第17話
それからしばし時は流れ、とある貸し倉庫では──
リンは縛られた状態で床に転がされていた。
完全に油断していた。
まさか、お恵さんが敵側の人間だったとは思わなかった。
ピアスを引きちぎられた耳が痛い。
だが、それ以上に痛むのは心だ。
何度信じて、何度裏切られればいいのだろう。
もう誰も信じないと決めていたのに、また同じことを繰り返す愚かな自分をあざ笑う。
そして、赤坂恵の後ろで糸を引いていたのが──
「貴方だったんですね。栄一郎叔父様」
その相手とは、リンの父の弟にあたる人物だった。同じ血を引いているだけあって人を惹きつける容姿をしていた。ただしそれは年齢を重ねると共に歪み、どこか底の浅さを露呈していた。
「久しぶりだな。燐」
「ええ、お久しぶりです。父との当主争いに敗れた貴方が堂々と姿を見せられるなんて、もはや羞恥心が欠如してるとしか思えませんが」
リンは冷ややかに叔父を罵倒した。
栄一郎は容易く激昂した。
「貴様は、自分の立場がわかっていないようだな……ッ」
リンは後ろ手に縛られた状態で床に転がされている。しかも頼みの左耳のピアスも奪われていた。さらにいえば叔父の周囲には十数名もの男達がいた。その装備や立ち振る舞いから姫宮家の私設軍──ハウンド部隊だとしれた。
この状況の中からリンが無事に救出される可能性などほとんどないだろう。それでも──
「いえ、十分わかってますよ。負け犬の貴方が恥じも外聞も捨てて、一念発起したのでしょう。愚かですね。誰に踊らされたのか知りませんが、底の浅い人だ。──そんなだから父に負けたんですよ」
それでも、こんな卑怯者に負けたくない。例えここで殺されたとしても、絶対に負けてなどやらない。
「……ッの餓鬼がァあ!」
「ぐぅっ!」
思いっきり頬を殴られた。縛られて動けない状態だったのでまともにくらい受身もとれずに吹き飛んだ。
「人が紳士的に話してりゃァ調子にのりやがって……何様のつもりだ。ァあ!」
続けて腹を蹴られる。
「げふッ。がはァ──っ」
衝撃で胃の中のものが吐き出された。昨日から何も食べていないので、ほとんどが胃液だったのは幸いといえるだろうか。
「どうだァ? 少しは反省したか?」
「あぐ……」
髪を掴まれ、無理やり上体を起こされた。
「……反省? 冗談でしょう。それよりあまり顔を近づけないでくれますか。口が臭くて鼻がもげそうです」
口を開くと切れた唇や口内が痛んだが、それでも相手を睨みつけることはやめなかった。
「口の減らない餓鬼が……ッ。その咽喉を裂かれりゃ少しは黙ることができるか。ァあ?」
栄一郎が大振りなナイフを首に押し当てた。
「無抵抗の相手にしか威張れないなんて、哀れですね」
「……ッのおおッ!」
「……くっ」
それは偶然だった。
激昂した栄一郎が振り下ろしたナイフが、避けようと身をよじったリンのブレザーの胸元を切り裂いたのだ。
「……貴様?」
栄一郎がワイシャツの襟を掴むと力任せに引き裂いた。ボタンが弾け跳んだ。
「きゃあっ!」
身体を縮こまらせ、せめて足で隠そうとしたのだが、栄一郎がそれをさせなかった。無理やり、リンを押し倒した。目の前に欲望に歪んだ顔があった。
「く……、は、はははははははは! 貴様、女だったのか。これは傑作だ!」
哄笑を響かせながら狂ったように栄一郎はのたまった。
「じき当主といわれている貴様には、最初から家長になる権利はなかったのだな。これはこれは」
「下種が。離せ!」
にやにやと栄一郎が下卑た笑みを浮かべた。
「下種ねえ。その通りだなァ。下種な男が女をどのように扱うか教えたやろうか?」
「ヒ……ッ」
びくり、と身体が恐怖に震えた。リンが栄一郎に対して見せた初めての弱みだった。
その反応に、栄一郎が醜く笑った。
「く……」
泣きたくなった。
こんな男を喜ばす態度をとってしまった自分を罵りたかった。いくら毅然として振舞おうと、実際には恐怖で震えていることを悟らせてしまったから。
怖かった。こんな男にめちゃくちゃにされると思うと悔しくて涙がでそうだった。
それでもリンはきつく歯を食いしばった。震えそうになる身体を必死に堪えて叔父を睨みつけた。
絶対に負けない。こんな奴の前で絶対に泣いてなんかやらない。こんな卑怯者にこれ以上、弱みなど見せてやるものか。
こんなやつに弄ばれたあげくに殺されるくらいなら、自ら死を選ぶ。それぐらいの気概や潔さはもっているのだ。
舌を噛み切ろうと、リンはうつむき目を閉じた。
心の中で詫びる。未だ幼い弟に。今まで護ってくれた鳴海に。初めて友達になってくれたみんなに。
そして──、眞己に。
謝ることもできないボクを許して──
その思考を最後に舌を噛み切ろうと──
だが、
──ガッシャアアアアアアアアアアアアン──────
その思考を突き破るように、劈く音が空間を満たした。
目を開けると、そこには硝子の窓を突き破って大型の単車が宙を駆けていた。
それは踊るように地面に着地し、タイヤを滑らせてリンから十メートルほどのところで止った。地面に黒々とした跡がつき、かすかにゴムの焼ける臭いが鼻をついた。
その単車から降りたのは背の高い一人の男だった。
「う、そ……」
リンは信じられなかった。
今見ていることが、もう駄目だと思っていた。もう謝ることすらできないとそう思っていたのに。
それなのに、男は悠然とこちらに歩いてきた。一瞬の混乱から立ち直った部隊が周囲を取り囲む。それすらも眼中にないというように、堂々足取りで、一歩一歩ゆっくりと進んでいく。
「あ……ぅあ……」
なぜか涙が自然と頬を流れた。こんなやつの前では泣かないと決めたのに、そう決めたのに、あとから涙が後から後から溢れ出て止らなかった。
「貴様! 何者だ!」
男はその言葉ようやく立ち止まると、ゆっくりとヘルメットを外した。
「……み……。……さみ……ま、さみ……」
リンは我知らずに何度もそう呟いていた。恋焦がれるように何度も何度もその名を呼び続けていた。
そして彼は長い前髪をかき上げ、そのついでのように、ずれた眼鏡を親指と中指とで両端を持つようにして直した。
「悪い、リン。遅くなったな」
その声が聞けたことが嬉しくて。自分を呼んでくれたことがただ嬉しくて。もう一度会えたことが、ただただ嬉しくて、リンは気がつけばその名を叫んでいた。
「まさみいぃ──っっ!」
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