5.

 あれ、どうしたんだろう。なんだか体がふわふわする……。


 おかしいなあと思いながらも、視界が薄ぼんやりと開いていき。目の前では黒い影が、うようよと左右に揺れている。


 すると、今度は、

「紅葉、紅葉……」

と、聞き慣れない声が、何度も私の名前を紡いでいて。だけど、どこかで聞き覚えが……。ああ、そうだ。忘れもしない。だって、この声は、あの人の――。


 刹那、私は背中にばねが入っているみたいに、勢いよく上半身を起こし上げる。晴れ渡った先の景色に、何度も瞬きを繰り返した。


 夢? それとも現実?


 すっかり混乱している私の隣には、なぜか牡丹さんが。ふうと肩の荷を下ろしている。


 私が今いるのは、どうやら保健室みたいだけど。どうして牡丹さんまで、こんな所にいるんだろう。


 私がきょろきょろと首を左右に振っていると、牡丹さんは、「大丈夫?」と訊いてくれた。



「紅葉、階段から落ちたんだって。そのチケットを追いかけて」


「チケット? 階段? あっ……」



 そう言えば……。


 そうだったと、握り締めているチケットを眺め。ようやく記憶を取り戻した途端、私は恥ずかしくなる。



「良かったな、特に外傷は見られないってさ。なんか上手く受け身を取っていたみたいで、落ちたショックで気絶していただけだってさ」


「そうだったんですね。私ってば、鈍臭いな。

 でも、どうして牡丹さんがここに……」


「ああ。それが、菊がえらい剣幕で俺の所に怒鳴り込んで来てさ。『紅葉が落ちたのは、アンタの所為だ』って。紅葉がこのまま目を覚まさなかったら、俺のこと、一生恨んでやるって喚き切らして。そんでその責任として、紅葉が目を覚ますまで側にいろって言われたんだよ」


「本当に済みません。その、ご迷惑をおかけして」


「いや、そんな。別に紅葉が悪い訳でもないし。菊から聞いたんだけど、そのチケット、菊の為に守ってくれたんだろう?」


「えっ……?」


「あれ、違うのか? 菊が俺の分のチケットだけ確保し忘れたのを気遣って、紅葉が代わりを用意してくれたんだって。

 俺はてっきり、そうだと思ってたんだけど……」



 こてんと首を傾げさせる牡丹さんに、

「私があなたに来て欲しかったからなの」

と、このタイミングで赤裸々な思いを吐露する度胸など、私にある訳もなく。おとなしく、「はい」と小さな声で返した。



「でも、意外だよな。びっくりしたよ、菊があんなに感情的になるなんて」


「えっ?」


「ほら、アイツって、いつもクールぶってるだろう。怒ることはあっても黙ったまま人のことを叩くとか、そんな感じでさ。だから、あんな風に怒鳴り散らす菊は初めて見たなって。

 少しだけ見直したよ。アイツにも友達思いな所もあるんだなって。でも、その代わり、アンタなんかいなければ良かったのにって。俺の存在も強く否定されたけどな……」



 菊ちゃんとの遣り取りを思い出しているのだろう。牡丹さんは遠い目をして、ははは……と乾いた音を漏らす。


 だけど、ふいと視線を私に向けて、

「それで、チケットなんだけど……」

と、後を続けた。



「あっ、はい。あああ、あの、良かったらどうぞ……!」



「ぜひ来て下さい」と消え入りそうな声で、私はぐいと握りっ放しだったそれを差し出す。


 牡丹さんは、一瞬躊躇するも。



「そうだなあ。本当は菊が出る舞台なんて、泣いて頼まれたって絶対に観に行くもんか! って、思ってたけど……。

 そこまでしてもらったら、行かない訳にはいかないよな」



 牡丹さんはへらりと笑みを浮かばせながら、ぷるぷると手を震わせながらも私が差し出したチケットを受け取ってくれる。



「それにしても。紅葉って、本当によく落ちるよな」


「そ、そんなこと……」



「ありません」と、言い切りたいのに。ここ最近の自分を省みて、そう言えないのがもどかしい。


 だけど、目の前で楽しそうに笑っている牡丹さんを見ていたら。そんなちっぽけなことは、最早どうでも良くて。


 代わりに、私は、「そうですね」と。はにかみながらもそう返した。

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