鈴のついたブローチ
「急病人が自動車で運ばれてきましたの。うちの兄、若先生が宵っ張りだから、きっと大丈夫、と、どなたかに言われたんですって」
手伝いに房枝くんも出てみて驚いた。患者は腹痛を起こしたとある屋敷の自動車運転手で、運転をしてきたのは和久里嬢だった。緑色のツーピースの、襟に光るブローチには鈴が付いていた。
「和久里さんも驚いていました。店の前で倒れた運転手さんを勇敢にも自分の運転で送ってみれば、私の家だったんですから。
兄が患者さんの処置をして落ち着いたところで、お話しをしました。和久里さんも、マサジくんの噂を耳にしていたので、私と話す機会がないかとお考えだったそうです。
それで、まずおっしゃられたことが、今夜の件はマサジくんには当面話さないようにお願いします、ということでしたの」
和久里嬢は、ここ三年ほどはカフェーの経理をしている、と話した。
「私は承知しました。カフェー勤めと耳にすれば、実際どんなお店かなど、世間の目はそんなこと考慮してはくださいませんから秘密も仕方ないでしょう。
けれどマサジくんはお姉様の身の上を心配をしているのですから。そこは思いやってほしいと伝えましたわ。
そうしたら、そのすぐ後に、ご当人が和久里さんを見つけて、秀真さんにお手紙を書いたんですわ」
ふたりの狭間に房枝くんはいたのであった。
「何もできずに見守るって、悩ましいわね。
でも、待たなければいけない時には、待つしかないわね」
「いや、マサジくんのことなら、待ってるだけではねがったっちゃ」
「ええと。
あの件かしら。いつもお願いしてばかりで済みません」
そこまで話していくぶん落ち着いたのか、房枝くんはひとくち番茶を飲んだ。
なにか胸に抱えたものが楽になるよう話をするため、ふたりはこうして訪ね合うのだ。
「そろそろ、お暇するわ」
「んだね。もう休むべ」
「んでまず」
おやすみなさい、と、お互い挨拶をしたその時だった。
「あら」
ここから遠くない通りを自動車がクラクションを鳴らし、走り抜けた音がした。
「あら、自動車」
「なんだべ」
房枝くんは家へ戻った途端に若先生に夜食を頼まれてあきれ、鈴くんは火鉢に薬缶を乗せて、房枝くんが貸してくれた婦人雑誌に載っている刺繍の図案を眺めながら秀真くんと辻氏の帰りを待った。
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