第1話

「おはよう」




「……」




 私は口を閉じたまま、スタスタとリビングの冷蔵庫へ向かう。眠気を保ったまま、バタンと牛乳を取り出し、透明な安物のグラスをトポトポと白で満たす。もう少し寝ていたいのに、と心の中で愚痴を広めながら、ごくりごくりと喉に潤いを与え、それが終わると洗面所まで一直線。冬の水道水が私を現実へと導く。




「つッッ」




 冷たすぎる。何回起きても、この冷たさに起こされてしまう。顔を洗えば、起こしたくもない心まで一緒に、しっかりと現実に連れてくる。朝からそんなに冷たくなくていいのに。




「おはよう、愛」




「……」




 現実に呼び起こされていると、挨拶が再び飛んできた。しつこい挨拶だ。毎朝、私が起きるとお父さんは私に挨拶をしてくる。もちろん私は無言のまま通り過ぎる。どこかの銅像のような顔で無言を貫いたまま全ての支度をし、流れる滝のように牛乳でふやかしたシリアルを口に運ぶ。そして、誰かがいる空気を捉えないまま、急いで家を出て、私はいつも通り学校へと向かう。朝の支度は秒勝負で、チーターのように駆け抜けるのだ。




――――ガチャリッ




 玄関のドアを開けると、十一月の秋の乾いた空気がさらさらと漂い、茶色に変化した葉っぱが寂しい音を立てながら舞っている。私はそんな秋の通学路で、澄んだ空を見上げ、今日くらい楽しませてくれよと、願う相手もいないのに願ってしまうのだ。




「学校も楽しくないんだけどなぁ、私はえらいから今日も行くのだ」




 そうだ、私はえらいのだ。良い子ちゃんなのだ。良い子なのだ。そうやって、毎日、自分で自分を褒めなければやっていられない。




「良い子良い子」




「誰か褒めておくれ」




 そんな、もやもやを背負いながら歩く私は、高校三年生。名前は富田愛とみたあい。身長は女性の平均らへんだろうか、今年の身体測定でも伸びることはなかった。もう、これ以上は身長が伸びることはないだろう。最後の自己ベストは高一のときだった。もう少し伸びてくれても良かったのに。


 そして、高校生ラストまで階段を転げ落ちるように残りわずかの私は今、進路に悩まされ……てもいないのだ。




「はぁ~進路なんて決まっているのになぁ」




 進路には悩まされていないのに、心はもやもやなのだ。まるで、どんな記録でも競技の前から私だけ特別賞のみしか取れないと決められていた大会のように。




「道が決まっていたほうが楽……うーん……」




 納得しきれない私は、こんなにも心地よい秋晴れを無に変えていく。歩いて歩いて、気がつけば学校に着く頃はいつも曇りが濃くなっている。


 そして、今日もギリギリセーフの到着だ。下駄箱に着けば、既に皆の靴が揃っている。それらを見ると私だけ、ひとり、置いてけぼりの気持ちになり、もやもやの心の雲が広がっていく。




 めんどくさいなんて思いながら、私はチャイムが鳴る数十秒前に教室へ入ると、今日も皆は一生懸命机とにらめっこをしていた。そして、微かに感じるピリッとした硬い空気が受験前の必死さを伝え、使い古し、今にも破れそうな皆の分厚い赤い赤いブロック塀のような本が私の目に刺さる。そんなに赤く目立たせなくたっていいのに。誰だ、赤色になんてしてしまったやつは。せめて黒なら許したか、いやどうだろうか。




 そんなことを考えていたら、チャイムが鳴り始める。私は先生が来るギリギリ前に席に到着できた。朝礼が始まり、挨拶をし、今日も担任の先生は受験生への熱いエールで最後を締め、教室を去る。




「大変な時期ですが、先生は皆を応援しています。辛いのはきっと皆一緒です。志望校合格に向けて、諦めずにやりきりましょう!」




「では、朝礼終わります」




 皆一緒って、私は?先生、私の事は見えていますか?私には届かない、無意味なエールなんていりませんよ。せめて私も含めておくれ。でも無理ですよね。わかっています。除け者ですから。そうですよね。


 私は朝からげんなりだ。いや、もうとっくにげんなりしてしまっている。先生のエールで熱く燃えるどころかしぼんで垂れてゆくのだ。




「はぁ……」




 こうして、げんなりをひとつ今日も私から増加させてしまった。明日は聞かないように気を付けよう。聞けば聞くほど学校が嫌になってしまう。




 朝礼が終わると、クラスで割と仲良くしてくれている前の席の友達が挨拶をしてくれた。




「おはよ~、今日もギリ?」


「悪い?」




 挨拶してくれた彼女は、羨ましいなぁとこちらを見つめてくる。いつものことだけれど。そんなに私が羨ましいかね。どこにそんな要素があるのかね?そう思っていても、私は口には出さないけれど、聞き出したいくらいだ。




 目を細めて、羨ましい光線を送り続けられている。そろそろやめておくれよ。まあいいけどさ。そんな、私を見つめ続ける彼女の名前は前野智花まえのともか。智花とはなんだかんだ仲が良い。昼休みには一緒にごはんを今日まで食べ続けている。勉強だって一緒に図書室で取り組んだ。日常の愚痴だって、二人で沢山叫びあった。最近は、気持ちをぶつけ合うことなんて減ってしまったけれど。




「いや~もう勉強したくない!寝たい!遊びたい!……いいなぁ愛は就職決まっていて」


「なんでそんなこというのよ、大学生活の方が羨ましいわ」


「まだ受かってないよ……うぅぅ。浪人なんて嫌だ、嫌だ、嫌だぞ……」




 机に突っ伏して智花が訴えてくる。智花は超難関大学を受けるのだ。そのために毎日死に物狂いで机にしがみついているのだろう。逃げたそうな乾いた眼をしている。




「就職すればよかったのかな……うぅぅ……いや、絶対受かるんだ!よし!」




 毎日の勉強漬けで相当疲れているのだろう。弱音を吐くことが最近増えた。しかし、のんびり学校に来る私を見て勉強から逃げたくなった智花だったが、瞬時に気合を入れて復活を果たす。切り替えが相変わらず早い。




 はぁ、羨ましいのは私なんだけどな……。




 私は心の声がじわじわと溢れてきそうだが上から押し込むように蓋をする。




 これでよかったんだ。受験なんてしなくていいんだ。そうだ。




 そうだとも。

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