1-6話


「ええっ!?」

 ついに耐えきれず、驚きが口から漏れてしまう。しかし口をふさぐわけにもいかずに、決まり悪い気持ちでいると、朱心はからからと声をあげて大笑する。

「ははは、まあ信じられぬのも無理はない。しかし、余は本気だ」

 言うなり彼は、その右手を軽く後ろに回し、ひらひらと動かした。するとそれが合図だったのだろう、燕志が静かにこちらにやって来て、皇帝の手に何かの書簡を渡し、また去って行く。朱心は、渡されたそれを今度はこちらに差し出した。

「見てみよ。そなたなら理解できるだろう」

「はっ……」

 皇帝の手ずから物を受け取るなど、禁城にいるといっても滅多にない名誉だ。ともかく、渡された書簡に素早く目を通すと──そこに書かれていたのは見慣れた薬の処方だった。

「これは……『しよちゆうえつさん』の処方ですね」

「ふむ、やはりわかるか」

 静かに言う皇帝の前で、英鈴は考える。

 暑中益気散とは、字の通り、今のように夏の暑い盛りに適した薬である。弱りがちな胃腸の働きを整えて疲労を回復し、身体にこもった熱を冷ます──要するに夏バテ対策の薬だ。

(ありふれた薬だし、これなら実家の店だけじゃなくて、どこの薬店でも調合して売っていると思うけれど……)

 いぶかしく思っていると、朱心のほうから説明が入った。

「それは余が毎食前に服用している薬なのだが、どうにも困っているのだ。……苦くてな。わかるだろう?」

「苦い……」

 言葉を受けて、英鈴は再度しよほうせんを見つめた。

「そうですね。おうれんが調合されていますから……確かに、苦く感じられるかと」

 というより、黄連は草木の中でもかなり苦い部類だ。薬学においては『苦寒薬』として分類されており、薬効がある一方でとても飲みづらい。まさに「口に苦い」良薬の一つである。

「これの口当たりをよくしてほしいのだ。調合は変えずにな。つまり──」

 朱心は軽く手を広げて続ける。

「薬を茶にしてひんたちに飲ませたのと同じように、この薬を飲みやすくしてほしい」

(……!!)

 ──聞き間違いかと思った。でも、確かだ。まさか皇帝陛下から直々に、自分の夢につながる命を下されるなんて──!

(私の才能を認めてもらえるなんて!)

 鼓動が高鳴ってきたけれど、今度のこれは緊張ではなく、期待と興奮だ。しかし頭の中の冷静な部分が、落ち着くように呼び掛けてくる。そう、逆に、ここで失敗があっては一生に関わるのだから。冷静でいなくては──

「どうした、英鈴よ」

 朱心は軽く首を傾げ、問いかけてくる。

「何か質問があれば、遠慮なく申せ。ああ、そうだ、まずは経費の話だな? さすが商家の出はしっかりしている。ほら、その件は書簡の先に」

「え、あ、では、確認を……」

(わっ、すごい! 研究に必要な金子は、全部用意していただけるみたい……)

 ますます断る理由なんてなくなってくる! ──いやいや、まだ冷静でいなくては。

「あの……」

 恐る恐る声を発する。

「それでは恐れながら、一つ、お尋ねを」

「許す。申せ」

「その、なぜ、私なのでしょうか……? 陛下にはくすの方々が、大勢いらっしゃるのでは」

「その通りですぞ、陛下!」

 声をあげたのは、先ほどから部屋に控えていた文官のうちの一人だった。壮年とおぼしき彼は、おそらく前例のない皇帝の命に対して異議を唱える。

「その娘は薬店の出とはいえ、女である以上薬師ではございませぬ! 何故そのような者に、玉体を損ないかねぬご命令を……」

「それは、そなたならよく知っているだろう?」

 と、朱心は文官に穏やかにこたえる。

「余は、とんでもない甘党なのだ」

「はあ……」

 文官は、なぜか納得したように頭を抱えた。

(あ、甘党!?)

 なんだかこの場にふさわしくない言葉が出たような気がしていると、さらに朱心は語る。

「余は苦みを好まぬ。食物であれ、薬であれそうだ。これまではそれを承知のうえで、一等腕のよい薬師が余の毎食前の薬を用意してくれていたが──先日、老齢で亡くなってな」

 その瞳に悲しみを帯びた後、彼は言った。

「代替わりした薬師たちは、調合の腕は良いが余の味の好みを理解せん。薬効を得るには、薬の材料を変えるわけにはいかないと言って聞かぬのだ。そこで英鈴、そなたの話を聞いた」

 再び微笑みと共に見据えられ、英鈴は居住まいを正す。

「妃嬪たちもまた、薬の苦みを好まぬだろう。しかしそなたは、そんな彼女らが喜んで飲むような品を作ってみせた。どうかその才気で、この暑中益気散をも、飲みやすいものへと仕立ててはくれないか?」

 薬に関する願い事。だからこそ、英鈴の脳内から、恐れは完全に吹き飛んだ。

「はい!」

 英鈴はきようしゆし、はっきりと答える。

「及ばずながら、董英鈴、最善を尽くして励みます!」

「そうか」

 にっこりと、朱心は会心の笑みを浮かべた。その笑顔は純心で、晴れやかなものだった。

「それでは、吉報を待つとしよう。下がっていいぞ」

「はいっ!」

 再び深い敬意を示す礼を行った後、英鈴は部屋を退出する。

 周りにいた文官や衛兵たちの視線をちくちくと感じたけれど、それよりも胸の中には、これまで感じたことのないような熱意が渦巻いていた。

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