3-9話


「……」

(そんな、まさか)

 こんなに、あっという間に──私が、妃の一人に? 信じられない。自分の耳に聞こえた言葉を理解できているはずなのに、よくわからないなどと思ってしまうほどに。

「その、私が、貴妃で……秘薬苑は、これからは私のものだと?」

「既に燕志に確かめておいたが、空位だった貴妃の地位と、この薬草園は、管理も含めてお前のものだ。それくらいの働きを、お前は既にしている。これは褒美だと思え」

 褒美──もしこれがそうだとするなら、あまりにも過ぎたものだ。

 うれしすぎて、何もこたえられない英鈴に対し、朱心は言う。

「感謝するくらいなら、せいぜい己の才覚を見せるのだな。そもそも」

 声音はあくまでも冷淡に、えとした月光の下で朗々と、主上はさらに語った。

「大志を抱くことに、男も女も関係ない。そしてお前が有能なのは、私がよく知っている」

「──!」

 男も女も、と朱心は言った。そう、くすになる夢のことを──彼は言っているのだ。

 理解した瞬間、英鈴の顔は、なぜか一気に熱くなった。

(えっ……な、なんで?)

 病気でもないのに。理由を混乱した頭の中で探し、しばらくして、ようやく思い当たる。

 もしかして──嬉しいからだろうか。

(才能を認めてもらっただけじゃなくて……薬師の夢を笑われなかったのは、これが初めてだったから)

 どぎまぎしているこちらを置いて、朱心は言う。

「やはり、お前を昇格させたのは正しかったようだな」

「え……」

「お前の才は、宮女の位では惜しい。機会を与えるにせよ、誰かの側仕えでは時間の自由が利かないだろう」

 皇帝は小さく鼻を鳴らす。

「ゆえにお前を嬪にした。それだけのことだ」

 そう言うなり、彼は秘薬苑の出入り口へと歩を進める。

「命が惜しければせいぜい励めよ、董貴妃。私を失望させないように」

 英鈴は、慌てて最上級の敬意を示す礼をする。

「はいっ、陛下! これからも、全力で励みます!」

 こちらの返事に、わずかにいちべつをくれた朱心は、またその唇で弧を描き──

 そして、夜闇の向こうへと消えていった。

(皇帝陛下……)

 ぼんやりと、その場で立ちすくんで考えてしまう。

 先ほどの朱心の言動は、ことじりだけをとらえれば、こちらを冷酷に突き放しているようにも聞こえる。少し前までの英鈴なら、もしかしたら身勝手だと腹を立てていたかもしれない。

 しかし今の自分は、その声音に、ほのかな温かさを感じてしまうのだ。

 だって、きっと朱心は──英鈴の夢を、応援してくれたのだから。

 初めてだ。こんなに背中を押してくれる人に出会ったのは。

(……やっぱり、嬉しい)

 胸がどきどきしている。

 ──いまだ、皇帝が何を望んでいるのかのぜんぼうはわからない。

(でも……きっとあの方は、ただの冷酷な皇帝なんかじゃない)

 英鈴は、そう思った。だが、頭の中の冷静な部分はこうもつぶやく。

(もしかしたらこれも、私を思い通りに動かすための策なのかもしれないけれど)

 もしそうだったら。考えるだけで、ぎゅうっ、と胸の奥が痛くなる。

(いえ、そんなの考えるのはやめよう。憶測ばかりじゃ、何も意味がない)

 それに今は、皇帝の思惑は関係がない。

「とにかく……ついに秘薬苑に来られたんだもの。早く服用法の良案を練らなくては!」

 自分に気合を入れるために、英鈴は軽く頰をたたいた。

 そう──忙しくなってくるのは、これからだ!


 翌日。さっそく秘薬苑で研究を開始した英鈴がまず取りかかったのは、潤心涙とはちみつを混ぜ合わせることだった。

(小茶に薬を飲ませた、あの経験が役に立つ気がする)

 直感的に思ったからだ。しかし──一刻後。

「これは……駄目みたいね」

 一口試作品をめ、英鈴は独りごちた。潤心涙(の中から、極端に強い効能の草木を取り除いた実験版)と蜂蜜とを単純に混ぜただけでは、潤心涙の苦みが蜂蜜の甘さの中で、逆に極端に目立ってしまっている。これでは到底、味を誤魔化したことにはならないだろう。

 つまり、朱心の要望に応えられそうにない。

(もっと目立たないように、別のものに混ぜるのを考えてみようかな)

 といっても、何も案はないのだが。

「ふう──」

 見上げれば、もう太陽はだいぶ高い位置にある。

 ここは緑が多く、木が生い茂っているので、夏の屋外といってもかなり涼しい。

(……ちょっと、歩いてみよう)

 思い立ち、英鈴は亭子あずまやの屋根の外に出た。空気が湿っているせいで、むわっとした暑さを感じなくはないが、それでも散歩するのに支障はない。昨夜は月明りの下で色々と確かめただけなので、もしかしたら、苑の中に何か見落としているものがあったかもしれない。

 英鈴はゆっくりと、足元や空に視線を向けながら秘薬苑を歩いた。ここは、ただ歩いているだけでも楽しい。花の穏やかで上品な香り、果物の新鮮でみずみずしいほうじゆんな香り。そうした自然の優しい香りに包まれて歩くと、なんだか、自分が桃源郷にでもいるような心地になってくるからだ。──と、その時である。

「痛っ!」

 英鈴の頭に、落ちてきた何かがごつんとぶつかった。足元に転がるそれを見てみれば、青いの実である。そう、ちょうど柚子の木の前を通りかかっていたのだ。

(風か何かのせいかな。そうか……今は、柚子が採れる時期よね)

 柚子というと、黄色く熟したものが想起されがちだが、夏の時期には青い実を収穫できる。

 そしてこの時期の硬い青い実の皮は、削って乾かせば薬の原料となり、せき止めや胃腸の健康増進に効果がある。ここに植えられているのも、恐らくその薬効のためだろう。

(でも結局、実を絞って果汁を薄めて飲むのが一番美味おいしいのよね)

 拾った柚子の実を眺めながら、ぼんやりとそう思った。

(酸っぱくて、ちょっと苦い味がして……なんとなくスッキリした味わいで)

 ──ん?

(酸っぱくて、苦い?)

「そうか!」

 そうして、頭の中でゆっくりと、発想が一つの形を成していく──


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