第9話 とどかない愛憎空虚
庭園に置き去りにされたマリアは、籠を持ったままアルフレッドの元に行き、王妃エマニュエルへの取次ぎを願った。
ちょうど話相手を探していた王妃は、快くマリアをお茶の席に招待してくれた。
テーブル上には、湯気の立ったフォンダンショコラが二つある。
すぐに食べきれそうな量を見るに、あまり長くは時間を取れないようだ。
「――レイノルド様がおかしいんです」
思い詰めた様子でマリアが話し出すと、カップに口をつけた王妃がわずかに眉をひそめた。
「おかしい?」
「庭園でルクレツィア様と寄り添っていらっしゃるのを見ました。わたくしが話しかけたら迷惑そうな顔で、もうアルフレッド様の婚約者ではないのだからわきまえるように、と」
たしかにマリアはもうアルフレッドの婚約者ではない。
今はレイノルドの婚約者だ。
ジステッド公爵家で焼いたお菓子を持ってきたのもこれが初めてではないし、宮殿だって歩き慣れている。邪険に扱われる覚えがない。
「まるで、わたくしのことをお忘れになったかのようでした。何かがおかしいんです。主治医を呼んでいただけませんか?」
「なぜ?」
きょとんとした王妃にマリアが驚く番だった。
「なぜって、ご病気かもしれません」
語調を強めるが、王妃は「病気ではありませんよ」と素っ気ない。
「いずれ国王になったら側妃も必要でしょう。王族が他国の王女を迎えるのはよくあることだわ。その準備をしているのではなくて」
「レイノルド様は、ルクレツィア様を側妃にするつもりなんですか……」
だから、マリアを遠ざけて二人で過ごしていたのか。
震えるマリアに、王妃は追い打ちをかけるように言い放つ。
「いっそ王妃でもいいわね。次期国王の立場に箔がつくもの。貴方を側妃にすえれば必要なサポートはしてもらえるもの」
タスティリヤは一夫一妻制だが、王族にかぎっては側妃を持つことが許されている。跡継ぎに困らないためだ。
でも、マリアはレイノルドにかぎってそんなことはしないと信じていた。
一途に自分だけを愛してくれると思っていた。
愛する人の手で、奈落の底に突き落とされたようだ。
ショックを受けるマリアに対し、フォンダンショコラにナイフを入れる王妃は楽しそうにすら見える。
「私たちにしてみれば、ルビエ公国の公女との結婚は大賛成なんですよ。他国の王族との婚姻は国同士の結びつきを強くします。広大な国土を持つルビエ公国と縁ができれば、いざ戦争が起きた際にタスティリヤの助けになるでしょう」
それに、子どももたくさんいた方がいいわ、と王妃は続けた。
「私の代では、王子が二人いたから問題にならなかっただけなの。国王陛下には側妃が二人いたけれど、どちらも女の子しか産めなかった。もしもレイノルドが他の妃を取らず、貴方が女の子しか授からなかったら、貴方が国中から責められるのよ。それでは困るでしょう?」
王妃は情の深いまなざしで、マリアに大人になれと告げていた。
きっと彼女も苦労したのだ。
愛する夫が他の女性を愛している最中、正気を保っていられる女性がどれだけいるだろう。
王妃も何度も苦しみ、悲しみ、そして納得するしかなかった。
マリアに同じ苦しみを味わわせないためには、結婚前に王族とはそういうものだと理解させるしかない。
マリアだって、今から慣れておけという言い分は認める。
だが、引っかかっているのはそこではない。
「レイノルド様は、わたくしと恋をしてくださると約束しました。わたくしだけを愛するとおっしゃった。それを違えるような人ではありません!」
もしも相手がアルフレッドだったら側妃を何人迎えられようと耐えられた。
だって、マリアは彼をそこまで愛していなかった。妃という仕事に就くつもりで結婚を目指していたのだ。
でも、レイノルドには恋をした。
誰かを好きになるとは、すなわち心を捧げるようなものだ。
マリアの心は、死ぬまでレイノルドの一挙一動に振り回される。
彼が別の女性に恋をしたって戻らない。
その気になれば、命を絶つほど傷つけることだってできる。
(それはレイノルド様もご存じのはず)
なぜなら、彼もマリアに恋をしているのだから。
「レイノルド様は信念を曲げる方ではございません。それをご存じだからこそ、国王陛下も次期国王にとすえてくださったのではありませんか。今のレイノルド様は明らかにおかしいんです! どうかお医者様に診せて差し上げてください」
「マリアヴェーラさん、大人になりなさい。レイノルドは男なのよ。女のように恋に一途な生き物だと思わない方がいいわ。あら、ちょうどいい温度ね」
王妃が割ったケーキの中から、とろけたチョコレートソースが流れ出る。
ビターチョコを使っているらしく、びっくりするほど黒い。
(わたくしの心が泣いたら、涙はきっと真っ黒でしょうね)
「貴方も食べなさい」
「……いただきます」
暗い気持ちをぬぐえないまま、マリアもナイフとフォークを手に取る。
王妃が用意してくれたケーキは、色合いに比べてひどく甘い味がした。
王妃の部屋を一人で出たマリアは悩んでいた。
このままジステッド公爵家に帰って、レイノルドの心変わりを納得する努力をするか。
それとも、国王陛下と近しい人物に働きかけて、レイノルドの様子がおかしいことを伝えてもらうか――。
ふと窓に視線をやると、ちょうどレイノルドとルクレツィアがいる東屋が見えた。
寄り添う二人の甘い空気は、辺りの空気を輝かせる。
レイノルドはルクレツィアの髪に触れて微笑む。
これまでマリアにしてきたように。
(レイノルド様……)
マリアは、悲痛な表情で窓に手をついた。
あんなに愛し合っていたのに、今そばには別の女性がいる。
これまで囁かれた甘い言葉に嘘があったとは思えない。
だからこそ、心変わりが辛いだのだ。
(いいえ。ただの心変わりではないわ)
誠実なレイノルドのことだ。マリアに興味がなくなって他の女性に乗り換えるとしたら、きっちり関係を清算してから次に行くはず。
これは何かの作戦ではないだろうか。
たとえば、レイノルドが独自にルクレツィアを罠にはめようとしていて、マリアを巻き込まないように冷たくあしらっているとか――
(考えすぎね)
レイノルドの気持ちが自分に残していてほしいと思うから、裏があるように思えるのだ。
王妃が言うようにマリアは捨てられた。
「っ……レイノルド様……」
遠くに見える二人の姿がかすむ。
せり上がってきた涙は頬に流れ落ちて、ずるずると座り込むようにマリアはその場に泣き崩れた。
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