第7話 記憶喪失のひきがね


 ジステッド公爵家の馬車を見送ったレイノルドは、はぁと息を吐いた。


(マリアにも苦労をかけているな)


 突然やってきたルクレツィアへの対応で、結婚式の打ち合わせはほとんど進んでいない。


 式は来年の春なので、そろそろ招待状を送らなければ国外からの賓客を受け入れるのは困難だ。

 どうやってスケジュールを挽回していくかは側近と相談しなければならない。


 眉間にしわを寄せるレイノルドに、ルクレツィアはのん気に問いかける。


「レイノルド様、今日はお暇ですか?」

「これから仕事だ。結婚式の準備をしなければならない。すまないが、俺はしばらく相手をしてやれない」


 ルクレツィアは公女なだけあって自分の意見を押し通しがちだ。

 はっきり言った方が伝わるだろうと思ったが、彼女は素直に聞いてはくれなかった。


 唇をきつく閉じたと思うと、急にうつむいた。

 美しい顔に垂れた白髪のせいで、まるで幽霊のように見える。


「……マリアヴェーラさんとの結婚は楽しみですか?」

「? 当たり前だろ」


 先ほどのマリアを思い出すと、レイノルドの頬は勝手にゆるむ。


 タイトなドレスには、自分のラベルピンとおそろいのスズランが輝いていた。


 会えなくても、レイノルドとマリアはいつも共にある。

 それだけでどんな困難も乗り越えられる気がする。


「俺たちは政略上の関係じゃない。心から愛し合っている。その相手と一生を添い遂げる誓いをかわす結婚式だ。楽しみに決まってる」


「そうですか」


 ルクレツィアは腕を下ろし、すっと顔を上げた。

 その表情は今までの彼女からは考えられないほど冷酷で、レイノルドの背筋がぶるっと震える。


「私も結婚式が楽しみですわ。私とレイノルド様の」

「俺と……? あんた、何言ってるんだ?」


 困惑するレイノルドの首にルクレツィアの手がかかった。

 細められた紫の瞳があやしく光る。


「貴方はこれから私を愛すんです。オースティン」

「お任せを」


 いつの間にか背後にいたオースティンは、レイノルドの背に杖を突きつけて囁いた。


 ――忘却せよ、忘却せよ。マリアヴェーラ・ジステッドの形、声、仕草、感触、その全てからお前は解き放たれる。我が魔力が続くかぎり、あの女のことは忘却せよ――


 耳介を通って体内にすべり込んだ低音が、レイノルドの脳内で反響する。


 何重にも跳ね返る音、音、音。


 声が一つ響くたび、マリアの顔が、髪の色が、しなやかな指や、柔らかな感触が、ぱっと脳裏に現れては消えていく。


(やめろ)


 抗いたいのに、体に力が入らない。脱力した体がぐらっと傾ぐ。


「あ……」


 意識を失ったレイノルドを支えたのはオースティンだった。

 こんな時まで無表情な彼に、ルクレツィアはいつもと変わりない笑顔で話しかける。


「あの高嶺の花は、愛する人を奪われても平気でいられるかしら。楽しみね、オースティン」

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