ダイニングテーブルに置いてある本に、レシートが挟んであった。図書館から、妻が借りてきた本だ。


 ものに頓着をしない性格の妻は、持っているものが極端に少ない。しおりも、例えばレシートだとか、そのへんにあるもので代用して、本を読み終わったら捨ててしまう。


 だから、妻の読みかけの本にレシートが挟まってるからといって、別に不自然なことはない。なのにその朝、そのレシートがやたらと気になったのは、虫の知らせというやつだったのかもしれない。レシートを本から抜き取って中身を見ると、僕が知らないカフェのもので、コーヒーが一つ注文してあった。


 昨日が大きなプロジェクトの納期で、残業続きだったから、今日は平日だけどたまたま休みだ。なぜかわからないけれど、僕はどうしてもそのカフェに行かないといけない使命感にかられた。適当な服に急いで着替えると、僕は家を出た。


 そのカフェは、都心から少し離れた僕たちの家より、さらに郊外にあった。山のふもとに建てられたログハウスのような趣で、大きな窓からは自然光がたっぷり降り注いでいる。


「いらっしゃいませ」

 店員に笑顔であいさつをされて、僕はどきりとした。化粧っ気がなく、アクセサリーもなにもつけていないその店員が、妻に見えたからだ。


「当店へは初めてお越しですか?」

 そう聞かれて、僕は「はあ」とあいまいに答えた。なんでそんなことを聞くんだろう。


「当店では、メニューがごく限られております。コーヒーと紅茶、それから、日替わりのケーキとランチがご用意できますが、よろしいでしょうか。」

 なるほど。無駄や非効率が嫌いな妻の好きそうな店だ。そういえば、店内も殺風景といえるほど、物が少ない。カトラリーやコップ、砂糖の入った小さな壺。そういった必要なもの以外は、花瓶一つない。窓から見える景色は絶景だし、店内も天井が高くて明るいのに、なにか落ち着かないのは、そのせいかもしれない。


 レジのそばには、木製の黒板が立てかけられてあり、

 

今日のけーき

しふぉんけーき


今日のらんち

はんばーぐ定食


 と、チョークで書いてあった。なんで平仮名なんだろう。なんとなく気味が悪い。


「コーヒーとケーキで」と僕が注文すると、店員はにっこり笑ってからキッチンに消えた。小柄な女性で、たぶん二十代だ。僕の妻は170センチの長身でもう四十を過ぎているのに、なんで似ているなんて思ったんだろう。


 そういえば、最近、妻の顔を見ていない。仕事がフレックスの僕が起きる頃には、妻はだいたい出社してしまっているし、僕が帰宅するころには、すでに妻は眠っている。土日も仕事になることが多く、仕事がないときは、友達と会ったりして忙しい。妻は妻で、ここ最近は土日も外出してることが多かった。


 結婚して十年。すれ違っている自覚はあるけど、子どものいない中年の夫婦なんて、だいたいどこも、こんなもんじゃないんだろうか。


「コーヒーとシフォンケーキになります」

 さっきの店員が戻って来て、僕の前に注文の品をコトリと置く。


「クリームかなんか、ないんですか?」

 大きく切り分けられたシフォンケーキに、なにもついてないのに気づいて、僕は聞いた。


「ケーキそのももの味を楽しんでいただきたいので、クリームはございません」と店員は悪びれずに笑顔で答えた。


 ケーキはクリームを食べる土台だと思ってるくらい、僕はクリームが好きなので、かなり残念だ。でも、頼んでしまったものはしょうがないので、僕は仕方なくケーキをそのまま口に運んだ。


 悪くはない。もう少し甘くてもいい気がするけど、素材はいいものを使っているんだろう。コーヒーも、やや薄めだけど不味くはない。なのに、なにか気に食わない。


 そういえば、この店には音楽がかかっていない。「鳥や虫の声を楽しんでいただきたいので」とか言われそうな気がする。


 僕はこの店がちっとも好きじゃない。早いとこ出よう。そう思って、残りのケーキを口につっこんで、コーヒーで流し込む。席を立ってレジに行こうとしたとき、集団の笑い声が聞こえてきた。


 カフェの奥の部屋から、女性ばかりが八人くらい、レジに向かって歩いて来ていた。みんな判で押したようにジーンズにティーシャツを着ていて、なぜか僕は修道女の集団を思い出した。

 

「先生、今日はありがとうございました」「とても勉強になりました」「次も楽しみにしていますね」

 女性たちが口々にお礼を言う。みんな一様にニコニコしている。


「こちらこそ、来てくださってありがとうございました」

 そんな集団に対して、深々と頭を下げる長身の女性が、きっと「先生」なんだろう。その女性もジーンズにティーシャツ姿だったけど、スリムな長身で、一番スタイルがいいと思った。


 ん?


 妻に似ている。そう思ったとき、女性が顔を上げた。やっぱり妻だった。


千秋ちあき」と僕が妻の名前を呼ぶと、「けんちゃん」と妻が目を丸くした。


 妻に、奥の部屋に連れていかれて、いろいろ説明をされた。このカフェは、妻の友人が経営していて、最近手伝うようになったこと。前の仕事は三ヶ月前に辞めていたこと。今は、カフェの奥の部屋で毎週ワークショップを開いていて、それが思いのほか人気になってきたこと。


「ワークショップてなに? なに教えるの?」と僕は聞いた。

「無駄なものを捨てて、自由で楽しく暮らすコツとか」

「ミニマリストとかいうやつか」

「厳密には違うんだけど、まあ、似たようなものかな」そう答える妻の笑顔は、何かを悟ったように穏やかで、僕はにわかに不安になる。


「仕事辞めるとか、なんで相談しなかったんだよ」

「ごめんね。びっくりしたでしょ」謝っているようで、実は一ミリも悪いと思っていないことがわかる。そういえば、ずいぶん前に仕事が辛いとこぼしていた気がする。あのとき、僕は何と言ったんだっけ。


「これから、どうすんだよ」

「この仕事楽しいから、もう少し続けようかと思ってる。収入は下がっちゃったけど、貯金もあるし。ダメかな?」

「いや……」ダメだと言ったところで、きっとなにも変わらないんだろう。


 僕が今なにを言っても、会話の行きつく先は、もう決まっている気がする。


「じゃ、けんちゃん、私、午後はお掃除があるから」そう言って立ち上がろうとした妻の腕を、僕はとっさにつかんだ。なんだか、妻がどこか遠くに行ってしまいそうな気がして。


 僕も、妻に捨てられるんじゃないだろうか。そんな気持ちが胸をかすめる。いや、もしかしたら、もうすでに捨てられたんじゃないだろうか。


 腕をつかまれた妻は、少し驚いた顔をして、「どうしたの?」と言いながら、にっこりと笑った。スッキリとしたその顔は、まるで能面みたいにのっぺりとしている。


 温厚で寡黙な妻は、僕に対して怒ったり、文句を言ったりしたことがない。飾り気がなくて、合理主義な妻のことを、僕はいつしか、つまらないと感じていた。でも、出会ったころの妻は、もっと違う女だった気がする。


 ここ一年の間で、もともと少なかった妻の口数は、さらに減った。もともと少なかった妻の持ち物も、もっと少なくなり、かわりに、僕の持ち物が増えた。というより、僕が散らかすのを、いつも片付けてくれていた妻が、ある日を境に片付けなくなった。


 もしかしたら、妻は、少しずつ、僕を捨てていったのかもしれない。そして、とうとう最近、すっかり見限られたんじゃないのか。


「千秋、クロアチアに行こうよ」と僕は言った。

「え?」と妻の顔が困惑する。いいぞ、と僕は思った。どんな表情でも、能面のような笑顔よりマシだ。

「覚えてるか? 昔、千秋が図書館から借りてきた写真集を一緒に見て、こんなとこ行ってみたいね、て言ってただろ」

「そうだったっけ……」妻の眉間に少しシワがよっている。

「そこで、結婚式しよう」

「はあ?」眉間のシワがくっきりと深くなった。


 僕たちは、結婚式も指輪の交換もしていない。そんなものは、僕たちには必要ないと、あのころは思っていた。


「なあ、日程合わせて、一週間くらい仕事休みを取ろうよ。ハネムーンやろう。僕が全部予約するから。来週にでも」

「来週って……」

「来週が無理なら、来月でもいい。とにかく、予定を立てよう、な?」

「けんちゃん、突然なに言ってんの……」そう言う妻の顔には、困惑と苛立ちがみてとれる。目が少しだけ潤んでいる。昔は、よくこんな顔をしていた気がする。いや、僕の前でさめざめ泣いたことだってあったし、声をあげて笑っていたことだって、あったじゃないか。どうして忘れてたんだろう。


「なあ、クロアチアが嫌なら、ハワイだって、沖縄だって、どこでもいいんだよ。だから、考えてみてくれないか」

「意味わかんない」

「意味なんかなくても」

 僕は、妻の目を見つめた。冴えない、見慣れた顔だと思っていたけど、昔はこの顔が何よりも愛しいと思っていたことを、僕は思い出す。

「一緒に行って欲しいんだ」

 妻は、しばらく呆然と僕の顔を見つめ返していたけれど、ふっと目をそらした。

「考えとく……」

 そう妻は答えると、部屋を出て行った。


 指輪を買いに行こう。ふと、僕はそう思った。


 もし、妻が一緒に行ってくれるなら、旅先で、いらないものを買おう。本の栞だとか、ペーパーナイフだとか、なくても困らないようなものを。妻が捨てるのを躊躇するくらい高価なものを、二人で選んで買おう。妻が出て行ったほうを見ながら、僕はそう決心した。


(了)

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