第179話 お嬢様のご命令


「おはようございます、お嬢様。お目覚めのキスは、如何ですか?」


 その声に、結月は、パチッと目を覚ました。


 今、結月の目の前には、爽やかな笑顔を浮かべた執事の姿があった。


 見目麗しい容姿に、均整のとれた体躯。弧を描く口元は妙に艶めかしく、だが、見つめる瞳は、とても穏やかで優しい。


 それは、結月が将来を誓い合った、愛しいひとだった。


 だが、その愛しい人が、何故か自分のベッドの上にいて、覆いかぶさっていた。それに、先程感じた、あの唇の感触は


「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」

「わ! ちょッ」


 恥じらい、そして、悲鳴をあげれば、顔を真っ赤にした結月の口元を、レオが慌てて押さこんだ。


 いくら恋人同士とはいえ、さすがに、お嬢様の悲鳴なんて聞こえたら、使用人たちが飛んでくる!


 だが、口元を押さえつつも、あまり力は込めていなかったからか、その手は、あっさり結月に振りほどかれた。


「な、なんでレオが!?」


「なんでって、お嬢様を起こすのは執事の仕事だろ?」


「そ、そうだけど……でも、昨日まで恵美さんが」


「あぁ、もう熱は下がったから、今日からは、いつも通り働けるよ」


「え? 熱……下がったの?」


 すると、暴れていた結月が、途端に大人しくなった。


 熱が下がったと聞き、結月は、レオの頬に手を伸ばす。


 前に、触れようとした時は、あっさりその手を掴まれ、触れることを阻まれた。


 だが、今度は、その手を拒むこことなく、すんなり触れさせてくれたレオに、結月は安堵し、同時にじわりと涙をうかべた。


 目を閉じ、穏やかに結月を受けいれるレオ。その肌は、確かに、熱が引いているのがわかった。


「よかった……本当に、下がってる……っ」


 落ち着いたレオの体温は、少しひんやりしていた。すると、頬に触れた結月の手に、自分の手を重ね合わせながら、レオがまた微笑む。


「心配かけて、ゴメン」


「うんん、私の方こそ、なにも出来なくて、ごめんなさい……っ」


 体調が優れない中、ずっと執事として、過酷な業務に耐えてくれた。


 身体にムチを打ちながらも、それでも、誰にも気取られないよう平然と振るまうレオを、結月は、心配することしか出来なかった。


「もう、無理しないでね……っ」


「うん」


「絶対よ。私も一緒に戦うから」


 あなたの傍で、あなたと共に

 この地獄を、切り抜けたい。


 ただ、守られているだけじゃなく……



「……勇ましくなったな。一緒に戦うなんて」


「本気よ、私は」


「うん、でも、やっぱり心配だ」


「心配?」


「本当に行く気か?」


 不安げなレオの顔を見て、結月は、それが何を指しているのか、すぐに察した。


 レオが言っているのは、クリスマス・イブの夜。結月が、餅津木家に招かれていることについてだ。


「えぇ、一人で行くわ」


「……無理に行かなくても」


「ダメよ。婚約者の誘いよ」


「だけど……あの夜、パーティー会場で何があったか、忘れたわけじゃないだろ」


 穏やかだったレオの表情が、一変して険しい顔つきに変わった。


 レオの言いたいことは分かる。


 あの餅津木家の誕生パーティーに招かれた夜、結月は、冬弥と二人きりにされ、ジュースと偽りワインを飲まされた。


 アルコール度数の高いワインは、結月の思考をあっさり奪い、同時に抵抗する力も奪われた。


 もし、あそこでレオが助けに来てくれなかったら、自分の純血は、無惨にも奪われたあとだったかもしれない。


「一晩、冬弥アイツと過ごすのが、どういうことか」


「分かってるわ」


「だったら……!」


「大丈夫。──信じて?」


 レオの頬に触れていた手を、そのまま首に回し、結月はレオを抱き寄せた。


 クリスマス・イブの夜。結月は、冬弥と二人きりで、一夜を過ごすことになっていた。


 正式に、結月が冬弥と恋人同士になってから、約一ヶ月。それを思えば、あちら側が、その夜に何をしかけてくるか、想像できないわけではない。


 だが、結月は、レオを胸の前で抱きこむと、その後、優しくレオの頭を撫でながら、囁きかけた。


「大丈夫。今度こそ、指一本触れさせない。だから、心配しないで」


「……っ」


 まるで、不安がる子供を落ち着かせるように、穏やかな声が脳内を満たす。だが、それで、レオの不安が消えることはなく


「はぁ……無理。心配すぎて、ハゲそう」


「ハゲそう!?」


 結月の胸に顔を埋めながら、それでも、深い深いため息をついたレオ。すると、結月は、クスクスと笑いだした。


「それは大変。せっかくこんなにハンサムなのに」


「笑い事じゃないよ。俺が、どれだけ心配して」


「分かってるわ。でも、今の私は、でいなくてはならないの。それに、私だって、易々と冬弥さんの言いなりになるつもりはないの。レオにも話したでしょ。私ののこと」


「………」


 その言葉に、レオは目を細めた。


 結月の失われていた記憶の中には、が、一つだけあった。


 そして、それを、先日、結月が教えてくれた。


「だから、は、大人しく屋敷で待ってて。これは、よ」


「·······っ」


 そして、ご丁寧に『執事』と強調され『命令』されてしまえば、レオは途端に弱くなる。


 なにより、結月がここまで言うのだ。

 信じてやりたい気持ちも、少なからずあった。


「……分かった」


 その後、レオは渋々、おのれを納得させると、そのまま結月の肌に口付けた。


 柔らかな胸にキスを落とし、舌を這わせれば、その感触に、結月が慌ててレオを静止する。


「ひゃ、あっ……レオ、なにやってるの!?」


 だが、静止の声など聞かず、レオは結月の肌に小さな刺激を与えた。


 強く吸い付くようなその感覚は、結月にも覚えがあった。それは前にも、経験した感覚だったから。


「ん……っ」


 すると、それからしばらくして、レオが離れたかと思えば、結月の白い胸元には、花びらのような跡が赤く残っていた。


「どうしても行くっていうなら、俺の印を、たっぷりつけておかないとね」


「え? それは、ちょっと……っ」


「どうして? 指一本触れさせないなら、見られることもないだろ」


「そ、そうだけど──て、まだ先の話でしょ! それに、ここは屋敷の中なのよ? 執事なら、もう少し執事らしく」


「でも、そんな執事を、わざわざ抱き寄せたのは、お嬢様の方では?」


「っ……だってそれは、レオが、不安そうにしてたから」


「不安だよ。結月のことを思えば、こんなにも苦しくなる」


「ひゃ……ッ」


 すると、レオはまた結月の胸に、二つ目の跡を残し始めた。


 誰にも、奪われたくない。

 誰にも、触れさせたくない。


 そう思えば思うほど、行かせたくないという思いが強くなる。


 だけど、行かないわけにはいかないということも、レオにはよく分かっていた。


 アイツらを欺くためにも、結月は、これまで通り、従順なお嬢様でいなくてはならない。


 そう、この屋敷を出ていく、その日までは──


「結月……っ」


 だが、わかってはいても、不安は少しずつ大きくなった。そして、その不安げな声を聞いて、結月は、またレオを抱きしめた。


 一歩、餅津木家の中にはいってしまえば、もうレオの目は届かない。


 なにがあっても、今度は助けてもらえない。


 結月とて、不安がないわけではなかった。

 敵地に、たった一人で乗り込むのだ。


 それも、自分との間に、子供を作りたがっている男の元に──


「レオ、大丈夫よ。私は、あなただけのもの。それだけは、永遠に変わらないわ」



 冬の寒さは、次第に厳しくなる。


 そんな中、二人は肌を寄せ、心を寄せ合う。


 どうか、この愛しい人が




 これ以上




 不安に、押しつぶされてしまわないように──…


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る