母さん、僕はこんな風に生まれ変わりたくなかった

解場繭砥

1 僕は恋する女の子だが女の子になりたいわけじゃない

 父親と母親が大恋愛した末に自分が生まれたらしい。そんな話を田村幸視ゆきみは子供の頃から散々聞かされていたし、今さら確認し直すようなことでもないのだけど、ただ幸視が中学に上がって好きな女の子ができるという事件が起こった。

 そうこれは事件である。つまりは初恋というわけだ。この世にあるらしい、父親も母親も経験した恋というものがどういうものか、ようやく中学一年生の幸視にも理解できたのだから。


 そして幸視はその、宮前絵梨の家の前まで実際に行ってしまった。表札を確認した。やったのはそれだけだった。そんなことをしてどうなるものでもないけど、ただやってみたのだ。

 宮前、と書かれた表札は、文字のところが凹んで、その彫りがまた妙に深くて、そんな細かいことを幸視は観察してしまい、そそくさとその場を離れて、そこがどんな家だったのか思い出そうとしたら、全然頭の中で再現できなかった。

 だけど絵梨の顔は普通に思い出せて、思うと幸視の胸がきゅうっとなって、それで。


 転んだ。


 転んだ瞬間のことは全く幸視の記憶になかった。覚えていないからこそ注意力散漫だったといえる。大変に論理的な話だ。

 ただ、後で幸視が聞いたところによると、ずいぶん高いところから転げ落ちたと思われる状況で気を失っていた。幸視は一応CTで脳の輪切りを撮ってもらった。全くもって問題なし。ただとても長い夢を見ていた。


 女の子の夢だった。絵梨ではない。そう幸視にはわかった。一瞬姿が見えたけど明らかに違った。見えたのは一瞬だけで、でも確かにそこに女の子はいた。

 昔、父親が幸視に「〝我思う故に我あり〟どういう意味かわかるか?」と訊いてきたことがある。気まぐれに問答を仕掛けて息子を煙に巻いてからかうつもりだったようで、その時の話の内容を何一つ幸視は覚えていない。

 でもその言葉は、幸視の頭の片隅に棲み着いたらしく、時々脳に浮上しては考え込むこともあったが、だいたいは気まぐれだった。その気まぐれが夢から醒めた時にやってきて、これはその逆なんじゃないか? と考えた。

 この世で最も確かな存在が〝思う故に〟〝自分〟だとしたら、じゃあ〝ある〟ことが間違いないものであるとしたら、その〝ある〟ものの正体は、自分なんじゃないか。


 別に幸視は女の子になりたいと思ったことはなく、これからもそうなる予感も持っていない。女の子になりたい男の子や、そういういろんな人たちを差別しないよう、父親も学校もきちんと教育してきて、それに幸視ももちろん賛成していたが、幸視自身は女の子になりたいと思ったことはなかった。


 女の子になりたいというのと、ある女の子に関してそれは自分だ、と思うのは全く違う感覚だ。という考えを幸視はたった今持った。なにしろ体験をしたからだ。それが他人にわかって貰えるか考え方かどうか、はなはだ心許なかったが、ともかく幸視は、自分だ、と思ったのだ。


 ずっと誰かを見ている。夢の中ではそんな感覚があった。その誰か、というのは、好きな人、だろうか? つまりはこの子は恋をしているというわけだ。そんな共通点がこんな夢を幸視に見せたのかもわからない。


 とても長い夢だったのに、目が覚めたら知らない天井……みたいなロマンチックなことはなく、転げ落ちたその場所だった。天井ではなく青空があった。一瞬だったのか何時間も気を失っていたのかもわからなかったけど、夢はもっともっと長いように幸視には思えた。それこそ、全然違う人生を生きたみたいに。


 目は覚めてもしばらく全く動くことはできず、誰かわからない親切な人がいて病院に運ばれ、軽傷でも病院沙汰ではあったので父親に電話が行き、CTを撮ったりしている間に早引けしてきて、幸視をしっかりと抱きしめた後に叱った。

 この一連の流れはたぶん、父親としてごく普通に、愛情のある家庭というやつなんだと幸視は理解した。よもやこの時の幸視は、この時からだんだんに、人生が少し普通ではなくなっていくことなんて夢にも思っていなかった。

 CTの検査に異常はなく、入院することもなく、その場で父親と共に解放された。入院したら、友達は果たしてお見舞いに来てくれるのかな、と少しだけ幸視は思ったが、もちろんその場合でも、絵梨が来てくれるわけでは全くなかった。

 絵梨は、クラスメイトではあっても、まだ友達と言えるレベルではないのだ。


 幸視はその晩また夢を見た。

 また夢には同じ女の子が出てきた。女の子は後ろを振り返り、ちょっと足早になった。ずいぶんと足の早い女の子なのか、そんなに急いでどこに行くのかと思って、角を曲がったらそこにいたのは男の子だった。


 男の子は笑ったような凜々しいような、特に喜怒哀楽も読み取れない顔を見せ、でも女の子のほうは笑顔になって、ああ、やっぱりこの女の子はこの男の子が好きなんだ、そうわかった。

 でも、幸視がこの女の子自身だとしたら、この男の子はどういう扱いになるのか。

 幸視が好きなのは女の子だ。もしこの世に絵梨がいなかったとしてもやっぱり別の女の子を好きになると思われた。


 幸視は夢を見ながら、これは映画なんだと思うことにした。

 主人公が女性で、観客が男でも主人公に感情移入することはできる。そう考えれば、その映画に男の子が出現してもなんの不思議もない。


 恋がもたらす、胸が少しきゅんとする感覚を、幸視は観客として全く同化して感じ取ることができた。

 そうこれは、切ないけれど、とても素敵な夢だ。ちょっと恥ずかしい言葉を使えば、甘酸っぱい、というやつかもしれなかった。

 たぶん女の子は思いを伝えていない。そこは妙に確信があった。たぶん、男の子も女の子のことが好きで、そして男の子も思いを伝えていないのではなかろうか。恋物語はこれから始まる。幸視はとても素敵な物語の幕開けに立ち会ったのだ。


 そう、舞台の幕が上がると、あたり一面がきらびやかな舞台照明に包まれて――。

 その時、男の子がふっと振り向いて、幸視のほうを見た。


 次の瞬間、開いたのは幕ではなくて、幸視のまぶたとわかった。そして男の子の顔の代わりに目の前には父親の顔があった。


「どうした?」

「え?」

「うなされていたようだけど」

「ええ?」

 それは凄く心外だ。これはとても素敵な夢だったのだから。

「今日も病院行くか? 頭痛くないか?」

「大丈夫だよ。ちゃんと学校行くから」


 幸視はきちんと起きて一度伸びをして、それでダイニングに駆けていった。

 ずっと父親と二人で座ったことしかないダイニングに椅子は三つあった。


 それは幸視の母親が、幸視の命と引き換えに亡くならなければ、今も三人で囲んでいたはずの食卓だった。

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