第4話『氷織が作る夕ご飯』
8月6日、金曜日。
今日は正午から午後6時までバイトがあり、その後は氷織の家に行ってお泊まりする予定だ。
数日前のお家デートで、氷織の家で開催されたお泊まり女子会が話題になった。そのことから「お泊まりしたいね」という話になり、氷織の家でお泊まりをすることが決まったのだ。
氷織の家でのお泊まりは1ヶ月前の七夕祭り以来のこと。
ただ、前回は七夕祭りに行ったのもあり、夕ご飯は氷織達と一緒にお祭り会場の屋台で済ませていた。
しかし、今回は氷織が夕ご飯を作ってくれるのだ。しかも、俺の希望を聞いてくれ、メニューは俺の好物の一つのカレーである。また、お肉はどうするか訊かれたので、牛肉にしてもらった。
氷織の家でお泊まりして、しかも氷織が俺の大好きな夕ご飯を作ってくれる。それが楽しみすぎて。想像しただけで幸せになって。だからか、
「今日は一段といい笑顔をしているね、紙透君」
バイトの休憩のとき、同じ時間でシフトに入っていた
今日のバイトは、これまでで一番といっていいほどに早く過ぎていった。
午後6時過ぎ。
シフト通りにバイトが終わり、俺はお泊まり用の荷物を取りに一旦自宅に帰った。
氷織にバイトが終わったことと、これから家に行くことをメッセージで伝える。するとすぐに、
『バイトお疲れ様でした! 待っていますね。ビーフカレーできていますよ!』
という返信が届いた。それだけで、今日のバイトの疲れが少し取れたような気がする。
俺は自転車で氷織の家に向かい始める。
6時間バイトをした後だけど、ペダルが結構軽い。夏真っ盛りだけど、日もかなり傾いている時間帯だから、自転車に乗って切る風がちょっと涼しくて。それがとても気持ち良く感じられた。
10分ほどで氷織の家に到着し、敷地内に自転車を停める。
お泊まりの荷物が入っているボストンバッグを持って、ワクワクとした気持ちでインターホンを押した。
――ピンポー。
『はいっ。あっ、明斗さん!』
インターホンの音が鳴り終わる前に氷織が出てくれたな。さっき、これから行くとメッセージを送ったし、俺がインターホンを鳴らすのをモニターの前で待っていたのかもしれない。そう思うと微笑ましい気持ちになる。
「明斗です」
『お待ちしていました。すぐに行きますね!』
弾んだ声で氷織が応答すると、モニターのスイッチが切れる音が聞こえた。
それから程なくして、家の中から足音が聞こえ、
「明斗さん、いらっしゃい!」
膝が隠れるくらいの丈のスカートに、ノースリーブの襟付きブラウス姿の氷織が出迎えてくれた。嬉しそうな笑顔も相まって凄く可愛い。
また、夕ご飯がカレーなのもあり、家の中からカレーの美味しそうな匂いが香ってくる。食欲をそそられるなぁ。
「こんばんは、氷織。今日の服もよく似合っているね、可愛いよ」
「ありがとうございます。明斗さんもワイシャツ姿が似合っていて素敵です」
「ありがとう」
「ふふっ。……こんばんはのキスと、今日のバイトを頑張ったことの私からのささやかなバイト代です」
氷織は俺をそっと抱きしめてキスしてきた。
自転車を漕いで体が熱くなっているけど、氷織の体から感じる温もりは心地良くて。特に唇から感じる温もりは。氷織の唇の柔らかさと甘い匂いもしっかりと感じられるから気持ちも癒やされて。
何秒かして、氷織から唇を離す。頬を中心に赤らんだ顔に、氷織らしい柔らかな笑みが浮かんでいる。滅茶苦茶可愛い。
「ささやかどころじゃないよ。凄くいいバイト代だ。ありがとう」
「いえいえ。……ところで、明斗さん」
氷織は俺の目を見つめて、
「ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも……わ、私にしますか?」
普段よりも甘い声で俺にそう言ってきた。
以前のお泊まりで、氷織が寝言で今の問いかけをしていた。それでも、実際に問いかけられるのは初めてなのでグッとくる。ちなみに、夢の中での俺は「お風呂で氷織とイチャイチャする」というハイブリッドな答えを言っていた。
「お姉ちゃん言ったよっ。定番の問いかけ言ったよっ」
「言ったわねっ。お母さんも若い頃、お父さんが泊まりに来たときに訊いたわぁ」
リビングから、妹の
また、2人の声が聞こえたのか、氷織の顔の赤みが強くなっている。
ご飯もお風呂も氷織も魅力的だ。俺の答えは――。
「まずはご飯だな。その後、氷織と一緒にお風呂に入りたい」
そう言い、俺は氷織に顔を近づけて、
「夜は氷織と……いっぱいしたい」
と、氷織に耳打ちした。さすがに、氷織と肌を重ねたいことは七海ちゃんと陽子さんに聞かれると恥ずかしいからな。
「はいっ、分かりました」
氷織はニッコリと可愛らしい笑顔で俺にそう言ってくれた。どうやら、今の俺の返事に満足したようだ。良かった。
「さあ、明斗さん。上がってください」
「お邪魔します」
俺は氷織の家の中に入る。
さっき、リビングから顔を出していたから、リビングにいる七海ちゃんと陽子さんにさっそく挨拶するか。それを氷織に伝えて、俺達はリビングへ向かう。
リビングに行くと七海ちゃんと陽子さんがニコニコして待っていた。可愛らしい妹さんとお母さんである。
「こんばんは、七海ちゃん、陽子さん。今夜はお世話になります」
「こんばんは! 紙透さんがまた泊まりに来てくれて嬉しいです!」
「ゆっくりしていってね、紙透君」
「はい」
「明斗さん。最初はご飯にすると言っていましたが、すぐに食べますか? それとも、お父さんが帰ってくるまで待ちますか? 定時に仕事が終われば、あと20分ほどで帰ってきますが」
「遅くなるっていう連絡はないから、きっと残業なしで帰ってくると思うわ」
「そうですか。20分くらいなら待っても大丈夫です」
それに、青山家のみなさん全員と一緒に食事をしたいから。
「分かりました。では、お父さんが帰ってくるまで、私の部屋でゆっくりしていてください」
「分かった」
その後、俺は氷織と一緒に氷織の部屋へ行く。
氷織のお父さん・
また、俺が『お大事に』とメッセージを送ったことを、火村さんは嬉しそうにしていたとのこと。あのメッセージが、火村さんの体調を少しでも良くなることに繋がっていたら嬉しい。
氷織の言う通り、俺が家に来てから20分ほどで亮さんが帰宅された。
氷織と七海ちゃんと一緒に1階に降り、リビングに行くと、スラックスに半袖のポロシャツ姿の亮さんがいた。亮さんと会うのはこれが初めてじゃないけど、恋人の父親なのでちょっと緊張する。
「こんばんは、亮さん。今夜はお世話になります」
「こんばんは、紙透君。ゆっくりしていきなさい。氷織もとても楽しみにしていたからね」
「はい。ありがとうございます」
柔和な笑顔で「ゆっくりしていきなさい」と言ってくださって安心した。あと、ちゃんと挨拶ができて良かったよ。
その後、キッチンに行き、氷織と七海ちゃんと陽子さんが夕ご飯の配膳をしてくれる。俺も何か手伝うと申し出たけど、氷織に、
「ありがとうございます。ただ、お客さんでもありますから、ゆっくりしていてください」
と言われた。なので、お言葉に甘えさせてもらい、氷織が指定する椅子に座ってゆっくりすることにした。
氷織によって、俺の目の前にビーフカレーと生野菜のサラダが置かれる。どちらもとても美味しそうだ。また、七海ちゃんが飲み物の麦茶を置いてくれて。至れり尽くせりって感じだ。有り難い。
配膳が全て終わって、5人全員が食卓の椅子に座る。ちなみに、俺の右隣には氷織。食卓を挟んだ向かい側に亮さんと陽子さん。また、俺の左斜め前には七海ちゃんが座っている。この席順はゴールデンウィークに初めて氷織の家に行き、お昼ご飯を食べたときと同じだ。なので、ちょっと懐かしい気持ちを抱く。
「では、食べましょうか。いただきますっ」
『いただきます』
氷織の号令で、青山家のみなさんとの夕食の時間が始まった。
まず食べるのは……もちろん、ビーフカレーだ。俺の好物の一つだし、氷織は料理がとても上手だから期待大だ。また、作った本人の氷織は食事には手を付けず、俺のことをじっと見ている。俺がどんな感想を持つのか気になるのだろう。
「ビーフカレー、さっそくいただくよ」
「はいっ」
スプーンで、ご飯と牛肉込みでルーを掬い、口の中に入れる。
口の中にスパイスのピリ辛さが伝わっていって。その後に牛肉や玉ねぎ、人参、じゃがいもといったルーに入っている具材の旨みが広がる。咀嚼すると、牛肉とご飯の優しい甘味が感じられて。
「凄く美味しいカレーだよ、氷織」
「良かったですっ!」
そう言うと、氷織はニッコリと嬉しそうに笑う。その笑顔を見ていると、口の中に残っているカレーの旨みが深くなっていくのが分かった。
今度は野菜も含めてビーフカレーを食べる。
「……本当に美味しいよ。ピリ辛だけど、お肉や野菜の旨みも感じられて。今までで一番美味しいカレーだよ」
「そう言ってもらえて嬉しいです。カレーは明斗さんの大好きな料理だと伺いましたし。では、私も」
氷織は自分のカレーを一口食べる。美味しいと思えるのか、氷織は「うんっ」と笑顔で頷いている。可愛い。
「カレーはお姉ちゃんの得意料理の一人ですからね。さすがはお姉ちゃんだよ」
「七海の言う通りだな。今回も氷織の作るカレーが美味しいよ」
「そうね、あなた。ただ、今回はいつも以上に美味しいわ。紙透君も一緒に食べているからかしら」
「明斗さんのご希望ですから、いつも以上に気合いを入れて作りました。それがルーに溶け込んだのかもしれませんね」
氷織は持ち前の穏やかな笑顔でそう言った。
いつも以上に気合いを入れて作った……か。それを知ってカレーを食べると、さっきよりも美味しく感じられた。俺に美味しく食べてほしいという優しくて温かい気持ちが、このカレーをこんなにも美味しくさせているのだろう。
付け合わせの生野菜サラダは、食卓にある数種類のドレッシングの中から好きなものをかけて食べるスタイルとのこと。俺は和風ドレッシングをかけて食べることに。酢醤油ベースのさっぱりとした味わいがとてもいいな。
「明斗さん。カレーを一口食べさせてあげますよ」
「い、いいのか?」
「はいっ」
「じゃあ……お願いしようかな」
氷織のご家族の前だからちょっと緊張しそうだけど。
氷織はスプーンでカレーを一口分掬い、俺の口元まで持っていく。
「明斗さん。あ~ん」
「あーん」
俺は氷織にカレーを一口食べさせてもらう。
その瞬間、陽子さんと七海ちゃんが「きゃあっ」と黄色い声を上げる。亮さんは微笑みながら自分のカレーを食べている。
恥ずかしさが少しあるけど、氷織から食べさせてもらうカレーは自分で食べるカレー以上に美味しい。最高である。
「美味しいですか?」
「すっごく美味しいよ。ありがとう、氷織」
「いえいえ」
「じゃあ、俺も氷織に一口食べさせてあげるよ」
「ありがとうございますっ」
氷織、とても嬉しそうだ。
俺はスプーンで一口分のカレーを掬い、氷織の口元までもっていく。
「氷織、あーん」
「あ~ん」
氷織にカレーを食べさせる。
氷織はとてもいい笑顔でモグモグと食べている。俺が食べさせたのもあって、小さな子供のような可愛らしさを感じて。とても守りたい、この笑顔。
「とても美味しいです、明斗さん」
「そうか。……良かった」
自分が作ったわけじゃないのに、美味しいって言ってもらえると嬉しくなる。
「私もお姉ちゃんと一口交換したくなったなぁ」
「お母さんも氷織と紙透君に倣って、お父さんと一口交換したくなったわ」
「付き合っている頃はよくやっていたな、母さん。久しぶりにしてみるか」
「ええ、しましょう!」
「七海も一口交換しましょうか。このスプーン、明斗さんが口をつけていますが大丈夫ですか? 嫌なら七海のスプーンでしますが」
「紙透さんなら全然OKだよ!」
持ち前の明るい笑顔でそう言う七海ちゃん。この様子からして、俺に気を遣ったわけではなく本心で言ったのだと分かる。俺は男だし、嫌だと言われてもいいと思っていたけど。ここまで素直にOKだと言ってくれると、ちょっと嬉しい気持ちになるな。
その後、氷織と七海ちゃんが、陽子さんと亮さんがそれぞれカレーを一口交換する。女性3人は特に楽しそうで。それぞれ姉妹と夫婦といった関係性なので、見ていると微笑ましい気分になる。
それからも、先週のお泊まり女子会や、陽子さんと亮さんが付き合っている頃のお泊まりエピソードで話が盛り上がり、とても楽しい夕食の時間になった。
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