第15話『匂いを嗅ぎ合った。』

「これで背中の方も大丈夫ですね」

「ありがとう、氷織」


 氷織による汗拭きが終わったので、俺は新しいインナーシャツと寝間着の上着を着る。氷織のおかげでスッキリしたな。健康なときと変わらない感じだ。


「では、さっきまで着ていたインナーシャツと、汗を拭くのに使ったバスタオルを持っていきますね。洗面所でいいですか?」

「うん。場所は分かる?」

「玄関から見えるところにありますよね。引き戸が開いていて、家に上がるときに洗面台が見えたことが何度かありましたから」

「そうなんだ。じゃあ、大丈夫そうだな。水色の洗濯カゴがあるから、そこに入れておいてくれるかな」

「分かりました。行ってきますね」


 氷織はインナーシャツとバスタオルを持って俺の部屋を出て行った。


「いやぁ、いいものを見せてもらったッス。今後の作品作りの参考になったッス」

「凄いわね、沙綾。あたしはただただドキドキしてた」


 そう言う火村さんは頬が赤らんでいて。今もまだドキドキしていそうだ。

 あと、氷織に汗を拭いてもらう姿を見て作品作りの参考になったとは。さすがは葉月さん。いつか、今のことで書けた話を読んでみたい。


「……ちょっと俺、お手洗いに行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

「行ってくるッスよ」


 俺は自分の部屋を出て、同じ2階にあるお手洗いへ行く。

 立って用を足している間も、体がだるく感じたり、頭がクラッとしたりすることはない。数時間で体調がここまで回復して良かった。これなら、明日から学校に行くことはできるだろう。

 お手洗いを済ませて自分の部屋に戻ると……そこに氷織の姿はなかった。


「あれ? 氷織はまだ戻ってきてない?」

「ええ。戻ってきていないわ」

「迷っているッスかねぇ」

「うちは迷うほどの広さじゃないんだけどなぁ。氷織も洗面所の場所が分かっている感じだったし。ちょっと見てくるよ。2人はゆっくりしてて」

「了解ッス」

「いってらっしゃーい」


 俺は再び部屋を後にして、洗面所のある1階へ向かう。

 母さんとリビングで話でもしているのだろうか。俺の今の体調を伝える流れとかで。……でも、2人の話し声は聞こえてこない。氷織、どこにいるんだろう? まさか、本当に迷っているのか?


「とりあえず、洗面所に行ってみるか……」


 洗面所の前まで行くと、洗面所の引き戸が少し開いていた。中からは「はぁっ……」と氷織の甘い声が聞こえてくる。いったいどうしたんだろう?

 洗面所の引き戸をそっと開けると、


「明斗さんっ……」


 氷織がさっきまで俺が着ていたインナーシャツの匂いを嗅ぎながら、俺の名前を呟いていた。洗面台の鏡に映っている氷織は、体を拭いてくれたときのようにうっとりとしていて。


「えっと……氷織?」

「ひゃいっ!」


 いつにない甲高い声を上げると、氷織は体をビクつかせ、目を見開かせる。鏡越しで目が合うと、氷織の顔が見る見るうちに赤くなっていく。

 氷織はインナーシャツとバスタオルを水色の洗濯カゴに入れ、俺の方に振り返る。そのことで、今度は直接俺と目を合わせる形に。


「えっと、これはその……何と言えばいいのでしょうか。あ、明斗さんの明斗さんが明斗さんでして……」

「氷織。とりあえず落ち着こうか。一度、俺と一緒に深呼吸しよう。さんはい」


 すうっ……はあっ……と、俺は氷織と一緒に深呼吸する。そのことで、氷織の顔の赤みが多少は薄れたように見える。あと、俺も今朝は呼吸が苦しかったけど、今は普段と変わりなくできているな。


「少しは落ち着いたかな」

「……まだまだ色々な意味でドキドキしていますが、さっきに比べれば」

「そうか。そのくらい話せていたら大丈夫そうだな。じゃあ、さっそく本題に入るけど……なかなか凄い光景を見てしまった気がするんだ。俺の見間違いじゃなければ……俺のシャツを嗅いでいたよね?」

「あうっ」


 可愛らしい声を漏らす氷織。再び顔の赤みが強くなっている。さっそく本題に入ったのはまずかったか?


「……そ、そうです。明斗さんの体を拭いているときから、明斗さんの汗の匂いがいいなって思っていて。もちろん、そう思う男の方は明斗さんだけですよ! それで……タオルとインナーシャツをここに持ってきたとき、こっそりと嗅いでいたんです」

「なるほどね……」


 思い返せば、俺の汗を拭いてくれているとき、氷織はうっとりとした様子だった。あれは俺の汗の匂いがいいと思っていたからだったんだ。


「氷織が出た後、火村さんと葉月さんと少し話して、俺はお手洗いに行ったんだ。それでも氷織が戻ってこないから、氷織を探しに来たんだよ」

「そうだったんですか。少し嗅いだら部屋に戻ろうと思っていたのですが。匂いを嗅ぐと明斗さんを感じられて。それが嬉しくて。そのせいで時間を忘れてしまったんでしょうね。でも、明斗さんに見つかってしまうなんて。……嫌いになってしまいましたか?」

「ううん、全く」

「えっ?」


 氷織は涙を浮かばせた目で俺のことを見つめてくる。


「ほ、本当ですか?」

「本当だよ。まあ、シャツを嗅いでいるところを見たときは驚いたけどね。それに、自分の匂いが氷織にいいなって思ってもらえるのは嬉しいよ」


 そう言って、俺は右手を氷織の頭に乗せて優しく撫でる。そのことで不安な気持ちが晴れたのか、氷織の顔にはいつもの可愛い笑みが戻る。


「良かったです。明斗さんに嫌われなくて」

「こんなことで氷織を嫌ったりしないよ」


 シャツの匂いを嗅いでいる姿は衝撃的だったけど、かなり可愛かったし。それに、俺の匂いを好きだと思ってくれたことに、正直ほっとしている。


「じゃあ、俺の部屋へ戻ろうか」

「……その前に、私の汗の匂いも嗅いでくれますか?」

「へっ?」


 予想外のことを言われたので、間の抜けた声を出してしまった。


「晴れている中、学校からここまで歩いてきました。ですから、ちょっと汗を掻きました。明斗さんの体を拭いているときもドキドキして、体が熱くなって……少し汗ばんでます。私が明斗さんの汗の匂いを堪能したんですから、明斗さんにも嗅いでほしいです。公平さを保つためにも」


 真剣な様子で氷織は俺にそう懇願してくる。内容が内容なだけに、真剣な顔が赤らんでいるけど。

 女の子の汗の匂いを嗅ぐなんて犯罪の臭いがすることだけど、恋人が頼んでいるんだ。もし、誰かに見つかっても大丈夫だろう。……大丈夫だよね?


「分かった」


 俺は氷織の両肩に手を乗せて、氷織の首筋の匂いを嗅ぐ。

 本人は少し汗ばんでいると言っているけど、いつも感じる氷織の甘い匂いとあまり変わらない。きっと、これが氷織の汗の匂いなのだろう。

 首筋から顔を離して、氷織の顔を見つめる。


「いい匂いだよ。俺の好きな匂いだ」


 氷織の目を見ながら、俺は氷織に正直な感想を言った。お互いの匂いが好きだと思えるってことは、俺達の相性は本当にいいのかもしれない。

 すると、氷織は胸を撫で下ろし、安堵の笑顔を俺に向けてくれる。


「そう言ってもらえて良かったです。ありがとうございます」


 そう言うと、氷織は俺を抱きしめてキスしてくる。今日は学校を休んで、ついさっきまで氷織と会えなかったから、いつも以上に唇が重なる感覚が愛おしく思える。

 数秒ほど唇を重ねると、氷織の方から唇を離し、俺の胸に顔を埋めてきた。


「寝間着が同じだからでしょうか。明斗さんの匂いがほんのりと感じられます。汗だけじゃなくて、明斗さんそのものの匂いも好きですよ」

「それは良かった。……氷織の髪から香るシャンプーの匂いも好きだよ」

「……良かったです」


 俺の胸から顔をゆっくりと離すと、氷織は俺を見上げながら笑顔を見せてくれる。今のやり取りもあって、笑顔がいつも以上に可愛く思えて。今度は俺からキスしたのであった。

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