第1話『ごあいさつ-青山家編-』
5月15日、土曜日。
今日も朝からよく晴れており、温かな日差しと涼しい空気がとても気持ちいい。
午後1時25分。
初夏の快適な空気を感じながら自転車を漕ぎ、俺は氷織の家に到着した。ここに来たのは、来週の火曜日から始まる中間試験対策の勉強会をするためだ。
勉強会には氷織と俺以外に、火村さんに和男、清水さん。それと、理系クラスにいる氷織の親友の
午後2時頃から勉強会を始める予定だけど、俺は氷織のご家族に氷織と正式に付き合い始めたことを報告する。氷織の提案で、1時半に来ることになったのだ。
自転車ごと青山家の敷地に入り、門に近いところに自転車を置かせてもらう。ちなみに、自転車で来たときには敷地内に駐車していいと、母親の
玄関まで行き、インターホンを鳴らす。
『はい。あっ、明斗さん。すぐ行きますね』
「うん」
もうすぐ、氷織のご家族に挨拶するのか。
陽子さんには正式に付き合い始めた日に自宅で会い、既に報告済みだ。七海ちゃんからはLIMEで祝福のメッセージをもらっている。だから、実質、父親の
これまでの氷織の話によると、俺と正式に付き合い始めたと氷織が話したとき、亮さんは微笑み、涙を流しながら「おめでとう」と言ってくれたそうだ。そういった好意的なエピソードを聞いていても、恋人の父親に報告する時間が迫ると緊張する。
それから程なくして、玄関が開く。そこにはミディスカートと七分袖のカットソーに身を包んだ氷織がいた。氷織の顔には爽やかな笑みが浮かんでいる。
「こんにちは、明斗さん」
「こんにちは、氷織。今日の服もよく似合っているね」
「ありがとうございます。明斗さんのワイシャツ姿もかっこよくて素敵です」
「ありがとう。……こんにちはのキスをしてもいいかな。氷織と会えて嬉しいし。それに、昨日の朝はいつもの待ち合わせ場所で会ったときにおはようのキスをしたから」
「もちろんいいですよ。では……お願いします」
氷織は両目を瞑る。キスを待っているからか、口角がちょっと上がっていて。それもあって物凄く可愛い。いい夢を見ているときの寝顔ってこんな感じなのかな。
氷織の両肩をそっと掴み、氷織にキスする。
これまで、手を繋いだり、抱きしめたりして氷織の温もりを感じてきたけど、独特の感触と共に唇から伝わる温もりは特別だと思う。あと、紅茶の匂いがほんのりと香った。
ここは玄関なので2、3秒ほどで唇を離す。すると、目の前にはほんのりと赤らめた氷織の顔があった。
「お姉ちゃんと紙透さんがキスしたよっ! お母さん!」
「そうねっ! 自分の娘が恋人とキスするのを見ると、何だか感慨深い気持ちになるわ。そして興奮しちゃうわっ!」
「あたしもドキドキしてるよっ!」
きゃーっ! と七海ちゃんと陽子さんの黄色い声が聞こえてくる。家の中を見ると、2人がリビングから顔を出し、興奮した様子で俺達を見ていた。
キスしているところを見られただけでなく、興奮までされると恥ずかしくなってくる。氷織も同じなのか、さっきよりも顔の赤みが強くなっている。
「何だかちょっと恥ずかしいです……」
「もしかしたらキスするかもしれないと思って、お母さんとこっそり覗いてたの」
「ごめんなさいね、氷織、紙透君」
「ちょっと恥ずかしいだけで、俺は別に……」
「昨日も教室でキスしましたからね。怒らないですから、お母さんと七海はリビングにいてください。……明斗さん、家に上がってください」
「ああ。お邪魔します」
俺は氷織の家の中に入る。
氷織の話だと、挨拶をするため、御両親と七海ちゃんはリビングで待ってくれているとのこと。俺は氷織に手を引かれる形でリビングへ向かった。
氷織がすぐ近くにいるからか、今日も家の中はいい匂いがするなぁ。
リビングに入ると、亮さんと陽子さん、七海ちゃんが扉の方を向いて立っていた。
俺と氷織は亮さん達と向かい合う形で立つ。亮さんとは面識はあるけど、目の前にすると緊張してくる。これから付き合ったことの挨拶もするし。
「お待たせしました。明斗さんを連れてきました」
「こ、こんにちは」
緊張のあまり、言葉が詰まってしまった。ただ、3人はそんな俺を笑ったり、不快感を示したりすることなく「こんにちは」と挨拶してくれる。
3人にとって、とても大切な氷織と正式に付き合い始めたんだ。緊張するけど、ちゃんと挨拶しないと。
俺は一度、長めに息を吐き、亮さんを中心に3人のことを見る。
「既に氷織が話していますが……一昨日から、氷織と正式に恋人として付き合うことになりました。大好きな氷織のことを大切にして、氷織と一緒に幸せな時間を過ごしたいと思っています。これからもよろしくお願いします」
氷織への想いや決意を言葉にして、俺は深めに頭を下げた。
氷織の御両親と妹の七海ちゃんに伝わっただろうか。3人は今の俺を見てどう思っているだろうか。氷織と付き合ってもいいと思ってくれているだろうか。
「顔を上げなさい、紙透君」
亮さんは静かな声色でそう言った。
ゆっくりと顔を上げると、そこには静かに微笑む亮さん、落ち着いた笑みを見せる陽子さん、嬉しそうな笑顔を見せる七海ちゃんがいた。
「紙透君とお試しで付き合い始めて、ゴールデンウィークに家に遊びに来た頃から、氷織は以前のような可愛くて明るい笑顔をたくさん見せるようになった。紙透君の話をするときは特にいい笑顔になるんだよ」
「そうなんですね」
ゴールデンウィークにここに遊びに来たとき、氷織の中学時代について話を聞いた。それを機に、氷織が微笑みや笑顔を見せてくれるようになった。
俺のことを話すときは特にいい笑顔になる……か。それを聞いてとても嬉しい気持ちになる。そのときの様子をのぞき見したいくらいだ。
「君はもちろんのこと、葉月さんや火村さんなどの友人達の支えもあって、中学時代に氷織を酷く傷つけた女の子としっかり話せたと聞いている。親として感謝しているよ。ありがとう」
「いえいえ。それに、
「そうか。あとで、葉月さん達が来たときにもお礼を言わないと。……話を戻すが、氷織にとって紙透君はとても愛おしくて、大切な存在だということがよく伝わってくる」
そう言い、亮さんは右手で俺の左肩を掴んでくる。
「これからずっと、氷織と一緒に幸せになっていきなさい。氷織の親として見守り、時には協力をする。ただし、氷織を酷く傷つけたり、悲しませたりしたら親として2人を引き離すし、君を許さない。それをよく覚えておいてくれるかな」
「はい」
真剣な様子で話す亮さんの言葉に、俺はしっかりと返事した。大切な娘が正式な恋人として付き合うんだ。しかも、氷織は中学時代に人との繋がりに関することで深く傷ついた過去がある。強い言葉を使うのは自然なことだろう。
亮さんは俺の目を見ながら微笑み、小さく頷いた。
「頼むよ。あと、今の父さんの言葉は氷織にも言えることだ。氷織のことを大切にしてくれる紙透君を大切にして、一緒に幸せになっていきなさい」
「分かりました、お父さん」
氷織は口角こそ上がっているけど、亮さんを見る目つきは真剣そのもの。そんな彼女を見て、彼女となら幸せになっていけるだろうと強く思った。
「こういう話をすると、2人がもう結婚するみたいな感じだなぁ。氷織が大好きだと思える人と巡り会って、付き合えるようになって良かったなぁ」
そう話す亮さんは嬉しそうで、両目には涙が浮かんでいる。きっと、氷織が俺と正式に付き合うことを報告したとき、亮さんは今のような感じだったのだろう。
「あらあら、また泣いちゃって。あなたったら」
「確かに、今のやり取りを見ていると、結婚絡みの挨拶って感じだよね。お姉ちゃんと紙透さんなら、いつかは本当にそういう挨拶をすることになるだろうけど」
「ふふっ。そうなるように頑張りましょうね、明斗さん」
「そうだな、氷織」
半年ほど片想いをしていた時期もあるから、今の氷織の言葉がとても嬉しい。
片想いをしている頃は、恋人として付き合うことでさえも夢物語だった。でも、お試しの恋人を経て、正式に付き合い始めた今は、氷織との結婚が現実味を感じられるようになってきて。まあ、まだ結婚できる年齢じゃないけどね。
「私からも。氷織をいつまでもよろしくね、紙透君」
「お姉ちゃんを末永くよろしくお願いします、紙透さん!」
「はい。よろしくお願いします」
亮さんが「結婚前の挨拶のようだ」と言ったからだろうか。陽子さんも七海ちゃんも、氷織のことをずっとよろしくと言ってきたぞ。
ただ、氷織の御両親と七海ちゃんを見ていると、3人とも氷織が俺と正式に付き合うことを、とても快く受け入れてくれるのが伝わってきて。それがとても嬉しくて。3人の想いを裏切らないためにも、氷織を大切にして、ずっと一緒に幸せでいられるように頑張ろうと胸に誓った。
こうして、氷織のご家族への挨拶が無事に終わったのであった。
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