第40話『お見舞い-後編-』

「紙透君。汗拭きと着替え終わったッス。部屋の中に入ってきていいッスよ」


 廊下に出てから10分ほど。

 氷織の部屋の扉が開き、葉月さんがそう言ってきた。葉月さんはふんわりと膨らんだバスタオルを持っている。


「分かったよ、葉月さん。お疲れ様」

「どうもッス。あたしは1階の洗面所に、バスタオルとひおりんがさっきまで着ていた下着と寝間着を持っていくッス」

「ああ」


 バスタオルがふんわりと膨らんでいるのは、氷織が脱いだ下着と寝間着を包んでいるからだろう。寝間着はともかく、下着を男の俺の目に触れさせないように。

 あと、葉月さんが持っていくのは正解だな。火村さんだと何をするか分からないし。


「ちなみに、火村さんはどんな様子だった?」

「ずっと興奮していたッス。でも、ひおりんが嫌がることはしなかったッスよ。うっとりとした様子でひおりんを見つめて『綺麗な肌……』とか、『いい匂いが香ってくる……』とか呟いていたッスけど。ひおりんは特に不快そうにはしていなかったッス」

「そうだったんだ」


 やっぱり変態行為をしていたか。火村さんの黄色い声が何度も聞こえたからな。

 俺は再び氷織の部屋の中に入る。ベッドには桃色の寝間着姿の氷織が横になっている。そんな氷織の頭を火村さんが優しく撫でている。


「明斗さん。待っていただきありがとうございました」

「いえいえ。汗を拭いてもらって、新しい服に着替えて少しは気分が良くなった?」

「はい。スッキリした感じがします」

「それは良かった」

「ちなみに、この桃色の寝間着はあたしが選んだの。氷織って寒色系の色のイメージが強いけど、暖色系の色の寝間着も似合いそうだと思って」


 ドヤ顔で説明する火村さん。お店で買うものを選ぶならともかく、氷織の部屋にあるものだからなぁ。それでも、氷織の着る服を選んだことが嬉しくて、お試しの彼氏の俺に自慢したいのだろう。可愛いなぁ、この子。


「そうか。さすがは火村さんだな。桃色の寝間着もよく似合っているよ、氷織」

「ありがとうございます、明斗さん」


 嬉しそうに微笑んで言う氷織。今日は欠席していたので、彼女の微笑みを見ると温かい気持ちが心にじんわり響く。

 あと、この様子なら、週末の間ゆっくりとしていれば、月曜日からはまた学校生活を送れそうかな。


「そういえば、火村さん。氷織の汗拭きと着替えをしているとき、氷織の体をじっくり見たり、匂いを嗅いだりしたんだって? 葉月さんから聞いたよ」


 俺がそう問いかけると、火村さんはピクッと体を震わせ、俺のことを見てくる。いつになくビビっているように見える。俺に怒られると思っているのだろうか。


「さ、沙綾の言う通りよ。ただ、そうなったのはベッドに生まれたままの姿をした素敵な氷織がいたから! だから、じっくり見ちゃったの。氷織の汗の匂いがふんわり香ってきたから、それがいいなぁって思っただけで。決して、顔を近づけて氷織の匂いをクンクン嗅いだわけじゃないから!」

「恭子さんの言う通りですね。裸を見られるのは初めてでしたし、その感想言われるのは恥ずかしいとは思いました。ですが、嫌な想いはしていませんよ」


 優しい笑みを浮かべる氷織は、落ち着いた口調でそう言う。自分をフォローしてくれたからか、火村さんは目を輝かせて氷織を見つめている。

 今の氷織の様子からして、嫌な想いをしていないのは本当だと思われる。


「そうか、分かった。火村さん、あんまり過度な変態行為はしないでね」

「了解よ」

「氷織も嫌だなって思ったら、俺や葉月さんに助けを求めてね」

「分かりました。……ところ、話は変わりますが、明斗さん達はプリンやバナナを買ってきてくれたんですよね」

「そうだよ。あとはスポーツドリンクも」

「ありがとうございます。午前中にお粥を食べたきりですから、お腹が空きました。プリンを食べたいです」

「そうか。じゃあ……俺が食べさせてあげようか? 火村さんと葉月さんが汗拭きと着替えをしたから、俺も何かしたいし」


 火村さんと葉月さんが羨ましく思う気持ちと同時に、何もしていないことの悔しさも抱いている。

 氷織は俺の目を見て優しい表情に。そして、ゆっくり頷いた。


「お願いします、明斗さん」


 その一言で、今まで抱く羨ましさと悔しさが、嬉しさへと変わっていく。恋人に必要とされるのはいいものだ。


「分かった」

「じゃあ、私は食べている氷織を見ているわ」


 見ているだけとは意外だな。てっきり、火村さんのことだから『あたしも食べさせる!』とか言いそうな気がしたけど。

 俺はコンビニのレジ袋から、プリンとプラスチックのスプーンを取り出す。プリンは葉月さんが「以前、お見舞いに持っていって食べさせたものッス」と選んだものだ。ツルッと食べられ、俺達の親世代の幼少期から愛され続けるロングセラー商品。

 火村さんは勉強机の椅子をベッドの近くまで持ってくる。氷織を、体温を測ったときと同じ体勢にする。

 俺は勉強机の椅子に座り、スプーンでプリンを一口分掬う。


「氷織。はい、あーん」

「あーん」


 氷織にプリンを食べさせる。

 氷織はプリンをモグモグと食べている。そんな彼女のことを、火村さんは「かわいい」と呟きながら見ている。ベッドに頬杖をつき、笑顔を浮かべている火村さんもなかなか可愛いなと思う。

 プリンが美味しいのだろうか。それとも、プリンの冷たさが心地いいのだろうか。氷織は柔らかな笑顔に。


「甘くて美味しいです。まだ熱っぽさがありますから、冷たいのがいいなって思えます。あと、誰かから食べさせてもらうのって、やっぱりいいですね。元気が出てきます」

「そう言ってくれて嬉しいよ」

「ただいまッス。陽子さんとちょっとお話していたッス。……おっ、ひおりんは紙透君にプリンを食べさせてもらっているッスか。いいッスねぇ」


 朗らかな笑みで葉月さんはそう言うと、火村さんの隣に座って俺達のことを見る。

 火村さんと葉月さんにじっと見られているからか、氷織は何だか恥ずかしそう。でも、氷織の口角が下がることはない。

 それからも俺は氷織にプリンを食べさせていく。


「このプリン、本当に美味しいですね」

「良かったッス。あたしが選んだので。1年のときにお見舞いに来たとき、このプリンをひおりんに食べさせたッスから。ひおりんは覚えているッスか?」

「もちろんですよ。今の明斗さんと同じように、優しい笑顔を浮かべながら食べさせてくれましたから。鮮明に思い出します」

「そうッスか。嬉しいッスね」


 えへへっ、と葉月さんは嬉しそうに笑った。そんな彼女の頬はほんのり赤くなっていた。


「自分も食べたくなったからと、沙綾さんが一口食べたときもありましたよね」

「あったッスね。そのプリン、小さい頃から大好きッスから」

「……そんな思い出があるなんて羨ましいわ」

「俺もだよ」


 俺が言うと、火村さんは俺を見て小さく頷く。

 俺と火村さんは、氷織としっかり関わるようになったのはゴールデンウィーク前から。ただ、葉月さんは笠ヶ谷高校に入学したときからの付き合い。氷織との思い出の数は彼女の方がまだまだ多いだろう。


「あと、今の沙綾の話を聞いたら、あたしもプリンを食べたくなってきた……」

「ふふっ。一口なら恭子さんにあげますよ」

「いいの!?」


 火村さんの目の色が変わったぞ。キラキラと輝いている。


「いいですよ、恭子さん」

「ありがとう!」


 火村さんは素早く俺に近づいてきて、俺の右の太ももに両手を置く。顔を俺に近づけて、大きめに口を開いてくる。プリンを一口もらえるのが嬉しいのか、凄く可愛い笑顔を浮かべちゃって。子供っぽいと思いつつ、ちょっとドキッとした。

 プリンを一口分掬い、火村さんの口元まで持っていく。


「火村さん、あーん」

「あんっ!」


 アニメなら『パクッ』という効果音が付きそうなほど、火村さんはプリンを元気よく食べた。小動物的な可愛らしさがある。頭を撫でたくなったけど、そうしたら火村さん達がどう反応するか分からないので止めておこう。

 プリンが口に入って少しすると、火村さんは幸せそうな表情に。


「あぁ、とっても美味しいわ! 今までの中で一番美味しいプリンだわ。これ以上に美味しいプリンは、今後そうそう出会わないでしょうね」

「ふふっ、そんなに美味しかったんですね」

「大げさな気もするッスけど」


 まあ、氷織が口を付けたスプーンで食べかけのプリンを食べたからな。今までで一番美味しいと火村さんが言うのも分かる。大げさだと言う葉月さんの言葉も理解はできる。

 残りのプリンも、俺が全て氷織に食べさせた。


「プリン、ごちそうさまでした」

「お粗末様でした。このプリンを完食できるほどに元気になって良かったよ」

「好きな食べ物ですからね。それを美味しいと感じながら食べられるのって幸せなことなんですね」

「そうだな」


 体調を酷く崩したときは、好物を食べても美味しいと思えなかったことがある。だから、今の氷織の言葉には納得できる。

 好物のプリンを食べたからか、氷織の顔色も良くなってきた。


「氷織。俺達に何かしてほしいことはある?」

「そうですね……明斗さん。左手を私の頬に当ててくれませんか? 今までプリンのカップを持ち続けていたので、冷たくて気持ち良さそうですから」

「そういうことか。分かった」


 空になったプリンのカップとスプーンをテーブルに置き、俺は左手を氷織の右頬に添えた。その瞬間、氷織は「あぁ」と可愛らしい声を漏らす。


「予想通り、冷たくて気持ちいいです」

「良かった。俺は氷織の頬の温かさが気持ちいいよ。今日は寒いからさ」

「あたしも氷織の服を脱がせたり、体を拭いたりしたときに温かいのが気持ちいいと思ったッス」

「あたしもっ!」

「ふふっ、そうですか」


 柔和な笑みを浮かべる氷織。頬に添えた左手から表情の変化が感じられた。

 氷織は冷たさが、俺達3人は温かさが気持ちいい……か。熱を出して体調を崩した人と健康な人の違いかもしれない。

 それから少しの間、今日の学校でのことを話した。ただ、俺が登校したときに、生徒達から嘲笑されたことは話さなかった。体調を崩して休んだことに、氷織が罪悪感を抱くかもしれないから。


「じゃあ、俺達はそろそろ帰るよ」

「はい。お見舞いに来てくれてありがとうございました。みなさんのおかげで、来てくれたときよりも元気になった気がします」

「それは良かったわ! 明日と明後日は休日だから、ゆっくりと休みなさいね。それで、月曜日に学校でまた会いましょう」

「ヒム子の言う通りッスね。何かあったら、遠慮なく連絡してほしいッス」

「分かりました。ありがとうございます」


 氷織は嬉しそうに微笑みながら言った。

 陽子さんに挨拶して、俺達は氷織の家を後にする。お見舞いに来るときと変わらず、外は肌寒い空気だ。でも、氷織の部屋で心身共に温まったから、この寒さが心地良く感じられたのであった。

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