第38話『氷織がいない日』

 5月7日、金曜日。

 起床し、カーテンを開けると……空には鉛色の雲が広がっている。窓を少し開けてみると、冷たい空気が部屋の中に入ってきて。昨晩の天気予報でも冷え込むと言っていたけど、これほどとは。


「寒っ」


 体がブルッと震え、慌てて窓を閉める。その瞬間、何だか嫌な予感がした。

 キッチンの食卓で朝食を食べ、自分の部屋に戻る。

 氷織とお試しで付き合い始めてから、このタイミングでスマホをチェックするようにしている。氷織に何かあって、いつも通りに待ち合わせができないと連絡が来ているかもしれないから。

 スマホの電源スイッチを押し、スリープ状態を解除する。


「……えっ」


 LIMEで氷織との個別トークと、遊園地に行ったメンバーのグループトークにメッセージが送信されていると通知が。こんなことは初めてだから、全身に悪寒が走った。さっそく、個別トークを確認すると、


『風邪を引いてしまいました。今日は学校を休みます。なので、1人で学校に行ってください。あと、今日の放課後デートはできないですね。明日、どこかでデートすることも。ごめんなさい』


 というメッセージが15分前に送られていた。

 グループトークにも、氷織から学校を休むとメッセージが送られていた。火村さんと葉月さんから『ゆっくり休んで』というメッセージも。

 昨日、氷織は朝から眠そうにしていて、一昨日の遊園地で遊んだ疲れが残っていると言っていた。お昼頃は元気そうに見えたけど、午後の体育で体力が削られたのかも。昨日の夜からかなり冷えたのも、体調が悪くなった一因かもしれない。

 今日は氷織が体調不良で欠席か。結構寂しいな。


『分かった。お大事に。寒いから、体を温かくしてゆっくり休んでね。今日は1人で学校に行くよ。あと、今日はバイトないから、放課後になったらお見舞いに行くよ。元気になったらデートしような』


 というメッセージを氷織との個別トークに送信した。また、ゆっくり休んでほしいことと、お見舞いに行く旨のメッセージは個別トークだけでなく、グループトークの方にも送った。

 俺がメッセージを送ってからすぐに、火村さんと葉月さんからは『あたしもお見舞いに行く』とメッセージが送信された。しかし、氷織からの反応はない。個別トークに送ったメッセージにも『既読』マークが付かないし。寝ているのかな。それとも、スマホを見られないほどに辛いのか。あと、和男と清水さんから反応がないのは、陸上部の朝練中だからだろう。

 朝の天気予報で、今日は一日中曇りで肌寒いとのこと。なので、俺はブレザーのジャケットを着る。

 バッグを持って、家を出ようとしたとき、

 ――ブルルッ。

 スマホのバイブ音が響く。さっそく確認すると、氷織からLIMEの個別トークとグループトークに、


『ありがとうございます。放課後、待っていますね』


 とメッセージが送られていた。この言葉が、寂しい気持ちを少し軽くさせてくれる。

 予報では、雨が降る心配はないとのことなので、今日も自転車で登校することに。

 家を出発した直後は肌寒さを感じたけど、漕いでいくうちに体が段々温まっていく。

 やがて、氷織との待ち合わせ場所の高架下が見えてくる。もちろん、そこには氷織の姿はない。風邪を引いて、今日は来ないことが分かっているから、その光景を見るととても寂しく感じられる。

 高架下はそのまま素通り。氷織と付き合うまではこれが普通。それでも、切なさが胸に湧き上がった。

 涙を流すほどにショックを受けてしまっているのかと思ったら、ポツポツと雨が降っている。雨は降らないんじゃなかったのか。予想外のことが続く日ってあるんだな。どうせなら、いい方で予想が外れてほしかった。



 笠ヶ谷高校に到着し、俺は教室に向かう。

 今日は俺1人なのに、昨日までと変わらずに多くの生徒が俺のことを見てくる。もしかして、俺1人だからか? 氷織とお試しで付き合い始めてからは、彼女と一緒に登校するのが普通だったから。


「今日は1人だぜ、あいつ。連休中に何かあって別れたのかね?」

「でも、昨日は一緒にいたところを見たぞ。ただ、1人なんだから何かあって別れたんだろうな」

「ざまあねえな」


 といった男子生徒達の会話の後、「ははっ」と嘲笑の声が聞こえてくる。彼らと同じことを考える人が他にもいるのだろう。笑い声がどんどん広がっていく。その証拠に、立ち止まって周りを見てみると、俺をチラチラ見ながら嫌らしい笑みを浮かべる生徒が何人もいる。俺と氷織がお試しで付き合うのを快く思わない人は、少なくともこれだけいるのか。

 昨日まで氷織と一緒だったのに、今日は俺1人だったら「何かあって、氷織と別れた」と考えるのは自然かな。

 氷織と別れていないけど、こんなに笑われると不快な気持ちになっていく。こんな形で、他人の快楽の餌になってたまるものか。さっさと止めさせよう。


「氷織へのお見舞いには、何を買えばいいのかなぁ。あとで、葉月さんに聞いてみるか」


 少し大きめの声で俺は独り言を口にした。

 その瞬間、周囲の嘲笑が止んでいく。お見舞いという言葉で、氷織が体調不良で休んでいることと、俺と氷織が別れていないことが分かってくれたのだろう。計画通りだ。これなら、「俺と氷織が別れた」というありもしない話が広がる可能性はほとんどないだろう。

 俺は再び歩き始め、2年2組の教室がある教室B棟へ。

 氷織がいないからか、外と同じく多くの生徒から見られる。ただ、俺に聞こえるように何か言ったり、嘲笑ったりする生徒はいなかった。

 後ろの扉から2年2組の教室に入る。昨日と同じく、和男の席の周りで和男と清水さん、火村さん、葉月さんが談笑していた。そんな様子を見て、少し気持ちが軽くなる。


「アキが来た! おはよう!」


 最初に気づいたのは和男。そんな彼に続いて清水さん達も「おはよう」と挨拶してくれる。今日は寒いからか、みんなジャケットを着ているな。そんな彼らに手を振りながら、自分の席へと向かう。


「みんな、おはよう。みんなは体調大丈夫か? 昨日の夜から結構肌寒いし」

「俺は大丈夫だ! 朝練で走ったから体もポカポカだぞ!」

「そんな和男君と一緒だったから、あたしも大丈夫だよ!」


 元気いっぱいの和男と清水さんカップル。2人の明るい笑顔を見ていると、元気をお裾分けしてもらっている感じがする。氷織も彼らの笑顔を見れば、少しでも早く快復に向かうのではなかろうか。


「あたしも大丈夫ッスよ」

「あたしも。それよりも、紙透の方は大丈夫なの? 氷織がお休みだから、寂しくて体調を崩しちゃうってことはない?」


 優しい声色でそう訊いてくる火村さん。俺の体調を気遣ってくれるとは。ちょっと感動。


「氷織がいないから寂しいし、いつもの元気は出ないかもしれない。だけど、放課後にはお見舞いに行くから、それを励みに今日の授業を頑張るよ。それにみんなもいるし」

「……そう」


 一言そう言うと、火村さんは俺に微笑みかけてくれる。


「あたしも氷織のお見舞いを楽しみに、今日の授業を頑張るわ!」

「あたしも頑張るッス」

「俺と美羽は部活で行けないけど、お見舞いに行ったら青山によろしくと言ってくれ」

「よろしくね」

「ああ、分かった」


 ということは、今日の放課後に氷織のお見舞いに行くのは俺と火村さん、葉月さんの3人か。


「そうだ、葉月さん。お見舞いなんだけど、氷織への差し入れには何がいいかな。氷織は甘いもの好きだから、プリンかゼリーがいいかなって思っているんだけど。葉月さんなら、1年生の間に氷織のお見舞いに行ったことがあるかと思って」

「なるほど。プリンがいいッスね。1年のときにお見舞いに行って、ひおりんにプリンを食べさせたッス。そのときは熱があったッスけど、プリンを食べて幸せそうにしていたッス」

「そんな氷織の姿を見てみたいわっ!」


 そして、そんな氷織の姿を妄想しているのだろうか。火村さんはうっとりとした様子に。もし、火村さんが風邪を引いたとしても、氷織がお見舞いに行った瞬間に元気になれそう。


「分かった。じゃあ、氷織の家に行く途中で、コンビニでプリンとかを買っていこう」


 俺がそう言うと、火村さんと葉月さんは元気良く頷いた。

 俺達がお見舞いに行くことで、氷織が少しでも元気になってくれたらいいなと思う。



 そして、今日も学校生活を送る。

 2年生になって氷織が休むのはこれが初めて。なので、授業中に氷織の姿がないのも初めて。だからか、普段よりも時間の進みがかなり遅く感じた。

 教室に氷織がいないことが凄く寂しい。俺にとって、氷織の存在が本当に大きいのだと実感する。俺以外にも、氷織が休んでいることにがっかりするクラスメイトが何人もいて。氷織の人気の高さを改めて思い知るよ。

 あと、いつになく火村さんからたくさん視線を向けられた。氷織がいないから、代わりに俺を見ているのだろうか。

 また、昼休みは和男と清水さんと3人で昼食を食べる。氷織と付き合い始めるまではこれが日常だった。およそ10日ぶりだけど、懐かしい感覚になった。

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