すれ違う心

「!」

 シオンは驚愕に目を見開いた。麗二や百合が母の姿を見たことは百合から聞いていたが、美波子にまで正体を見られていたとは知らなかった。

「麗二達がリンナを見た時より、もっと前のことだよ」サラが続けた。「ある満月の夜、たまたまリンナの部屋を訪ねた美波子が、シーツから魚の鰭が覗いているのを見つけたんだ。美波子がシーツを捲ると、そこには人魚の姿をしたリンナがいた。

 美波子は小さく悲鳴を上げて、それを聞いてリンナは目を覚ましたんだ。自分の鰭と、顔面蒼白になった美波子を見れば、何が起こったのかはすぐにわかっただろうね。

 でもその時はまだ、リンナはそんなに大変なことになるとは思ってなかったんだ。自分が人魚でも、今までと変わらず美波子と一緒にいられるって信じてた。おめでたいって言うか、お気楽って言うか……」

「でも……、そうじゃなかったのね?」

 シオンがおずおずと尋ねた。サラは渋い顔をして頷いた。

「その日から、美波子のリンナに対する態度は目に見えてよそよそしくなった。一緒に食事をしても目も合わせないし、リンナが何か話しかけても、曖昧に返事をするだけでろくに話そうともしなかった。たぶん美波子も、どうしていいかわからなかったんだろうね。

 でも、リンナはショックだっただろうな。だって自分が人魚だって知った途端、急に掌返したみたいに冷たくなったんだから……。リンナが人間に幻滅したとしても無理ないよ」

「だから……お母さんは美波子さんを刺したの……?」

 シオンは恐る恐る尋ねた。だがサラはかぶりを振ると、きっぱりと言った。

「それがさ、違うんだ」

「え?」

 シオンは目を丸くしてサラを見つめた。母は人間に幻滅し、人魚に戻るために美波子を刺したわけではなかったのか。

「リンナが人間に姿を見られたって知って、アタシはアンタの時と同じように、あのナイフをリンナに渡しに来た」サラは言った。「人魚に戻れるって言ったらすぐに乗ってくると思ってたけど、リンナは嫌だって言った。いくら美波子が自分に冷たくなっても、自分を助けてくれた人の命を奪うなんてできないって言ったんだよ」

「お母さんが、そんなことを……」

 それは、まさに昨日の自分が考えていたことだった。確かに人魚に戻りたい気持ちはあった。でも、そのために愛する者の命を奪うなんて、代償が大きすぎるとしか思えなかった。母も一度はそう考えた。それなのに――。

「でもお母さんは、結局美波子さんを刺してしまった……」

 シオンが呟くと、サラは馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らして言った。

「そりゃそうだよ。だって、自分が帰りたいって思う場所が目の前にあるんだよ? たった一人の命を犠牲にすれば、自分はすぐにでもそこに帰ることができる。そんな状況で、何もしないでじっとしていられると思う? それにアンタのこともあったしね」

「私?」

 シオンは目を瞬かせてサラの顔を見返した。サラはシオンの方をちらりと見上げた後、すっと目を伏せた。

「アンタ、バァさんに言ってたらしいね。リンナはもう、自分のことなんか忘れちゃったんじゃないかって。

 でも、本当は逆なんだ。リンナはいつだってアンタのことを考えてた。人間に会いたい気持ちを抑えきれずに人間になったけど、アンタを海に置いてきたこと、ずっと後悔してたみたい。

 だから人魚に戻れるって話を聞いた時、リンナが一番に考えたのはアンタのことだった。人魚に戻れば、またアンタに会うことができる。あの海で、アンタと一緒に暮らしていける……。その強い願いに、リンナは抗えなかったんじゃないかな」

「お母さん……」

 シオンは返す言葉が見つからなかった。母は、自分のことを忘れてはいなかった。その事実自体は嬉しいはずなのに、それが結果的に美波子の命を奪ってしまったのだと思うと、やりきれなかった。

「……私、昨日、お母さんの姿を見たような気がするの」

 シオンが視線を落として呟いた。サラが顔を上げてシオンの方を見る。

「海の上に浮かび上がっていて……声も聞こえたわ。私の名前を呼んでいた。私、それを見て帰らなくちゃいけないと思って……それで麗二の部屋に行ったの。今やっと思い出したわ……。ひょっとしたら、お母さんも同じだったのかもしれない」

 母もまた、海が自分を呼ぶ声を聞いた。そして、その声に導かれるようにして美波子の部屋に行った。何かが一つでも違えば、自分も母と同じ道を辿っていたのかもしれない。

「……でもさ、リンナもバカだよね」

 サラが吐き捨てるように言った。シオンは顔を上げてサラの方を見る。

「美波子が死んだ後も、リンナは美波子の傍を離れなかった。せっかく人魚の身体を取り戻したのに、海に帰ろうともせずに、ずっと美波子の傍で泣き続けてた……。そんなことしたって、美波子が生き返るわけじゃないのにさ。それで結局人間に見つかって、そのまま捕まっちゃうなんて、ホント、バカだよ……」

 そう言ったサラの表情は苦々しげだったが、シオンには母の気持ちがわかる気がした。

 美波子を失って初めて、母は自分が代償にしたものの大きさに気づいたのだろう。二度と戻らないとわかっていても、どうしても悔やまずにはいられなかった。もし自分が母の立場でも、きっと同じことをしただろう。

「……そう言えば、その後お母さんはどうなったのかしら」シオンはふと思い出して呟いた。「百合さんの話だと、お母さんは突然姿を消してしまって、今も行方がわからないってことだったけど……」

「……あぁ、そのこと」

 サラは何でもないように言うと、ぴょこんと机の上に飛び乗り、足を組んでシオンの方を見下ろした。

「実はアタシが来たのも、その話と関係あるんだ。アンタにもう一度、これを使ってもらわなきゃいけないと思ってさ」

 サラはそう言うと、前にも見た黒い小物入れの中を探った。シオンは嫌な予感がした。サラが自分に渡そうとするもの、それは一つしか考えられない。

「待って。私、もう二度とあんな恐ろしいことをするつもりはないわ」シオンが制するように言った。「それに私、もう麗二には会えないと思うの。昨日あんなことがあったんですもの……。誰も私を、麗二に近づけようなんて思わないでしょう?」

 シオンは自嘲気味に笑って見せた。そう、たとえ麗二が生きていたとしても、自分は彼に近づくことすらできないのだ。そう考えると、言いようのない寂しさが胸の内からこみ上げてくる。

 だが、サラはシオンの感傷を嘲笑うようにふんと鼻を鳴らした。

「誰が麗二を刺せって言った?」

「え?」

 シオンはきょとんとしてサラの顔を見返した。小物入れから現れたのはやはりあのナイフで、サラは例によってそれを器用に手の中で回している。

「アンタが麗二を刺せないってことくらい、とっくにわかってるよ」サラがナイフを回す手を止めて言った。「でもさ、アタシだって魔女の端くれ。正体を知られたアンタが人間に言いようにされるのを、黙って見てるわけにはいかないんだ。だからアタシは、別の方法でアンタをここから連れ出すことにした」

「別の方法?」

 シオンは嫌な予感がした。サラは頷くと、机の上からシオンを見下ろし、一気に言った。

「アンタは今夜、もう一度そのナイフを使う。でも刺すのは麗二じゃない。アンタ自身だよ、シオン」

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