強欲な手


 その夜、麗二は寂れたバーのカウンターで一人、頬杖を突きながら水っぽいワインを飲んでいた。美しかった琥珀色の髪からは今や輝きが失われ、全身から疲労を滲ませたその姿はすっかり老け込んで見えた。かつては幾多の令嬢達をときめかせた貴公子然とした面影は、完全に失われていた。

 そんな中、入口の扉がカランカランと音を立てて開く音が聞こえた。こんなうらぶれた店にわざわざ足を運ぶなんて、珍しい客もいるものだ。麗二はそう思っただけで、その存在をろくに気に留めることもなかった。

 だが、ゆったりとした足音が自分の方に近づいてくるのに気づくと、さすがに奇妙に思って視線を上げた。店内には自分以外に客はおらず、席ならいくらでも空いている。それなのに、なぜわざわざ自分の方へ向かってくるのだろう。まさか、こんなところまでマスコミが追いかけてきたのだろうか。ただ人目につかないという理由だけでこの店を選んだのに。

 麗二がそんなことを考えたのと同時に、その客が麗二に声をかけてきた。

「失礼ですが、あなた、高瀬川麗二様でいらっしゃいますか?」

 麗二はその声の方を振り返った。座っている麗二と同じくらいの視線の高さしかしかない、小柄な中年の男が麗二の方をじっと見つめている。よく肥えた身体の上に仕立ての良いえんじ色のスーツを着込み、てかてかと脂ぎった顔の上に洒落た中折れ帽を乗せている。目尻の下がった腫れぼったい目は一見人が好さそうではあるが、それでいて腹に一物ありそうな得体の知れなさを窺わせる。丸々とした指には大きな宝石をあしらった指輪がこれ見よがしにいくつもはめられ、一目で豪勢な暮らしをしていることがわかった。

 麗二は眉根を寄せてその男を見つめた。こんな趣味の悪い男と知り合いになった覚えはなかった。

「確かにそうだが……あなたは?」

 麗二が尋ねた。男はもったいぶった動きで帽子を脱ぐと、馬鹿丁寧にお辞儀をした。

「お目にかかれて光栄でございます、麗二様。あっしはこういう者でございます」

 男はそう言って懐に手をやると、おもむろに金ぴかの名刺を取り出して麗二の方へ差し出した。麗二が名刺を受け取って見ると、そこにはこんな文字が書かれていた。


『珍品蒐集家 尚慶しょうけい


 麗二は思わず顔を上げ、尚慶というその男の顔を見た。尚慶は何も言わずに人の好さそうな笑みを浮かべている。

 麗二は胡散臭いものを眺めるような目で彼を見つめたが、やがて名刺に視線を戻して言った。

「この、珍品蒐集家というのは?」

「文字通り、珍しい品を集める愛好家という意味でございますよ」尚慶がゆっくりと頷きながら答えた「世の中の珍品と言われる物にあっしは目がないもんでして、世界中を回ってそいつを買い占めるのが生き甲斐なんでございますよ。

 あっしは若い頃、実業家をしておりましてね、そこで稼いだ金が腐るほどあるもんですから、いくらつぎ込んだところで全く痛手にならんのですよ」

「それは……何とも羨ましい限りだな」

 麗二が吐き捨てるように言った。金のことは、今の麗二にとって最も深刻な問題であった。高瀬川不動産は今や巨額の負債を抱えており、一刻も早く融資を受けなければ倒産も危ぶまれる状況であった。だが、経営状態が悪化している上、社長が失踪した会社に融資をしてくれる銀行はどこにもなく、麗二を含めた役員達は資金繰りに頭を悩ませていた。

 親戚にも助けを求めたものの、高瀬川家の名に泥を塗った一連の騒動を彼らは快く思っておらず、麗二達の窮乏を救おうとする者は誰もいなかった。麗二はやむなく自らの私財を会社の再建のために投じたが、それも次第に底をつき始めていた。使用人達にも暇を出さざるを得ず、今やあの屋敷に残っているのは、鳩崎を始めとした数名の古株だけだった。

 だが、自分がそんな窮状にある一方で、この尚慶という男は、自らのくだらない趣味のために使う金が腐るほどあるというではないか。そんな理不尽さに対する憤りを抑えるため、麗二は手のひらに爪が食い込むほど拳を握り締めなければならなかった。

 尚慶はそんな麗二の憤りを知ってか知らずか、にんまりと笑みを浮かべて見せた。

「それで、その大富豪の蒐集家の方が、僕にいったい何の御用ですか?」麗二が尋ねた。「もっとも、僕の方には何もお話しすることはないと思いますが。僕は今こんな有様でね、あなたが興味を持たれるような珍しい品なんて、逆立ちしたって出てきませんよ」

 麗二は嫌味を込めて言ったが、尚慶は顔色一つ変えなかった。他に客がいないことを確かめるように店内を見回すと、断りもせずに麗二の隣に腰掛ける。麗二は露骨に嫌そうな顔をして身を引いたが、尚慶は気にした素振りも見せず、店主に向かってのんびりとウイスキーを注文した。

 店主が遠ざかっていくのを確認すると、尚慶はようやく麗二の方に向き直った。

「そうおっしゃいますがね、麗二さん。実はあなたは、とんでもなく価値のあるものを持っておられるんですよ」尚慶が耳打ちするように言った。「もしそいつを売れば、お父様の会社を立て直すばかりか、もう二つ三つ会社を立ち上げてもまだお釣りがくるくらいの代物です。ぜひともそいつを、あっしに売っていただきたいと思いましてね」

「何のことだ?」

 麗二は怪訝そうに尚慶の顔を見返した。確かにかつては貴重な絵画や美術品なども屋敷にあったが、それらは全て資金調達のために売りに出してしまった。今やあの屋敷はがらんどうも同然で、屋敷自体もいずれは手放すことになるかもしれないと危惧していた。そんな自分が、この男が大枚を叩いてまで買い求める物を所有しているとはとても思えなかった。

 麗二は詳しく尋ねようと口を開いたが、そこで店主がウイスキーを運んできたため、一旦言葉を飲み込んだ。尚慶がもったいぶった動作でウイスキーを飲み、麗二がじれったそうに肩を揺らす。

 やがて尚慶はゆっくりとグラスを置くと、店主に向かって何やら目配せして見せた。それを見て店主も何かを察したのか、無言で頷くと、そのまま店の奥に引っ込んでしまった。

 店主の姿が見えなくなったのを確認すると、尚慶は懐から一枚の写真を取り出してカウンターの上に置き、麗二の方に差し出してきた。麗二は訝しげにその写真を覗き込んだが、そこに写っているものを目にした途端、驚愕に目を見開いた。

 写真には、シオンの姿が写っていた。

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