第五章 目を背けても

見せかけの平穏

 麗二との一件があった翌朝、朝食に降りてきたシオンを待っていたのは、いつも通り穏やかな笑みを浮かべた麗二の姿だった。麗二は昨日のことなど何もなかったかのように、シオンに優しく語りかけながら、いつものようにじっくりと時間をかけて料理を味わっていた。

 一方百合はと言えば、いつもはひっきりなしに何事かを話し続けているのに、今日は麗二の話に一切口を挟まず、静かに手を動かしていている。その様子は、まるでこの場から自分の存在を消そうとしているように見えた。

 そうして食事の時間は何事もなく過ぎた。それはまるで、百合がこの屋敷に来る前の平穏な日常が戻ってきたかのようだった。

 シオンは二人の態度が急に変わったことに違和感を覚えながらも、それでも安堵せずにはいられなかった。ようやくあの息詰まるような日々から解放され、再び麗二と共に日常を過ごせるのだと思うと、嬉しくてならなかった。


 それから数日後、百合はバカンスが終わったと言って帰ることになった。

 麗二や鳩崎に挨拶をした後、百合はシオンの方をちらりと見やると、何でもないような顔をしてシオンにも簡単に挨拶を寄こした。シオンには、それが百合なりの詫びの気持ちの表れであるように思えた。

 シオンがリンナの娘かもしれないという疑いが消えたわけではない。それでも百合はシオンを信じようとした。そうでなければ、百合はきっと最後まで自分の存在を黙殺していただろうから。

 それは麗二も同じなのだろう。心の底ではシオンの正体に気づいていながらも、その事実に気づかない振りをして、今までと変わりなくシオンに接してくれている。シオンはそれを心苦しく感じながらも、どうしても麗二に真実を話すことができなかった。真実を告げたその瞬間に、二人の関係が永久に失われることがわかっていたからだ。

 シオンは麗二を失いたくなかった。麗二の愛を失うことが、たまらなく恐ろしかったのだ。


 それからさらに数日が経ち、シオンは完全に日常を取り戻したかのように見えた。

 朝は麗二と共に海を眺め、ゆっくりと時間をかけて朝食をとる。その後は麗二かシオンの部屋で、一緒に話をしながら一日を過ごす。麗二が〈かいしゃ〉に行く日は一人で海を眺めたり、屋敷の中を歩いて回ったりしながら麗二の帰りを待つ。夜になって麗二が帰ってくると再び海に出て、昼間とは違うその姿を眺めながら、互いに今日あったでき事を語り合う。もっとも、シオンには麗二の話の内容はほとんどわからなかったが、それでもシオンは幸せだった。麗二の傍にいて、彼の話を聞いているだけで、シオンはいつでも満ち足りた気持ちになることができたのだ。

 だが、シオンが愛したその日常は、少しずつその在り様を変えていった。

 変わったのは麗二の方だ。最近の麗二はろくに朝食もとらず、朝早くから出掛けることが増えていた。夜も遅くまで帰らないことが多く、ようやく帰ってきた時にはとても疲れた顔をしていた。シオンは麗二と話したいと思っていつも彼の帰りを待っていたが、麗二のそんな姿を見ると、ついに話しかけることができずにいた。

 そうして何日も麗二と話さない日が続いた後、シオンはついに堪りかねて麗二の部屋を訪ねることにした。その日の麗二は一段と疲れている様子で、かつてシオンが胸をときめかせたあの女性のような優美さは、今や影も形もなかった。シオンは心配になって何があったのかを尋ねたが、麗二は静かに首を振り、こう言っただけだった。

「君が気にする必要はない、シオン。君は何も知らずに、ただ僕の傍にいてくれればいいんだ」

 麗二はそう言って弱々しく微笑んで見せたが、シオンはかえって居たたまれなくなった。

 確かに麗二の話を聞いたところで、何のことだかさっぱりわからないだろう。それでもシオンは、麗二に話してほしかった。麗二の胸の内を聞き、その苦しみをわかち合いたかった。だけど麗二は優しいから、自分に理解できない話をして困らせることは決してしないだろう。

 シオンはそれが悲しかった。麗二を愛しているのに、何もできない自分が、もどかしくてならなかった。

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