母の足跡

 百合の部屋はシオンの部屋よりもずっと広々としており、部屋のあちこちが〈絵〉や〈装飾品〉で埋め尽くされていた。中央の天井には豪華な〈シャンデリア〉があり、その下に小さなテーブルを挟んで立派な黒い〈ソファー〉が置かれている。

 百合に促され、シオンはおずおずとソファーに浅く腰掛けた。ソファーはふかふかとして座り心地がよかったが、シオンは何となく気詰まりで、そこに身を預ける気にはなれなかった。

 やがて百合が〈お盆〉に〈ティーカップ〉を二つ乗せて戻ってきた。ティーカップを〈テーブル〉の上に置き、シオンの向かい側のソファーに腰掛ける。百合はすぐには話を始めようとはせず、かといってカップに手を伸ばすこともなく、腕と足を組んで無言でテーブルを見つめている。シオンも到底カップに口をつける気にはなれず、うつむいてカップの中の茶色い液体(確か「紅茶」と一旦)を見つめた。

 しばし気まずい沈黙が流れたが、それを破ったのは百合だった。大きく息をついた後、意を決したようにシオンに声をかける。

「ねぇ、シオンちゃん。あなた、ご両親は?」

 シオンは虚を突かれたように顔を上げた。何と答えるべきか迷ったが、今朝の麗二とのやり取りを思い出すと、本当のことを話すべきではないと悟った。

「えっと……私、記憶がないんです。だから、その、両親のこともわからなくて……」

「……そう」

 百合は落胆した様子で視線を落とした。なぜ百合がそんな顔をするかがわからず、シオンは困惑して百合を見返した。

 百合はテーブルの方をじっと見つめていたが、やがて打ち明けるように言った。

「実はね、あたし、あなたによく似た人を知っているの。もしかしたらあなたのご家族じゃないかと思ったんだけど……」

「え……」

 シオンは目を丸くして百合の顔を見つめた。それはもしや、今朝麗二が言っていた人のことだろうか。シオンが母から教えてもらった歌。それと同じ歌を歌っていたという女性。

(もし、その人がお母さんだったとしたら、百合さんはお母さんの居場所を知っているかもしれない。でも……その人のことを知りたいと、はっきり言ってしまっていいのかしら?)

 シオンが考えている間にも、百合はシオンの一挙一動を見逃すまいとするかのように、鋭い視線を向けている。シオンは動揺を悟られないよう、慎重に言葉を選びながら答えた。

「私……家族のことはわかりません。でも、その人のことは気になります。その人の話を聞いたら、私も何か思い出すかもしれません。だから、その、私に似ているという人のことを聞かせてほしいです」

 百合は怪訝そうにシオンの顔を見返した。期待していたような返答が得られず、拍子抜けした様子だ。

 シオンは一心に百合の顔を見返した。ここで話を聞き出さなければ、もう一生、母の手がかりが得られないような気がした。

 そうしてしばらく見つめ合った後、先に視線を逸らしたのは百合だった。根負けしたようにため息をつくと、ようやくカップに口をつける。シオンもつられてカップを口元に運んだ。ついさっきまで湯気を立てていたその紅茶は、今やすっかりぬるくなっていた。

「……いいわ、話してあげる」

 不意に百合が呟いた。シオンは顔を上げて百合の方を見た。百合はカップをテーブルに戻し、頬杖をついて窓の方を見ていた。その視線はこの部屋を離れ、遠い過去の世界に思いを馳せているかのようだった。

「この話は、あなたには関係のないことかもしれない。あたしとしても、そうであってほしいと思う。だけどあたしや麗二にとっては、何年経っても忘れることができないくらい、辛くて苦しい記憶なの。

 だからね、もしあなたが本当に麗二のことを想うなら、考えてみてほしいの。この話を聞いた上で、それでも自分が、麗二と一緒にいることができるかを……」

 シオンはカップを置いた。紅茶はろくに減っていなかったが、もうそれ以上口をつける気にはなれなかった。

 百合は自分に、何か重要な話をしようとしている。それは母に関わる話であると同時に、麗二の過去に関わる話でもあった。

 シオンは麗二のことが知りたかった。今朝の麗二が見せた、あの悲しげな微笑み――。あの表情の裏で麗二が何を思っていたのか、シオンはどうしても知りたかった。今や麗二は、母と同じかそれ以上に、シオンにとって大切な存在となっていたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る