疼く記憶

 同じ頃、麗二は部屋の揺り椅子に腰かけ、物思いに耽りながら白い天井を見つめていた。そこへ扉をノックする音が聞こえ、麗二は椅子から立ち上がって扉の方へと向かった。

 扉を開けると、そこには白いバスローブに身を包んだ百合がいた。麗二は露骨に嫌そうな顔をしたが、百合は気にした様子もなく言った。

「話があるの。今、時間ある?」

 そう言うが早いが、百合は麗二の返事も聞かずに部屋に入って来ると、一番座り心地のいい椅子にどっかと腰を下ろした。それを見て麗二はため息をついた。この従姉は昔からこうだった。相手の都合など、最初から構うつもりはないのだ。

 麗二は渋々百合の向かいの椅子に腰を下ろした。百合は足と腕をそれぞれ組むと、椅子にふんぞり返る格好で言った。

「あんたさ、シオンちゃんのことどう思ってるの?」

 いきなり核心を突かれ、麗二は思わず顔をしかめた。容赦のなさも相変わらずだ。

「……百合さんには関係ないことだ。放っておいてくれ」

 朝と同じ言葉を麗二は繰り返した。だが、それで百合が引き下がるはずもなかった。

「ま、聞かなくたってわかるけどね。好きなんでしょう?あの子のこと」

 またしても核心を突かれ、麗二はいっそう顔をしかめた。どうしてこの人は、人の一番触れられたくないところをズバズバと突いてくるのだろう。

「……僕が誰を好きになろうと、あなたには関係のないことだ。放っておいてくれ」麗二が努めて冷淡な声を出した。

「そうはいかないわ。朝も言ったけど、あんたの結婚はあんただけの問題じゃないの。これは高瀬川家と、汐ノ宮家全体に関わる問題なんだからね」

 百合が顎を上げて言い返した。口では到底この従姉に勝てそうもない。

「だいたい、あんな身元のわからない子を家に置いておくなんてどうかしてるわ」百合がなおも言った。「警察にも届けないで行方不明の女の子を匿ってるなんて、世間に知れたら大変なことになるわよ。会社の評判だって落ちるかもしれないし、あんただって経営に関わってるんだから、それくらいわかるでしょう?」

 麗二は唇を引き結んだ。百合の言葉は正論だ。本来ならば、自分がシオンをいつまでも手元に置いておく理由はない。警察かどこかへシオンを連れて行き、事情を話して保護してもらうのが筋だ。それをせずに自分がシオンの世話をしているのは、単にシオンを手放したくないからに過ぎなかった。

「……それに、あたしは心配なのよ」

 不意に百合の口調が変わった。絨毯に視線を落とし、どこか思い詰めた表情をしている。麗二は不可解そうに従姉の顔を見つめた。

「心配って、いったい何を……」

「七年前のことよ。あんただって、忘れたわけじゃないでしょう?」

 百合が間髪入れずに言った。その言葉が刃のように突き刺さり、麗二はぴんと背筋を伸ばした。

「……あの時も確かこんな状況だったわ」百合が暗い顔で続けた。「浜辺で倒れていたあの人を助け出して、記憶をなくしてることを知ってこの家に住まわせた。だけど、そのせいで……」

 百合は皆まで言うことができなかった。唇を引き結び、さっと麗二から顔を背ける。その様子はまるで、目の前に映し出された忌まわしい記憶を振り払おうとしているように思えた。

 麗二は無言のままうつむいた。もちろん忘れてなどいない。あの悪夢のような日のことは、何年経っても忘れられるはずがない―。

 沈黙の帷が降りた部屋に、掛け時計が時を刻む音だけが響く。短針が七時を差し、ゴーンゴーンという低い音が部屋に響き渡った時、魔法が解けたように百合が唐突に顔を上げた。

「麗二、悪いことは言わない。シオンちゃんのことは諦めなさい」

 百合がきっぱりと言った。麗二がのろのろと顔を上げる。真正面から自分を見据える百合の顔は、いつになく真剣なものだった。

「七年前のことにあの子が関係あるかどうかはわからない。でも、どっちにしてもあの子じゃあんたとは釣り合わないわ。あんたには他にいくらでも選択肢がある。何ならあたしが、あんたに見合う相手を探してあげてもいいわ。何にせよ、シオンちゃんには一刻も早く出て行ってもらうことね」

 百合はそれだけ言うと立ち上がり、さっさと部屋を出て行ってしまった。扉がバタンと音を立て閉まり、部屋は元の静寂に包まれる。

 麗二は深々とため息をついた。まったく迷惑な人だ。来るのも唐突なら帰るのも唐突。おまけに人の心にまで土足で踏み込んでくる。

 だが麗二は、百合を単なる無神経な人間だと断じる気にはなれなかった。百合は百合なりに、自分の身を案じてくれているのだとわかっているからだ。

 麗二はぼんやりと床を見つめていたが、不意に立ち上がると、壁際にある棚の方に近づいていった。その上に置かれた写真立てを手に取って眺める。海をバックにして、ぎこちない笑みを浮かべている高校生の自分が映っている。その後ろには父が立っている。海だというのにスーツを着こみ、カメラを向けられていることに気づいていないのか、明後日の方を向きながら何やら考え事をしている。仕事で手が空き、久しぶりに家に帰ってきたところを撮ったものだっただろうか。でもこの時も、父の頭の中は仕事のことでいっぱいだったのだろう。

 麗二は父の隣に視線を移した。自分の肩に両手を乗せ、幸福そうな笑みを浮かべている女性の姿が見える。空色のワンピースの上に白いボレロを羽織り、首元にはパールのネックレスをつけている。肩まで伸びた栗色の髪はきれいに内巻きにされ、肌は年齢を感じさせないほどに艶やかだ。その写真を人に見せるたび、周りの人はたいそう驚いたものだ。この方、麗二君のお母さんですか。いやぁお若いですねぇ。てっきりお姉さんかと思いました。

 麗二はじっとその写真を見つめていたが、不意に写真に雫が落ちた。一粒、二粒と、雫はとめどなく落ち続ける。そうすることで、過去の悪夢を洗い流そうとするかのように。

 麗二は腕で双眸を覆った。百合がこの場にいなくてよかった。いや、他の誰にも、こんな姿を見られたくはなかった。ましてシオンには――シオンにだけは、知られるわけにはいかない――。

「母さん……」

 麗二は写真を胸に抱くと、双眸を覆ったまま嗚咽を漏らし始めた。助けを求めるかのような悲痛なその叫びは、波の音に紛れ、夜の闇へと溶けていった。



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