自分の足で
その時、きい、という音が前方から聞こえ、シオンはそちらを振り返った。見ると、全身を黒い布で包んだ〈人間〉が立っていた。
口元に豊かな白い髭を生やしたその〈人間〉は、眠っているように細い目をしており、温厚そうな顔をシオンの方に向けている。背筋のすっと伸びた細長い姿は、時折海底に流れ着く流木を思わせる。目の片側には丸いレンズのようなものがはめられ、細い金色の鎖で耳元につながれている。身につけている黒い布は〈足〉の後ろ側で先端が二つに分かれており、まるで海老の尻尾のようだった。
(これが……人間?)
シオンは目の前の〈人間〉の姿をまじまじと見つめた。海の世界では、男や老人といった概念は存在しない。薬をくれたあの魔女は老婆の姿をしていたが、それ以外でシオンが知っているのは、自分や母のような若い女の人魚だけだ。だけど人間の世界には、男や女、老人や子どもといった様々な種類の人間が存在するらしい。母から聞いた〈人間〉の分類を思い出しながら、白髪や髭といった特徴から、シオンはこの人間が〈男〉の〈老人〉だと判断した。
「……お目覚めのようですな」
男が言った。とても柔らかく、聞く者に落ち着きを与える声だった。男はシオンの全身をさっと見渡すと、安心した顔で微笑んだ。
「どこにもお怪我はないようで幸いでございます。坊ちゃまも、あなた様のことを大層心配しておられましたので」
「ええと……私はどうしてここに?」
シオンは当惑しながら尋ねた。初めて目にする〈人間〉を前に、どんな会話をすればよいかわからなかった。
「あなた様は浜辺にお倒れになっていたのでございます」男が言った。「それを坊ちゃまが発見され、ここまでお連れになった次第でございまして。最初にあなた様のお姿を拝見した時は、いかがしたものかと思いましたが……奥様の服が残っていたのが幸いでございました」
「ふく?」
「ええ。そのワンピースは、ちょうど奥様があなた様ぐらいの年齢の頃、よくお召しになっていたものでございました。奥様は、ハイビスカスの花が大層お好きだったものですから……」
男がしみじみと言った。シオンは改めて自分の身体を見下ろした。話の流れから察するに、男は自分が身につけている布のことを言っているらしい。
そう言えば、人間は貝の代わりに、〈服〉というものを身につけて暮らしているのだと母が言っていた。どうやらこれがその〈服〉で、中でも〈わんぴーす〉というものであるらしい。そして、自分が海星だと思っていたのは、〈はいびすかす〉と言う〈はな〉のことらしい。聞きなれない言葉の数々を、シオンは頭の中でゆっくりと反芻した。
「……体調の方は、まだ万全と言うわけにはいかないようですな」
ぼんやりとした様子のシオンを見て、男が細い目をさらに細めた。シオンは顔を上げると、小首を傾げながら尋ねた。
「あの、ところで、あなたは……?」
男ははっとした様子で微かに目を開いた。すぐに胸元に手を当て、腰を折ってお辞儀をする。
「これは失礼いたしました。私、この屋敷の執事をしております、
「しつじ?」
「ええ、長年にわたって旦那様にお仕えし、この屋敷のことは全て任されております」
鳩崎が朗々とした声で言った。胸に手を当てたまま、すっと背筋を伸ばして立つその姿には、長年に渡って一族に仕えてきた者の矜持がはっきりと表れている。
「あの、さっき、『ぼっちゃま』が私をここに連れてきたって言ってましたけど、その『ぼっちゃま』というのは?」
「この高瀬川家のご子息、麗二様のことでございます。私がここに参りましたのも、あなたをお呼びするようにと、坊ちゃまからお申し付けがあったからでございまして」
「私を?」
「はい。坊ちゃまは慈悲深いお方でして、あなた様のことを大層心配しておられました。もしも体調に問題がないようでしたら、少しばかりご足労頂いてもよろしいでしょうか?」
シオンはぽかんとして鳩崎を見つめた。〈ごそくろう〉とは、いったい何のことを言っているのだろう。
「どうかされましたか? まだご気分がすぐれませんか?それとも、足のお加減が悪いのでしょうか?」
鳩崎が心配そうに尋ねてきた。〈足〉と言う単語を聞いて、シオンはまたしても母の言葉を思い出した。
人魚が鰭を使って泳ぐように、人間は〈足〉を使って〈歩く〉ことで生活しているのだと母は言っていた。鳩崎の言う〈ごそくろう〉もおそらくは同じ意味だろう。つまり彼は、シオンに歩けと言っているのだ。
シオンは自分の〈足〉をじっと見つめた。まだ自分のものとは思えない、二本の棒のような物体。だけど人間の世界で暮らすためには、これを使って〈歩く〉ということをしなければならないのだ。
シオンは覚悟を決めてきゅっと口を結ぶと、薄い布の中からそっと〈足〉を抜き出し、身体の向きを変え、鳩崎がしているように、それらを恐る恐る地面につけてみた。
「わぁ……」
ひとたび〈足〉が地面に触れた途端、シオンの口から大きな感嘆の息が漏れた。シオンの〈足〉はごく小さなものなのに、触れた先から様々な温もりが伝わってきて、自分が大地の一部となり、昔からそこに根づいていたような感覚を抱かせた。シオンは目を瞑り、うっとりとして初めて味わう地上の感触に心を預けた。
「あの……大丈夫でしょうか? お加減が悪いのでしたら、どうぞご無理なさらずに……」
鳩崎が心配そうに声をかけてきた。シオンははっとして目を開けると、慌てて鳩崎の方を見上げた。
「あ……ごめんなさい。私は大丈夫です。すぐ行きますから……」
シオンはそう言うと、自分が腰掛けている台に手をつき、勢いよく身体を浮かせた。
だが次の瞬間、身体が突然ぐらりと揺れたかと思うと、地面が急速にシオンの眼前へ迫ってきた。
(――ぶつかる!)
シオンは反射的に目を閉じたが、そこで顔が何か柔らかいものに触れた。その柔らかい何かが自分の身体を支えている。
シオンが怖々と目を開けると、眼前に黒い布が広がっているのが見えた。ゆっくりと顔を上げると、鳩崎の心配そうな瞳とぶつかった。
「お目覚めになってからまだ時間が経っておりません。どうか、あまり無理なさらぬよう……」
鳩崎はそう言うと、シオンの身体をそっと自分から離した。どうやら自分が地面にぶつかりそうになったのを、彼が助けてくれたらしい。
「いえ……あの、ごめんなさい。ありがとうございます」
シオンは困惑しながら応えた。いくら〈足〉が生えたとは言え、すぐに〈歩く〉ことまではできないようだ。
その時、ふと〈足〉の方に違和感を覚えてシオンは視線を落としたが、そこにある光景を見て思わず目を丸くした。自分の身体から生えている二本の〈足〉、それが鳩先と同じように、ぴったりと地面についているのだ。周囲に水のないこの空間で、鳩崎の助けもない中で、この細い〈足〉だけが自分の身体を支えている。
「……そのご様子では、もう少しお休みになった方がよろしいようですな」
鳩崎がため息混じりに言った。
「坊ちゃまのことでしたらお気になさいませぬよう 時間を改めて頂くよう、私からお伝えしておきますので……」
「あの」
シオンが不意に口を挟んだ。ゆっくりと〈足〉から視線を上げ、鳩崎の目をまっすぐに見つめる。
「私……『ぼっちゃま』に会ってみたいです。手を貸してもらえたら、きっと〈歩く〉こともできると思うんです。
だからお願いです。私を、『ぼっちゃま』のところへ連れていってください」
シオンのその申し出に、鳩崎が驚いた様子で目を開いた。そこで初めて、瞼の奥に広がる静かな黒い瞳が見えた。
シオンは鳩崎から目を逸らさなかった。大地を踏みしめる二本の足、そこから伝わる温もりを一身に感じながら、シオンはようやく、自分が本当に人間になったことを自覚したのだった。
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